命令
軒先から、雨水が滝のように音をたてて地面に流れていく。
お天道様を久方ぶりに拝めたと思った矢先の、この雨だった。そろそろ麻の収穫と皮剥きもせねばならない頃だが、どうにもならない。
板間の床板や土壁がたっぷりと水気を吸い込み、家じゅうに苔が生えそうだった。動かずとも汗が噴き出すのに、太郎をおぶって飯の支度をしなければならないのだから、たまらない。太郎と触れ合っている背中の部分に熱がこもり、汗疹が出来て常時痒い。太郎とて例外ではなく、そのせいでむずがって、括り付けた紐を振りほどかんばかりの勢いで、激しく身を捩らせて泣き叫ぶ。
だから最初からツブラに入れて放っておけばよかったのだ、と由良は誰にも聞こえないように愚痴を垂れた。第一、そのへんに放っておいても、こうしておぶっていても、泣くのは同じなのだから、板の間に転がしておけばいいものを、父親の平次がそれを許さなかった。まるで子守役の由良の怠惰のせいで太郎がこの耳障りな声をあげているのだ、とでも言いたげに、泣き止ませろと命じるのだった。
(あのあと、慈慧様は目を覚ましたかいな…)
慈慧とエツの関係は、由良の目から見ても明らかだった。特に、女特融の香りを帯びたエツの艶めかしさといったら、近くにいた由良もそわそわとしてしまって落ち着かなかった。ましてや、ひとつ屋根の下に住まう千太の心はいかほどのものか…。最後に別れた千太の不安げな顔を思い出す度、稗をすりつぶす手が止まり、太郎の癇癪の声すら耳から遠のいていくようだった。
雨が小休止になった。今のうちに、近くをぶらぶらと歩いてやれば、太郎も気が紛れて泣き止むかもしれない。そう思って、家を出たところで、お政と鉢合わせた。
「………あっ?」
と、思わず喉の奥から妙な声がでた。お政の方もどこか気まずそうに、目を伏せた。
「お政…どういたの…」
「…ついて来い」
お政は顎を往来の方にしゃくって、そのまま歩き出した。由良は唇を噛みしめる。あばれてずり落ちそうな太郎を背負いなおし、お政の後についていった。
前を行く、背の丸まった特徴的な彼女の背中に、かつて川原で自分に向けられた冷たい目が写し出される。おまえとはもう口を利かないと言っておいて、今頃なんの用だろうか。
そこはかとない由良の不安は、果たして行く手の人物を見るや、確かなものとなった。
「連れてきたか。ご苦労さん」
川辺の岩の上に座っていた源助が、飛び降りるや、お政の肩にポンと手を触れて労った。その瞬間のお政の表情を、由良は見逃さなかった。頬をうっすらと赤く染めている。彼女から放たれたこの気配。この間のエツのそれと同じ類のものだ。
「よう」
と、由良の目の前にずいと出てきた源助は、少し前に見た時よりさらに体格が立派になり、うっすらと髭なぞも生えはじめ、頭に載せた烏帽子が、やけに大きく見えた。もはや少年をすっとばして大人の仲間入りを果たしたかのような風格があった。
「この間、おまんを、もう子供組に入れんと言ったけんど、ありゃあ、もうなしじゃ」
「…………なんで」
由良は一歩たじろぐ。背中の太郎は、歩いているうちにいつの間にか眠ってしまったようだ。
「なんでってそりゃあ、俺はもう子供組でないし……」
そこで少し言い淀んだ。次の言葉を発するときには、声が上ずっていた。
「俺の嫁になる女を、いつまでもはじき者にしとくわけにゃいかんやろ」
由良の呼吸が止まった。一瞬訳がわからず、源助をただただ呆然と見上げるしかできなかった。その視線の先で、源助の顔がみるみるうちに赤らんでいく。
「…誰が? 誰の嫁になるって…?」
「だから、おまんが、俺の嫁になるんじゃ。名主様が決めた。嫌やと言う話でない」
由良はますます、自分の表情が硬くなっていくのを感じた。その強張りに反比例するように身体からは力が抜けていった。今にも足元から崩れてしまいそうなほどだった。太郎がいなかったら、その場に倒れていたかもしれない。
そんな自分を、源助の背後からお政がものすごい形相で睨みつけていたが、そんなことも気にならなかった。
「まあ、そういうことやでな。もう川向こうのやつとは会うことは許さん。ええな、これは命令じゃ」
源助の言葉が、水の中で聴く音のようにくぐもっていた。
源助とお政が去った後、いったいどれだけの時間、そこに立っていただろうか。右横で、がさり、と藪の揺れる音がする。その音に由良ははっと我に還ったように顔を上げた。
音の方から、見覚えのある男が、おずおずと姿を見せた。
「――――おまん…蝉丸…?」
気まずそうに蓬髪を手で掻き、蝉丸は頷いた。
「すまんこって。偶然、聞いてしもうて…」
「聞いたって…今の話? 全部」
また、躊躇いがちにこくりと頷く蝉丸の袖を、由良はすがるように掴んだ。
「後生じゃ…お願い…千太の兄さには言わんといて…言わんといて…!」
そのまま崩れるように慟哭する由良に驚いて、太郎もわっと泣き始めた。泣きわめくふたりを前に、蝉丸はおろおろするしかない。とにかく由良の肩をゆすりながら、
「言わん、言わんてぇ…」
と言うほかはなかった。




