第10話 全てを捨てた覚悟
5日目の夜が明けた。
「ムルラ……大丈夫? ムルラ?」
エトラスは目を覚ますとすぐ、彼女の様子をうかがった。
相変わらず息は弱く、意識がもうろうとしている。
「ムルラ、私の声が聞こえるか?」
「……エトラス、ごめんなさい。私を置いて行って……」
あの真っ赤に染まっていた唇は、今では青白く寒さに小刻みに震えていた。
((これは休んでも治らない。どうすればいいんだ。シュミーレは、いやターズは何と言っていた? 全てを思い出せ!))
彼は、ムルラを抱きかかえながら、言われていた一語一句を思い出していた。
『これは神山に限っての話ではない、俺たちの生きる術の一つになる。だから伝えておくが、もし神山で頭が痛くなったら、すぐに降りる判断をしろ!』
ターズの話では、彼女は空気が薄いことで起こる病気に冒されている。
『運が良ければ降りるだけで回復する。だが、その時は登るか下山するかの判断が必要になる。分かったか!』
(((とにかく、降りよう!!!)))
エトラスは必要最低限の荷物だけを鞄に詰めると、ムルラを背負って今まで登ってきた尾根の道を降りていった。
*§*
6日目の朝。
昨日はひたすら下山を続けていった。7合目と6合目の合間で体力の限界を超えたため、その場で一度休み、再びムルラを背負って降り続けた。
ムルラの調子はまだ悪い、か弱い声で「ごめんなさい……」とだけ何度も言葉にしていたが、彼は「気にしないでいい」とだけ答えていた。
エトラスの願いは、とにかく彼女を助けたい。
ただ、その思いだけで進み続けている。
そうして、日が暮れていくと休める場所を探して夜を越えた。
*§*
7日目。
もう、どこまで降りてきたのかは分からない。
ムルラの様子はだいぶ顔色が良くなってきた。それは、下山して空気の薄さが和らいだ結果だった。
「……エトラス、なんで私を捨てなかったの?」
「「私は騎士として育てられた。騎士は絶対に仲間を捨てない!」」
相変わらず弱気なムルラに言い聞かせて、再び背負って降りることにする。
*§*
8日目。
氷河の手前まで降りることができた。
この先は氷の谷間を越えなければならず、背負って進むのは不可能だった。だから彼女が完全回復するまで、この場にとどまることを決める。
「……ねえ、もういいの? 氷龍様に会わないといけないんでしょ?」
彼女は、あの時の強さは感じさせず、ただのか弱い少女と化している。
「私はもう、必要ないでしょ……捨てて一人で登って……」
体力の低下が影響しているのか、自暴自棄になっている。
「ムルラ……これも試練なんだ。たとえ一人で氷龍に会ったとしても、絶対に涙は得られない。だから、この困難を乗り越えることが大事だと思っている!」
とはいっても、エトラスも“涙狩りの試練”の成否など、どうでもよくなっていた。
今は進むことも戻ることもできない。だから、誰ひとりいない絶景に囲まれた大地で、二人で生き延びることだけを考えていた。
*§*
10日目。
あれから二日が過ぎた。
彼女の顔色はかなり良くなり、静かに眠っている。
空を見渡すと、まだ青空が広がり目的地である山頂も近くに見える。だが、その近いと感じる幻想そのものが150年の間、騎士を拒み続ける壁だと感じていた。
エトラスはこの場所で、一日三回、固形燃料で湯を沸かし、ムルラの好物である黒くて甘い菓子を溶かしてスープを作った。
「飲める?」
「うん」
そして、彼女の唇に近づけてゆっくりと飲ませていった。
おそらく、ムルラは助かるだろう。
では、この先どうする?
安全に帰ることができる期限まであと4日、覚悟を決めて登るか、諦めて帰還して敗者としての人生を送り続けるのか?
正直、彼の心はまだ諦めきれない。
これは、“涙狩りの試練”だ。おそらく歴代の騎士たちも、生きるか死ぬか、名誉か自分の身か……の、究極の選択を迫られているのだろう。
とにかく自分一人の話ではない。彼女の意見を尊重しよう。
*§*
11日目の夜。
ムルラは、まだ歩くことができないが、意識は完全に戻ってきていた。
エトラスは、最後の黒くて甘い菓子をお湯に溶かして「できたよ、君の好物……」と渡すと、彼女は「ありがとう」と言って、一口ずつ静かにすすった。
彼女の顔色は完全に戻ってきているし、もう心配することはないだろう。
ただ、覚悟の時が迫っていることも分かっている。
「ムルラ、そろそろ登るか降りるかを決めないといけない……」
「……エトラスはどうしたいの?」
今から降りれば、確実に助かるだろう。
だが、逆に登ることは命を捨てることに等しい。
さらに、もう山頂には雲がかかっていて、この場所も風が強くなっている。登るにしても降りるにしても明日には出発する必要がある。
「正直に言うと今、登れば帰還は難しい。だから君の気持ちを尊重したい」
もし、エトラス一人だったら迷いもなく登り続けるだろう。だが、彼女には帰る場所があるし、会いたい家族だっている。
「ねえ、私は……死んだと考えてほしい。だからもう、この体は貴方のもの。何をしてもいいんだよ!」
彼女の青い瞳は潤っていて、黒いスープで濡れた唇は舌で何度も舐める。
「いいのか? 家族と会えなくなるかもしれないんだよ?」
「いいよ、私も栄誉が得られないと帰っても怒られるし、私にも事情があるから……エトラスは、氷龍様に会いたいんでしょ? 私は付いていくよ……」
彼女は、少し涙を浮かべながら満面の笑みで答えた。
「ありがとう、でも本当にいいのか?」
「いいよ。私の気持ちは貴方と一緒に居る。それだけなの……」
そうして二人は明日の朝、再び登ることに決める。
*§*
12日目の朝。
彼女の体調は完全に復活していた。
「ごめんね。でも、もう大丈夫!」
元気に立ち上がると、身体をぐっと伸ばしていた。
「じゃあ、向かおうか……」
「うん、氷龍様に会いに行こう!」
それからの二人は、軽快に尾根を進んでいった。
*§*
13日目。
今日は、荷物を捨てて引き返した所まで戻ってきた。
ムルラはすっかり環境に順応したらしく、何の心配もなかったが、この先は雲に覆われ風も強くなってきている。
つまり、嵐のない2週間は終わりに近づいている。
「今日は、進めるところまで進もう!」
「今度エトラスが倒れたら、私が背負って進むから安心して!」
二人は地面に落としていた燻製肉を背負い鞄に詰めると、山頂を目指して再び歩き出した
そうして、日が落ちて暗闇に包まれても、体力が続くまで登っていった。
*§*
14日目。
朝起きると、二人は雪に包まれている。
辺りは霧と風の世界になっていて、見晴らしは最悪だった。
「行こう……」
「うん!」
エトラスはムルラの手を握ると、共に尾根を登り続ける。
何も見えない世界が、永遠に続いていた。
時折訪れる容赦ない暴風の中、二人は抱き合ってその場にしゃがみ込み、風をやり過ごしていった。
「ムルラ……大丈夫?」
「うん、大丈夫!!」
エトラスが道を踏み外したらムルラが手を引っ張り、ムルラが崖に落ちかければエトラスが引き上げる。そうして、互いに助け合いながら進み続けた。
空はゆっくりと闇に包まれていく。 もう昼なのか夜なのかも分からなくなっていたが、それでも二人は身をかがめて慎重に進んでいった。
強風が吹き荒れると、その場で抱き合って休憩をする。
そして、嵐が過ぎ去ると、また這うようにして上り続けた。
*§*
おそらく15日目。
「ねえ……エトラス、起きて!」
気が付くと、彼は山肌を背に横たわっていた。
「ほら、起きて! 周りを見て!」
抱き合って寝ていたのは覚えている。ただ、目を開けると、辺りは真っ暗な闇の上に、星空が広がっていた。
「雲から出ている……」
「そう、上を見て! 山頂が見えるよ!」
彼女が指さした先を見ると、月に照らされた山の頂点が見えた。
「本当だ……もう少しで辿り着ける!」
「やった! やったよ! エトラス!」
周りには、永遠に続く遙かなる雲海。
「どうする?」
「エトラス、今のうちに登っちゃおう!」
「そうだね、登ろう!」
二人は立ち上がると手を繋いで、あと少しの道のりを登ることにした。
確かに空気は薄くて、体は重たい。
でも二人の心は軽やかで、互いの願いが近づいていた。
「ねえ、エトラス……氷龍様は、どんな感じなのかな? 怖いのかな?」
「分からない、でも神様なんだ……おそらく全知全能だろう!」
「世界には龍が4体いるって知っている?」
「ああ、知っているよ!」
「じゃあ全部言える?」
「氷龍と炎龍、土龍と……あとは何だっけな?」
「雷龍よ!!」
「そうか、雷龍か……全部、別大陸なんだっけ!」
気が付けば、あれだけ吹き荒れていた嵐はすっかり消えている。二人は宝石のような光粒の世界の下で、尾根の道を進んでいった。
「今までで分かってきたけど、エトラスは少し抜けてるところがあるのね!」
「まあ、それは否めない。いつも大事なところで失敗していたからね……」
「ふ〜〜ん」
「まあ、だからこそ……こうして、挑戦をしたかったんだ!」
次第に山頂が近づくと、二人は大陸の屋根に到達しようとしていた。
「でも……それが、いいところなのかも!」
「そうかなあ……それが原因で帰れることが不可能になったんだ!」
そこに、二人は立っていた。
今まで目指していた、試練の最終地点。
「でも、達成はしたよ!」
「そうだ! 辿り着くことはできたんだ!」
周りには、海のような雲海が丸い水平線を描いている。この銀河の一筋と共に大量の星空が広がり、遠くには巨大な月が浮かんでいる。
登りかけていた太陽が上がっていくと、全ては青紫色に染まっていった。
「ねえエトラス、私……氷龍様に会いに行きたい!」
「ああ、そうだ。もうどうなってもいい。一目会いに行こう!」
山頂に立った二人は、本来の目的を思い出した。そして、背後の火口のような巨大なクレーターへと向かっていった。
そこは、なぜか雪は降ってはなく用済みとなった、かんじきを取り外して荷物をしまうと、黒い岩だけの大地の斜面を駆け降りる。
その中央には小さな岩山があり、洞窟のような巨大な穴が見える。
「あそこが、あれが氷龍様の家じゃない?」
「うん、行こう……」
この天空の大地には植物が一切生えておらず、人の背丈以上の岩が牙のように突き出して並んでいる。
それらを避けながら進んでいくと、洞窟の奥が徐々に見えてくる。そしてそこに、透明で透き通った水色の宝石のような、巨大な姿が現れた。
二本の角に、長い尾っぽ。そして、畳まれた巨大な翼。身体を覆う鱗は七色に煌めきながら、周囲の光を鮮やかに反射している。
ただ……氷龍は何事もなかったのように静かに眠っている。
「寝ているね……」
「起こすのも悪い。とりあえず、まずは寝床を探そう……」
二人は対面を諦めて、振り返って進もうとすると——
((涙狩りの騎士、共の戦士。よく来た……長い間、待っておったぞ!))
と……突然、声が二人の心の中に響き渡ってきた。