表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第一章 入居

 四月の空気はまだ少し冷たかったが、街には新生活を始める人々のざわめきが満ちていた。スーツ姿で緊張気味に歩く若者、慣れない手つきで自転車に荷物を積む学生、引っ越しトラックがひっきりなしに出入りする住宅街。


 その中を、大きなキャリーバッグを引きずりながら、真由は歩いていた。社会人一年目。地方から出てきて、今日から本格的に東京での生活が始まる。


 胸は期待よりも、不安でいっぱいだった。大学時代の友人はほとんど地方に残っており、頼れる人は少ない。職場の同期もまだ打ち解け切れていない。だからせめて、住まいくらいは落ち着きたいと思っていたのだ。


 新しく借りた部屋は、会社から徒歩十五分の距離にある。築四十年の古いマンションで、外観はくすんだ灰色。コンクリートの壁には細かいひびが走り、エントランスの自動ドアはぎこちなく開いた。


 正直、第一印象はよくなかった。だが、家賃は相場の半分ほど。研修中の安月給では贅沢を言えない。「安すぎる物件はやめた方がいい」母の言葉を思い出したが、ここ以外に現実的な選択肢はなかった。


 エントランスに入ると、受付のような小さな窓口があり、そこに初老の管理人が座っていた。背が低く、痩せこけた体。白髪まじりの髪はぼさぼさで、何より印象的だったのは、その濁った目だった。じっと見つめられると、心の奥まで覗かれているような不快さを覚える。


 「新しく入居される……三〇二号室の方ですね」低い声でそう言うと、管理人は書類に目を落とし、ゆっくりと印鑑を押した。


 契約手続きは不動産屋で済ませていたので、ここでは鍵の受け渡しと簡単な説明だけのはずだった。「部屋の使い方や注意事項は特にありません。ただ……」管理人は机の下から分厚いファイルを取り出した。


「これをお渡しします。住人名簿です」


 ファイルは異様なほど重かった。ページを開くと、部屋番号ごとに名前と顔写真が載っている。証明写真のように無表情な写真ばかりで、どれも少し色褪せている。


 「これは……必要なんですか?」「災害時や自治会活動で使います。緊急のとき、誰がどの部屋にいるか分からないと困りますから」


 理屈は理解できた。だが、全員の顔写真まで揃っているのは妙だった。しかも、どの顔にもどこか影が差しているようで、不自然に感じられる。


 管理人は名簿を押し付けるように渡すと、無言で窓口のカーテンを閉めてしまった。


 真由は不安を抱えたまま、エレベーターに乗った。扉が閉まる瞬間、ガラス越しに、カーテンの隙間から管理人の濁った目がこちらを見ているのが見えた。

ぞくりと背筋が冷える。


 三階に着き、部屋の前に立つと、ドアは古びていて塗装が剥げ、取っ手も冷たかった。深呼吸して鍵を差し込み、扉を開ける。


 ワンルームの狭い空間。畳は新しいものに張り替えられているようだが、壁紙にはシミが残り、窓の外は隣の建物の壁でほとんど光が入らない。だが、家具を置き、自分のものを並べていけば、きっと居心地の良い部屋になるはずだ。


 そう思い込もうとした。


 キャリーバッグを置き、改めてファイルを開く。自分の部屋――三〇二号室には「佐伯恵」という女性の名前が記されていた。顔写真は二十代前半くらい、真由と年の近い女性。無表情で、どこか死人のような目をしている。


 ……おかしい。ここに住むのは自分のはずなのに。

ページをめくる指が止まった。


 名簿の最初のページに貼られている「管理人」の欄。そこには、さきほどの老人の顔写真があった。名前は……黒く塗りつぶされて読めなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ