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食欲は敵!(後編)

 気持ちいいぞ、と誰かが言っていた。

 そんなことを思い出しながら、赤峰烈火は自転車で丘を下りる。ブレーキをかけながら。

 あたりは暗く、だが星空はそこまで綺麗には見えない。自転車が小枝を折ったり、ガタガタのアスファルトのせいでがちゃがちゃと軋む。公衆電話や自販機が光を放っている。真横に「霊」の文字が目に入る。木の板に描かれており、つたが這って他の文字が見えにくい。自転車を漕ぐスピードを速める。


 上り側のケーブルカー乗り場が見える。明かりが消えている。


 しかし、その近くにある駐輪所には雪乃の自転車がまだあった。


 なにか悪い予感がする。


 ケーブルカー沿いの歩道を自転車で駆け上がる。そこは傾斜が急だし、アスファルトで舗装されていないし、いつもは使わない。顔には枝が当たり、タイヤは小石を蹴って、樹の根で体が跳ねる。

 トンネルの上を通り、また線路の横につく。自転車の軋む音がうるさく、なまっていた脚の筋肉が悲鳴を上げだしたときだった。


「助けて」


 その声は氷室雪乃の声に違いなかった。


 まだ上のほうから聞こえる。足の筋肉をたたいて、悲鳴を止める。そして、力強く漕ぐ。


「うっりゃわあああっーーー!」


 遠くに光が見える。ケーブルカーだ。


「うわりゃあああっーーー!」


「烈火くん」


 ケーブルカーが近づいている。


「ケーブルカー、止まらない」


 雪乃は片手を口に添えておかしいことを伝えようとする。その一文で烈火がどのくらいのことを把握できるのか。それを推敲する時間はなかった。


「理解しましたっ!」


 烈火はUターンして、ケーブルカーから離れるようにして坂を下る。


 ケーブルカーがトンネルへと差し掛かる。


 雪乃はトンネルに覆われ始める視界の端で、烈火が近づいているのが映った。

 線路と歩道との間には、人の高さほどある木の柵がある。それなのにどうしようというのか。


「飛べっ!飛ぶんだっ!」


 烈火は言い聞かせるようにしながら助走をつけて、太い根を利用して宙へ飛ぶ。

 月明かりを背に受けながら自転車のシルエットが柵に映る。カゴに宇宙人でもいるのかもしれない。どこまででも飛んでいくような気さえした。


 だが、柵を越えることはなかった。


 自転車は柵へ激突した。


「壁を飛び越えるとはっ!壁よりも自分が高くに行くことだっ!」


 柵を踏み倒して、その上を通る。

 烈火はやり通した。


「でも……」


 どうすることもできない。そう雪乃は言いかけた。しかし、言い終わる前に口をつぐんだ。烈火くんならなにかやってくれるかもしれない。そうでないと困る。


 柵をなぎ倒した烈火は、自転車をケーブルカーの横っ腹にぶつけた。


 ケーブルカーは止まらない。


 自転車はケーブルカーから抜けなくなったせいで引きずられ、ともに坂を下っていく。

 烈火は窓に手をかけて、自転車から離れる。


「先輩っ!」


「早く離れて。トンネルに入、」


 すでにケーブルカーはトンネルへ入る。


 はずだった。


 自転車がトンネルに引っかかって、ケーブルカーは頭だけトンネルに入った状態で動きが止まった。


 一度きりの大きなチャンス。


 烈火は考える。

 今日学んだ。幽霊は食欲に弱い。そして、バッグの底には焼きそばパン。二つのピースからできるパズルは簡単に解けた。


 先輩に焼きそばパンを食べてもらえばいいんだ。


 だが。先輩に、こんなぐじゅぐじゅのパンを渡したくない。こんなものをバッグに入れるのにためらいのない、汚い人間だと思われてしまう。それは避けたい。先輩に嫌われたくない。


 違う。


 俺は先輩に生きていてほしい。


 嫌われることといなくなってしまうことを天秤にかけるほど、俺は器の小さい人間なのか。ここは一択だ。迷うな。


 烈火はバッグの中に手を突っ込んだ。そして奥底から焼きそばパンをつかみ取った。

 それは確かに焼きそばパンであった。ラップで包まれているためにかろうじて形を保っていた。

 それを窓の中にねじ込む。その手は不安で震えていた。


「これを食べてくださいっ!」


「これは……なに?」


「焼きそばパンですっ!」


「焼きそばパン……どうしてここで焼きそばパン」


「……幽霊は食欲に弱い」


 雪乃はただ渡されたそれを見つめていた。元来こういうものは汚いと思って近づかない主義なのだ。呪物については興味関心が上回るが、そうでないものは駄目である。だが後輩が真剣な顔で渡してきてくれたのだ。深く息を吐いてラップを取り始める。勇気に対する賛辞は勇気で返す。


 焼きそばパンを食べた。

 飲んだといってもいい。


「おいしそうに食べてくださいっ!そうじゃないと悪霊退散しませんっ!」


「そうか……そうかもしれない」


 雪乃は目を閉じて呼吸もしないようにして、それにかぶりついた。次から次へと口に入れた。ラップについている白と茶色も舐めとった。


 しかし、ケーブルカーは止まらない。


 もう手は尽くしたはずだ。

 緊急停止ボタンは押したし、自転車はぶつけたし、焼きそばパンだって食べた。


 悲鳴のような音がする。

 自転車がひしゃげ始めている。ケーブルカーが、ゆっくりとだが動いていく。

 烈火も指を窓にかけているが、徐々に握力がなくなってきて何度も握りなおしている。


 雪乃は考える。

 幽霊や怪談は社会不安が根底にある。

 今の状況はどのような不安によって生み出されたのだろうか。


 このケーブルカーは通学のためのものだ。それが止まらないというのは、終わらない通学ということだ。つまり逃げることのできない社会生活、受験に対する不安や恐怖が根底にあるのではないか。


 そうだとしたらやることは一つ。


 雪乃はバッグの底から英単語帳を取り出した。


 覚えた証の折り目や、いくらかの汚れ。カバーは昔にとってある。二年間、苦楽を共にしてきた。これからの一年だって一緒にいるはずだった。どんなときでも頭の奥にこびりついて離れない。愛おしく思いながら表紙を指でなぞる。


 雪乃は英単語帳を窓から放り投げた。


 自転車は完全に折れ曲がり、ケーブルカーが動き出そうとしていた。だが、


 ケーブルカーは動かない。


 ケーブルカーの明かりが消える。

 雪乃はドアの取っ手に力を入れる。

 すると、摩擦を手に残してドアは開いた。


 すでに窓から落ちて大の字になっている烈火のほうまで駆け寄った。


「俺たち助かりました、助かったんです」


「私が不注意だった」


「そんなことないですっ!」


 雪乃は周囲を見渡そうとして止めた。

 英単語帳を拾うのは明日でもいいだろう。

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