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濡れそぼつ面影

 窓の格子を抜けて差し込んできていた強烈な日差しは、慈慧が浅い眠りを挟んで再び目を開けたときには陰り、耳をつんざく蝉の声の代わりに雨音があたりを支配していた。湿気を孕んだ風が、戸口に下がった筵をふわりふわりと揺らしている。


 まだ気だるい瞼の重みに負けた時、額にひやりとした感触を覚えて、再び目を開ける。濡れた手ぬぐいがどかされ、開いた視界の中に、エツが写る。


「起こしてまいましたか、ようない」


 労わるように笑んで、エツは手ぬぐいを桶に入れて洗う。その横顔を、慈慧は食い入るように見つめていた。


「…………土の下で経を唱えながら……わしはいつしか、十五年前の道を歩いておった。おまえといっしょに、夜叉ヶ池へ向かって…」


 エツがゆっくりと顔をあげる。雨脚が強まり、筵が、びゅっと音を立て、風が吹き込んだ。

 エツと慈慧の間にはただただ規則的な雨音があった。若くもなく、皺も増えた互いを見つめながら、十五年という年月が、まるで幻のように過ぎていったことを想う。心はそこに留まったままで。


「……すまんが、水を…」


 慈慧は半身を擡げた。エツはその背をそっと支え、起こしてやる。彼女の髪が、慈慧の頬を撫でる。見上げたエツと間近で目が合う。慈慧は思わず、顔を少し背けて目を逸らした。エツは傍に寄り添ったまま、どこか切迫した眼差しで慈慧を見つめ続けている。


 熱を帯びた沈黙が、ふたりを繋いでいる。


「あの日…お百度を終えたあの日…、すがるおれを、あなたさまは拒みないた」


 慈慧はおそるおそる、エツを見る。涙に長いまつ毛を濡らし、こちらを見上げる瞳が細かく震えている。


「今は………? 今も………ですか?」


 エツの唇に、慈慧のそれが重なる。散った桜の花びらが音もなく川面に触れるように、かすかに―――



 ザーザー降りの下、千太は魚籠を抱え、烏帽子山の斜面にそそり立つ大きなトチの樹の下で、雨宿りをしていた。


「おうい」


 と背後からの声に振り返ると、蓑笠に身を包んだ蝉丸が立っていた。しばらく見ない間に頬にはぷつぷつと無精ひげを蓄えている。


「蝉丸……」


 彼を仰いだ千太のどこか呆けたような表情に、蝉丸は目を瞬かせた。


「なんじゃあ、久しぶりに会うたと思うたら、腑抜けみたいな顔しくさって。こんなとこで何しとる」

「見ての通り、雨宿りじゃ。魚獲ろうと川に行ったとたんに、降られての」

「雨宿りって…おまん家すぐそこやないがけ」


 千太は静かに息をついた。


「まだ帰れん。日が暮れるまで戻らんって約束した」

「約束って? エツさとけ?」

「……とにかく、まだ帰れんのじゃ」


 千太は不機嫌そうにそう言って、すっくと立ち上がる。


「川行く。おまんもついて来い」


 千太が手を引く。蝉丸は「はぁ?」と、その手を払うように引き返した。


「なんでこんな雨ん中で」

「水浴びじゃ、とにかくおまんも来い。今日うちに泊まるんなら、その虱、洗い流さんと」


 嫌がる蝉丸を引きずるように、千太は雨の中を川へ向かって降りて行った。

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