逆しまの子(後編)③――血と命のはざまに
「エツ! しっかりしろ!」
右頬を思いっきりぶたれて、エツは我に返った。
「おまん、今が正念場じゃぞ! 集中せえ!」
ウネの喝に、エツの眼に生気が戻った。帯を握りなおし、神経を呼吸に研ぎ澄ませる。
「そら、今じゃあ、いきめーっ!」
トシの掛け声で、エツは帯にすがりつき、渾身の力を腹に込めた。それを何度も、何度も繰り返す。
いつしか雨は止み、お天道様が、山の端を染めながら東の空に昇った。
窓の格子の合間から幾筋もの光線が差し込み、蝉たちが寝ぼけた声で次々に鳴き始めた。小屋の中には、むせかえるような汗と血の匂い、そして、エツの呻きと、読経と、魔除けのための騒音が満ちている。
赤黒い土人形のような顔で、エツは口の布を噛みしめている。目は白目を剥きかけ、もはや気力だけで息をしていた。
藤六は妻の苦しむ様子に耐えかねて、土器を放って家から出て行こうとした。が、その腕を慈慧が掴む。
「魔除けの音を切らすな。今切らせば、母子ともに持っていかれる」
「ほうやけんどお坊様、俺、もう見とれんのです…」
「魔除けの音を、切らすな」
慈慧の鋭い眼にぎっと睨み据えられ、藤六は今一度土器を拾いなおし、癇癪をおこした子供がやるように、床にたたきつけ始めた。その顔は歪み、食いしばった歯の間からは嗚咽が漏れだしていた。
(…なんと心のなよい、情けない男だ)
藤六の姿を一瞥して、慈慧は再び読経に取り掛かる。
赤ん坊は、まず尻がでて、それから脚、胴と出てきた。が、肝心の頭がなかなか出てこない。エツの身体が痙攣しはじめた。もはや、呼吸もうまくできない状態だ。
「ウネさ、このままやと赤ん坊も危ないぞ!」
そう叫ぶトシは涙目になっている。ウネは唇を噛みしめた。
「トシさ、ちぃと代わっとくれ!」
エツの背を抱えていたウネは、トシと交代して、エツの股の間から赤子の様子を見る。その肩が膣の入口に引っかかっていた。その部分の膣の皮がうっ血して、赤みがかった紫色になり始めている。
急がねばならない。しかし、無理やりにでも赤子を出してやる方法は、ひとつしかない。
ウネは土間の方の藤六を見た。その鬼気迫るウネの目を見るなり、藤六は狼狽して激しく首を振った。双眸から流れ出た涙が、汗と混じってそのしわがれた頬を伝っている。
だが、ウネは構わず藤六を呼びつけた。
「藤六さは、トシと代わってエツを支えとくれ。トシさ、晒をたんとこっちへくれ。うん、そこに積んでおいて。それから、針を炙って、絹糸を通しておいとくれんか」
ウネの裁量に従い、藤六とトシが動く。
藤六はエツを後ろから抱え込むや、妻の名前を狂ったように呼びながら、その体をぎゅっと抱きしめた。
今や室内には、慈慧の野太い念仏のみが地鳴りのように響いていた。
ウネは最後にエツに目くばせする。エツは、体中を震わせながら、その歪んだ虚ろな目に涙をためて、小さく頷いた。
ウネも頷き返し、トシから短刀を受け取る。
慈慧の念仏が、壁に反響して混じりあい、不思議な音色に変わった。
他ならぬ御仏が、今、我が身側にぴたりと寄り添っておられる、ウネはそんな気がした。
「なんまんだぶつ」
思わず唱えた経に背中を押され、覚悟を決めた。
次の瞬間、ウネはエツの膣から尻にかけて一思いに切り裂いた。
エツの絶叫がすべての音をかき消していく。
ウネは裂いて広がった膣から、赤子を引っ張り出した。
受け取ったトシが赤子の背をさすってやると、たちまち、はじけんばかりの産声が室内に鳴り響いた。
赤子に産湯をあげながら、トシは嗚咽し、大粒の涙を流していた。
トシだけではない、藤六もまたすすり泣いている。
慈慧は、自然と赤子に向かって手を合わせて目を閉じる。
ただひとりウネだけが、血まみれになってエツの股を縫っていた。
「元気のいい、坊ですわい」
トシからおくるみに包まれた赤ん坊を差し出されても、藤六はそれには目もくれず、エツの真白になった顔面に自分の頬をつけたままむせび泣いていた。
「おい、もう泣きなれんな。おまんのかかは死んどらん」
藤六が、えっ、と涙と汗で濡れそぼった醜い顔をあげた。
「死んどらん?」
「見りゃ分かるやろうが。気絶するくらい頑張ったんや、たいした女やわい」
それを聞くや、安堵から肩を落とし、まためそめそと泣き出した藤六を見下ろして、トシは呆れたように嘆息し、しっかりしろと喝を入れる。その喝に、ウネも同調した。
「まだ油断はできんぞ、股を深々と切っとるし、血もだいぶ出とる。しばらくエツは寝たきりにさせんならん。その間は、おれも手伝いには来るが、藤六さ、おまんがしっかり世話しておくれな」
藤六は何度も謝辞を述べ、泣き崩れるようにして頷いた。
処置が終わり、血まみれの腕をゆすぐため立ち上がったウネは、土間に慈慧の姿がないことに気づく。
慌てて戸口から飛び出たウネが、立ち去ろうとする慈慧を呼び止める。
「お待ちくだされ、お坊様!」
ウネは、慈慧の傍まで駆け寄ると深々と頭を下げる。
「読経を、おおきに。おかげさまで、つつがなくいきましたわい」
「おお、ご苦労さんでしたな。あんた、いい産婆さんだ。判断も早いし、腕もたいしたもんだ」
「年の功でございますよ。娘の時分からこればっかりやっとるもんで、慣れですわい。巫女さまがおいでんと聞いたときはどうなることかと思いましたけんど、あなたさまがおいでくださって、本当に助かりました。おかげさんでした」
慈慧はにっこりと人懐っこく微笑んで、手を合わせてお辞儀をした。
そのとき、藤六が赤子を抱えたまま家から飛び出してきて、慈慧の前にひれ伏した。
「お坊様、おおきに、おおきに…!」
「なんだあんた、まだ泣いておるのか」
慈慧は苦笑しながらしゃがみこむ。
「どれ、ここを去る前の土産に、赤ん坊を拝んでいこうかの」
藤六の腕の中ですやすやと眠る赤子を見て、慈慧は目を瞠って声をあげた。ウネは、おやと思う。赤子を見つめる慈慧の目がたちまち赤みを帯びて歪み、その目尻に光るものを見たからだ。
「…よう、産まれてきた。本当に、よう産まれてきたの…」
「恐れながらお坊様、これもなにかのご縁。この子に名を授けてはくださいませんか」
慈慧はそういうのは得意ではないと一度は遠慮したが、藤六がなおも強く懇願するので、とうとう折れた。うんうんと長い間首をひねっていたが、
「数の千に…太郎の太では、どうかな」
おもむろに呟いた。
「千太で、ございますか?」
その場にいた藤六とウネは、目を瞬かせた。
「うん。この子が産まれるまでの間、千手観音様にお祈り申し上げておった。どうぞその多くの御手でこの小さき命をお救いくださるようにとな。だから、畏れ多いが、観音様から一字を頂こう」
藤六は目に涙を浮かべ、思わず手を合わす。
「なんと、ありがたいことでござりまする」
「ええ名前をもらったの、千太」
ウネが千太の頬をつつくと、慈恵の腕の中でかすかに笑ったように見えた。