逆しまの子(後編)①――来ぬ者、現る者
藤六は白山中宮社に着くなり、お堂の扉にすがりつき、雨の音に負けぬよう、力いっぱいに叩きつけた。
「有馬様、有馬様! 藤六でございます! 子が産まれそうなんじゃ、どうかご祈祷を!」
そうしてしばらく呼び続けると、お堂の扉がわずかに開いた。
「有馬様、巫女様!」
しかし、そこに現れたのは有馬ではなく、薄汚れたひとりの男だった。
「巫女様は、おらんぞ」
「…おらん?」
「巫女様たちの宿舎は、もっと奥じゃ」
そう聞くや、奥社の方へと走り出そうとする藤六に、男が言う。
「行っても、有馬様はおらんぞ」
弾かれたように声の方を振り仰ぐ藤六の目に、お堂から出てきた男の姿が露わになる。
といっても、まだあたりは薄暗く、男のがっしりとした体躯の輪郭がうすぼんやりと見えるだけだった。しかしその闇の中でも、男の仁王像のような大きな目は炯々とし、藤六は無意識に体が強張るのを感じた。
「…おらん…今、おらんと、言いないた?」
「うん、おらん。先ほど、他の者が連れていった。用件は、おまえさんと同じじゃ。おまえさんとこより一寸先んじて、産気づいた者がおるらしい」
藤六は、空洞でも眺めるかのように、男の方をしばし見据えて立ちすくんだ。
お堂の境内の上に立つ男を仰ぎ見る形となるので、頭に被った笠をつたう雨水がもろに顔にかかり、藤六の萎れた顔を濡らしていく。深くうなだれ、がっくりと肩を落としたその姿は、雨の中刑場へと引きずられていく罪人のようにも見えた。
そのまま、とぼとぼと帰ろうとする藤六を、しかし、男が呼び止めた。
「よければ、わしが代わりを努めようか」
「え?」
藤六は目を細めて、男の方を今一度振り返る。男は濡れるのを構うことなく、いつの間にか境内を降り、藤六のすぐ目の前に立っていた。
「代わりというのは…。恐れながら、あなたさまは?」
「ご念仏なら、心得があるがの」
藤六は、さらに目を細めて数歩近づいてみる。どうやら、男がまとっているのは袈裟のようだ。
「…お坊様ですかな?」
男はそのぎょろりと印象的な眼を細めた。破顔すると、たちまち子供のような顔になる。
「慈慧と申す。なに、少し前からここに世話になっとる、しがない旅の僧じゃ」
「なんと…お坊様でございましたか!」
感極まった藤六は、思わず手を合わせ、慈慧の前に膝をついた。その頬には雨水と混ざって滂沱の涙があった。
「ありがたい、ありがたいことです! これはきっと、御仏の思し召しじゃ。どうか、ご祈祷を、お願いいたします、どうか…!」
そのまま藤六はすがりつくように慈慧の袖を掴み、そのままひっぱるようにして家路を急いだ。
橋に着く頃には雨脚はずいぶんと弱まっていたが、風は先ほどよりもさらに勢いを増し、あたりの樹々の枝をたわませるほどに吹き荒れていた。吊り橋も、今にも縄が引きちぎれそうなほどに大きく揺れている。夜明けが近づくにつれ視界がより鮮明になり、橋の揺れの大きさと、その下で猛る濁流がはっきりと見え、藤六は足がすくんだ。
橋の手前で立往生している藤六を尻目に、慈慧は揺れる橋の上で見事な身体の均衡を保ったまま、驚くべき速さで橋を渡り終えてしまった。
早く渡ってこいと、対岸から慈慧が呼んでいる。その余裕に満ちた涼し気な顔に、藤六はちくしょう、と悪態をつき、必死の思いで橋を渡りおえた。