第二章 新生活
翌朝、真由は少し早めに目を覚ました。狭い部屋で迎える初めての朝。窓の外からは近くの工事現場の音が響き、都会らしいざわついた空気に包まれていた。
新社会人としての出社二日目。昨日は入社式と研修があっただけだったが、今日は各部署の先輩に挨拶をするらしい。スーツに袖を通すと、鏡に映る自分が妙に疲れて見えた。昨日の夜、あまり眠れなかったせいだ。
廊下の足音が気になった。夜中の二時過ぎ、誰かが何度も部屋の前を往復していたように思う。覗き穴から確認しても、そこには誰もいなかった。「……気のせい、だよね」口に出しても不安は消えなかった。
会社は都心にあるビルの十階。初めての満員電車で体力を消耗しながらも、なんとか定時に出社した。
「おはようございます」緊張しながら声をかけると、先輩たちは一応は笑顔を返してくれる。だが、忙しそうにパソコンに向かう姿に気後れし、自然と肩が縮こまった。
昼休み、同期の佳奈が声をかけてくれた。「真由、昨日引っ越しだったんでしょ? どう? 部屋は」佳奈は明るくて気さくなタイプで、真由にとって数少ない心の支えだった。
「うん……まあ、安いし会社から近いし、便利かな。でもね、住人に全然会わないの」「へぇ、そうなんだ」佳奈はサンドイッチを頬張りながら首をかしげる。「エレベーターでも廊下でも、誰ともすれ違わなくて。管理人さんから住人名簿を渡されたんだけど、けっこう部屋は埋まってるみたいなのに」「ちょっと不気味だね。まあ、東京だと隣の人の顔も知らないままって珍しくないけど」
確かにその通りだ。けれど、昨夜の足音のことを思い出すと、胸の奥がざわついた。
数日が経ち、真由の生活は少しずつ形になっていった。朝は電車に揺られて会社へ行き、昼は同期と昼食をとり、夜は疲れ果てて部屋に帰る。一見、平凡で普通の日常だった。
だが、気になることが増えていた。
夜、廊下の奥からすすり泣きのような声がする。ゴミを出しに行くと、隣室――三〇一号室の前に、女物のサンダルが揃えて置かれている。だが、一度も人が出入りする姿を見たことがない。
名簿には「佐伯恵」とあった。真由と同じくらいの年齢の女性だ。なんとなく気になって、ドアの前に立ち耳を澄ますと、かすかにテレビの音がした。「あ……」思わず小さく声を漏らしてしまった。
すると、部屋の中からはっきりと声が返ってきた。「入ってこないで」
驚いて飛び退いた。心臓が早鐘のように打ち、しばらくその場を動けなかった。だが次の瞬間には、テレビの音も、人の気配もすっかり消えていた。
週末、佳奈を部屋に呼んだ。仕事帰りに二人でスーパーに寄り、惣菜や缶チューハイを買い込んで、ささやかな宅飲みをした。
「思ったよりキレイじゃん」佳奈は部屋を見回しながら言った。「外観のわりにはね。でも、なんか落ち着かないの。ほら、これ……」
真由は例のファイルを取り出し、佳奈に見せた。佳奈はページをめくるたびに眉をひそめる。「……全員の顔写真入りって、珍しいね。しかも古い感じ」「でしょ? しかもさ、私の部屋なのに“佐伯恵”って人の名前が載ってるの」「え、なにそれ」
二人で笑い飛ばそうとしたが、笑い声は部屋に吸い込まれるようにすぐ消えた。妙に静まり返った空気の中、真由はふと感じた。――この部屋には、自分たち以外の誰かがいる。
その夜、佳奈が帰った後、真由は名簿をもう一度開いた。自分の部屋、三〇二号室の「佐伯恵」の顔写真。
目が合った気がした。いや、それどころではない。確かに、写真の口元がわずかに動いた。
――「見てる」
幻聴かと思った。だがその瞬間、部屋の壁の向こうから、はっきりとしたノック音が三回、響いた。