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去らぬ影

 しとどに降り続ける雨が、軒先からしぶきをあげて地面に落ちていく。

 薄暗い小屋の壁を、遠くの雷鳴が微かに震わせた。


 慈慧を起こさぬようそっと身を擡げ、着物を羽織りながら、もう一度まじまじと、深い寝息を立てているその顔を見下ろす。四十男が、なんとまあ、寝顔がまるで子供のようじゃと、思わず笑みがこぼれた。


 板間を這い、鹿杖に寄りかかって土間におり、甕から水をすくおうとした、そのときだった。ふわりと、入口の筵が煽られた。


 エツは身を強張らせた。


 雨音に混じって、重たい気配が、土間へと流れ込んでくる。

 おそるおそる顔を上げると、そこに、藤六が立っていた。

 血走った目と目が合った。目を背けようにも、まるで体が動かない。体中が泡立ち、手足が激しく震え、甕にすがるようにして土間に腰をおろした。

 次にそちらに目線を上げた時には、藤六はこちらを見ていなかった。

 首が、不自然な角度に折れ曲がっている。

 目だけが、ぎょろりと開かれ、板間を見据えていた。

 その先に、深い寝息があった。 


(やめて。見んといて…お願い…)


 エツの叫びは声にならず、かわりに呻きとなって食いしばった歯の間から漏れた。

 涙を流しながらひれ伏すエツを、藤六は静かに見下ろした。

 額を土間に擦り付けたまま、ただひたすらに藤六が去るのを待った。冷たい気配は、雨が止むと同時に消えた。かわりに肩を掴まれ首をあげると、慈慧の切羽詰まったような顔が間近にあった。


「……どうした」


 慈慧はエツを覗き込み、その顔面が白磁のように真っ青になっているのを見てとって、眉根を寄せた。


「どうしたんじゃ…」

「………………」

「言ってみろ。何を見た」

「藤六さが…おいでた…」


 消え入るような呟きに、慈慧は背筋がすっと寒くなる。家の戸口にかかった筵は不気味なほど静かに垂れ下がったまま、あたりに広がる薄闇には、怨念にも似た嫌な気配が残り香のように微かに、しかし、確かにまとわりついている。


 慈慧はエツを掻くように抱き寄せる。しかしエツはそれに小さく抵抗した。


「だめじゃ……おれは、もう…あの人の影から逃れられんのです…あの人がいつも現れては、おれを責めなれる……」


 慈慧はそれでもなお、無理やりにでもエツを抱きしめた。


「もうひとりで苦しむな…」


 しかしその言葉は空を打つようだった。エツは身を固くしたまま、小さく首を振り続けるのだった。

 慈慧はだんだんと頭に血が昇ってくる。死してなお、こうしてエツの傍にはりついている…なんと見苦しい。そう、亡き藤六への激しい憎悪を募らせる一方、別の感情も湧いて出た。その感情に形を与えるとしたら、そこはかとない同情心や憐憫のようなものだろうか。それは、エツを得た今だからこそ芽生えたものであり、そう思う自分を、卑しいと感じた。


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