第四章 侵食
真由は、この数日で急速にやつれていった。頬はこけ、同僚に心配されるほど目の下には濃い隈が浮かんでいる。だが眠れない夜を過ごしたことが原因ではない。あの「名簿」が、じわじわと現実を侵食している。その確信が彼女を追い詰めていた。
朝、オフィスに入ると、普段なら気にも留めない会話が耳に引っかかった。
「昨日、三〇一号室の人に偶然会ってさ」「え、あの人? 珍しいね」
コピー機の前で先輩社員が談笑している。真由は思わず立ち止まった。三〇一号室の住人――?
恐る恐る近寄ると、二人は当たり前のように続けた。「背が高くて無口な人でしょ。ちょっと怖い感じだけど、意外と礼儀正しいんだよな」「そうそう、ほら去年の忘年会にも一瞬だけ来たじゃない」
忘年会? 去年?真由は胸が冷たくなるのを感じた。彼らが話しているのは、間違いなくあの「廊下で見た男」だった。昨日まで誰も知らなかったはずのその男が、いまや「昔からそこにいた住人」として、自然に語られている。
隣のデスクに座る佳奈に確認すると、彼女も首をかしげながら答えた。「え、三〇一号室の人? そりゃいるでしょ。前から住んでるじゃん」
「佳奈……あの人、昨日まで存在しなかったよ」そう必死に訴えたが、佳奈は苦笑して肩をすくめるだけだった。「大丈夫? 疲れてない?」
世界の方が狂っているのか、自分の方が狂っているのか。境界が溶けていく感覚に、吐き気が込み上げた。
その夜、真由は帰宅する気力を失い、佳奈と一緒に食事を取った。居酒屋のテーブルで、話題は自然と例のマンションに及んだ。
「そういえば私さ……最近、変なことが起きてるんだよね」佳奈の声は少し震えていた。
「家に帰ったらポストに紙が入ってて。住人名簿みたいなの。そこに私の名前が……三〇四号室って書いてあったの」
真由は箸を落とした。「……三〇四号室? 佳奈、あなたの家は別の場所でしょ」「そうなんだけど……昨日、マンションに行ってみたら、本当に三〇四号室のポストに“佐伯佳奈”って貼ってあったの」
佳奈の目は真剣そのものだった。名簿は、彼女にまで及び始めている。
部屋に戻ると、ポストに白い封筒が差し込まれていた。差出人の記載はない。中には一枚のコピー用紙――「住人名簿 第四版」とだけ印刷されていた。
三〇一号室には、あの男の名前と写真。そして、三〇四号室には佳奈の名前と笑顔の証明写真。
ページをめくった瞬間、背筋が凍った。自分の部屋の欄――三〇二号室には、もう「佐伯恵」の名前はなく、代わりに「佐伯真由」と記されていた。写真は、入社式で撮った自分の証明写真。まるで初めからそこに存在していたかのように貼り付けられている。
名簿は記録ではない。――現実を書き換える装置だ。
翌晩。廊下を歩いていると、三〇四号室の前で佳奈の声がした。「……やめて。入ってこないで」
ドア越しに聞こえるその声は、佳奈そのものだった。だが、昨日居酒屋で一緒に笑っていた彼女とは違う。どこか遠くから響いてくるようで、音の輪郭が歪んでいた。
「佳奈! 私だよ、真由!」叫んでも返答はなかった。代わりに、後ろから静かな声がした。
「もうすぐ、あなたの番ですよ」
振り返ると、廊下の奥に管理人が立っていた。相変わらず濁った目をした男。だがその手に抱えられている名簿は、以前よりも分厚くなっている。
「名簿に逆らうことはできません。現実は、書かれた通りに変わるのです」
ページが開かれた。そこには、笑みを浮かべた自分自身の写真が貼られていた。現実の自分よりも少しだけ無理に笑っている、ぎこちない顔。
「これは……私じゃない」声を振り絞ると、管理人は低く囁いた。「いいえ。これが本当の“あなた”です」
恐怖に突き動かされ、真由は廊下を走った。階段を駆け下りる――はずだった。
だが足を止めると、また三階の廊下に立っていた。同じ番号の部屋が並び、同じ蛍光灯がちらつく。走っても走っても、出口はなく、ただ廊下が繰り返される。
その奥で三〇一号室のドアが静かに開いた。闇の中から、背の高い男が現れる。その背後には、名簿に載っていたはずの住人たちがずらりと並んでいた。写真から切り取られた顔が、人間の皮膚に雑に貼り付いたように。
「ようこそ」複数の声が重なった。「もうすぐ、こちら側へ」