第三章 名簿の秘密
月曜の朝、真由は会社に向かう足取りが重かった。寝不足のせいで頭がぼんやりしている。昨夜、壁を叩く音は一度だけでは終わらなかった。深夜二時、三時と、まるで誰かが中から合図を送っているかのように断続的に響いてきたのだ。
出社すると、同期の佳奈が心配そうに声をかけてきた。「なんか顔色悪くない? 大丈夫?」「ちょっと眠れてなくて……」「例の部屋のせいでしょ」
佳奈の声は冗談めかしていたが、真由は笑えなかった。結局、夜中に怖くなって布団に潜り込んだだけで、何もできなかった自分が情けなかった。
昼休み、佳奈はスマホを取り出し、軽い調子で言った。「ネットで“佐伯恵 事故”とか調べてみようか?」「やめて……」思わず強い声が出た。調べれば、何か決定的な事実が出てきそうで怖かった。
その晩。会社帰りの足は自然と重くなる。マンションに帰るのが嫌で、遠回りをしてコンビニのイートインで時間を潰した。
夜九時を過ぎ、意を決して帰宅すると、エレベーターの中に人影があった。三階のボタンを押すと、隣に立っていた背の高い男性が「三〇一」と呟いた。
……三〇一号室?あの部屋に、ついに住人が。
「こんばんは」と声をかけたが、男は無言で正面を見つめたまま。どこかぎこちない立ち姿だった。肩が不自然に揺れ、呼吸のリズムも乱れている。
三階に着き、男はすぐに降りていった。真由も後を追うように廊下を歩く。男は三〇一号室の前に立ち、鍵を差し込んだ――が、ドアは開かなかった。何度も力任せに回そうとするが、金属音が虚しく響くだけ。
やがて男は諦め、こちらを一度だけ振り返った。その顔は、写真で見た「佐伯恵」とそっくりだった。男女の違いを超えて、あの虚ろな目の印象だけが、完全に一致していた。
思わず息を呑んだ瞬間、廊下の蛍光灯がちらつき、再び点いたときには男の姿は消えていた。
翌日、真由は勇気を出して管理人室を訪れた。小窓のカーテンは半分閉じられていて、奥からあの濁った目が覗いている。
「三〇一号室の住人って……どんな人なんですか」しばらく沈黙があった後、低い声が返ってきた。「……名簿に書いてあるでしょう」
「でも、昨日、男の人を見たんです。名簿の顔と似てて……でも、あれは佐伯さんじゃ――」「名簿を見ればわかります」
有無を言わせない調子だった。
部屋に戻ると、すぐにファイルを開いた。三〇一号室のページ。昨夜まで「佐伯恵」とあったはずの欄に、見知らぬ男性の名前と顔写真が貼られていた。
「……うそ」
声が震えた。確かに昨日までは女性の写真だった。佳奈に見せたときも、二人で「この人」と確認したはずだ。それが、今は別人になっている。
慌てて自分の部屋の欄を確認すると――「佐伯恵」の名前は消えていた。代わりにそこに載っていたのは、真由自身の名前と、先週撮ったばかりの入社式の証明写真だった。
どうして。そんなはずはない。
だがページをめくる手が止まらなかった。他の部屋の住人たちも、昨日までと顔ぶれが変わっている気がする。名前も写真も、少しずつ、じわじわと書き換えられている。
最後のページを開いた瞬間、背筋が凍った。まだ誰も入居していないはずの「空室」の欄に、昨日エレベーターで見たあの男の写真が貼られていたのだ。
しかも、下の余白には新たに「仮名:佐伯恵」と鉛筆書きされていた。
夜。名簿を閉じても、頭から離れなかった。――名簿は生きている。そう思わざるを得なかった。
そして理解した。これは住人を記録しているのではない。
“住人を作っている”のだ、と。