逆しまの子(後編)②――祈りと呻きの小屋
坂を上り、家に帰ると、出産は佳境に入っていた。
天井の梁から垂れ下げられた帯を掴んで、エツが激しく呻いている。舌を噛まぬように口にはさみこんだ布を喰い破らんほどの勢いで、見たこともない鬼の形相の妻を前に、藤六は思わずたじろいだ。
「藤六さ、帰ったか」
エツの背をさすってやりながら、ウネがこちらをちらと見た。
夜明けが近づき、だんだんと上昇してきた気温と人いきれで、小屋の中は蒸し風呂状態だった。
ウネが額に巻いた手ぬぐいは汗を吸って色が変わり、エツに至っては頭から水を被ったようにぐっしょりと濡れている。その汗を拭ってやりながら、トシは空いた方の手で土器を板の間に叩きつけていたが、帰ってきた藤六を認めるなり、
「代わっとくれ」
と、有無を言わさず、藤六にそれらの土器を押し付けてきた。
「土器をたたきつけて、やかましい音をたてとくれ。ほれで、物の怪らを威嚇して追い払うんじゃ」
藤六は言われるがままに、土器を土間に落として拾い、落として拾いを繰り返した。
「藤六さ、有馬さまは?」
ウネがあたりを見回して、苛立ったように問う。藤六は土器を拾いながら、申し訳なさそうな顔をした。
「すまん、おいでなんだんじゃ」
「なに、おいでなんだ?」
「別んとこで、うちより早うにお産があったらしい。有馬さまはそっちに連れていかれたみたいや」
ウネとトシは、困惑したように顔を見合わせる。
「別の巫女様はおいでなんだんかえ? ただでさえ難儀な逆子なんやに、ご祈祷がないことには…」
「いんや」
と、ウネの話を遮るようにして声をあげたのはエツだった。
陣痛の波が落ち着き、ぐったりとウネに体を預けながら、くつくつと笑い声をあげている。
「有馬様が来れんくなったのは、きっと龍神様のはからいじゃ。あの女に祈祷なぞされたら、産めるもんも産めんくなるでな。ウネさ、ご祈祷なんかいらんよ。巫女様も呼んでこんでもええ。そんなもんなくても、おれには、龍神様がついとるでの」
「いらんと言われた手前、申し訳ないが…」
筵の間から慈慧が顔をだした。
「主様のご依頼での、ご念仏をお唱えしに参りました。慈慧と申しまする」
「偶然にもこの旅のお坊様がお堂においでたもんで、有馬様の代わりにご祈祷をお願いしたんじゃ。有馬様がおいでなれんで、どうなることかと思ったが、本当に、御仏のお導きじゃ」
と、藤六が興奮した様子で説明する。
「旅のお坊様でございますか」
ウネはエツを支えたまま頭を下げた。
「えかった…。本当に、御仏のお導きじゃ。きっと、うまくいくぞ、のう、エツ!」
ウネの励ましにお愛想のように小さく頷いたエツは、ちらと慈慧を見やり、慰めにもならんとでも言いたげに、天井に虚ろな視線を投げた。
慈慧は早速土間の隅に座り込むと、首からかけた数珠をじゃらじゃらいわせて、念仏を唱え始めた。
ほぅ、とウネは感心する。聞いている者の丹田を震わせるような、よく通るいい声をしている。
慈慧の隣では、藤六が負けじと土器を打ち付けている。
エツはそんな男たちには目もくれず、ぼんやりと天井の一点を見据えていたが、やがて襲ってきた激しい陣痛に、慌てて上から垂れる帯にすがりついた。
「よし、またきたな。エツ、とにかく息を吸うことより、吐くことやぞ。ええな」
エツに布を噛ませてやりながら、ウネは指導を怠らない。
エツは、瀕死の獣のような声をあげてのたうちながらも、愚直にウネの言葉を実践する。
「よしよし、ええぞ、まず吐いて、それからゆっくり吸ってみろ」
吐いて、吸って、吐いて…何度か繰り返したとき、吐息は絶叫に変わった。
「痛い、痛いっ!」
トシはもう一度エツの股の間から触診し、ぱっとウネのほうに顔をあげた。
「降りてきた、降りてきとる! 尻が触れた!」
よし、とウネは汗がしみる目を瞬きながら、大きく頷く。
「エツ、聞いたか。赤ん坊も頑張っとる! この世に出ようと、頑張っとる!」
ウネの言葉に、エツは何度も細かく頷きながら、うわごとのように龍神を呼び続けた。
慈慧は眦が裂けんばかりにその様子をきっと見据えている。
読経の声がにわかに大きくなる。
藤六もかわらけを打ち下ろす手に力が入る。
それらの騒音を、エツの絶叫がすべて飲みつくす。
トシが藤六に湯を沸かすよう指示する声が、遠く、濁った水の底から聞こえるように、エツの耳にかろうじて届いた。
次に、ウネが耳元で何か言っていたが、もう言葉の輪郭は曖昧で、ただの音の塊のようにしか届かなくなっていた。
ただただ押し寄せる下腹の激痛に翻弄され、息を吐くことはおろか、まともに呼吸することも能わない。
――かかさま…
エツはうわ言で、母を呼んでいだ。
腹の子が逆子だと告げられたとき、目の前が真っ暗になった。
逆子の出産がどれほど難しいか、エツも人並みには聞き知っていた。それが時には、母子の死を伴うということも。
腹が膨れてくるにつれ、出産と死への恐怖が徐々に頭をもたげてきた。
(おれのかかさまも、おれを産んで死んだ…)
すると、それがまるで、自分の家系に連綿と受け継がれている因果のように感じられてくるのだった。いつしか、自分も母と同じ運命を辿ることが宿命づけられている気がしてならなくなった。
この恐怖と向き合うたび、母のことを考えた。
皮肉にも、このときほど時間を割いて、これほど深く、母親のことを考えたのは初めてだった。自分を腹に宿していた時の母を想像し、その胸の内に思いを馳せ、そこに自分自身を重ねた。
自分を産むことと引き換えに訪れる死を、母は予知していただろうか。
こんなふうに、日に日に大きくなる腹をかかえ、胎動を感じながら、母は何を想っていたのだろう。
希望だろうか、はたまた、諦観にも似た絶望だろうか。
どういうわけか、後者のような気がしてならなかった。
貧困の中の望まぬ妊娠で、仕方なく産んだ嬰児を殺めることは珍しいことではなかった。そして、なんとなく、母もそれに近い形で自分を生み落としたような気がした。
お百度を決意する時、川面に揺蕩っている白くなり朽ちかけたマスの死骸になぜあれほど心を奪われたか。あれは、母だったのだ。己が命を引き換えに新しい命を繋げ、跡形もなく消えていった、憐れで、不本意な、しかし崇高な母の人生そのものの象徴だったのだ。
では、自分はどうだろう。
違う。自分は、母とは違う。
自分はこの子を、心の底から望んでいた。自ら欲して宿したのだ。自分は、晩秋の軒下で、赤子に乳を飲ませるあの母親になりたかった。誰かを無条件に愛し、愛されてみたいと思った。
(龍神様…すんません、おれ、欲が出ました。おれの命と引き換えても、この子だけは、と思っておりましたが…どうか、どうか、願わくば、おれの命もお助け下さい。この子といっしょに生きる未来を、お授けください…)