地の底の念仏
白山中宮の食料庫は巫女たちが寝泊りする宿舎の方にあった。普段立ち入らないその場所に近づくについて、緊張が走る。若い巫女らが白い手を動かし、たすき掛けで忙しなく働く姿を木陰から覗き見ると、背徳の匂いに胸がどくりと鳴った。
「読経なんぞ、聞こえるか?」
源助たちは目を閉じ、一様に耳を澄まして見せるが、何も聞こえてこない。
「道者たちの、空耳と違うか?」
そう、三人が話し合い始めた時だった、
「空耳では、無さそうじゃ」
背後から、不意に柔らかな声が降った。三人がひっと悲鳴を上げて振り返る。
木漏れ日の下に、凪が立っていた。
「……あなた様は…もしや凪様ではございませんか」
凪が頷くのを見てとると、生き仏にあったかのように、与一は手を合わす。
「旱魃から、お救いくださった有難い巫女様でございますか」
源助と喜助も、慌てて頭を下げた。
「地下の食料庫に、慈慧様というお坊様が閉じ込められとる。殊勝にも、ずっと念仏を唱え続けておられるんじゃ。即身仏になるでもなしに」
えっと、源助たちは顔を見合わせた。
「道者たちの噂は本当やったんですか。助けて差し上げんでも、よろしいんですか」
「助けてやりたいが、わたしら巫女は、助けるなというお達しを受けておっての」
「お達し…もしかすると、有馬様から?」
凪の沈黙が答えだった。
「そのお坊様は、なにか悪いことをしたんですかな」
「有馬様がそう思われたから、あんな仕打ちをうけておいでなんじゃ」
「ほんなら、助けたらだめなんでないか…?」
ひそひそ声が揺れる中、源助はひと息ついて前に出た。
「で、凪様は俺らに何をしてほしいんですかな」
それで、こっそり声をかけて来ないたんでしょう、と付け足すと、凪は鹿のような黒目がちの目を半月状にして、実に満足げに笑った。
「おまん、源助やろ。子供組の頭をやっとった…、さすがじゃのう。話が早い」
「仰ってくだされ」
「うん。中宮様の土の下から、ありがたい念仏が聞こえると、村中に吹聴して回って欲しい。おまんは顔が広いから、適役やろうと思う」
「なるほど、お安い御用です」
そう言うや、源助は颯のように走り去ってしまった。その後を、取り巻き達が慌てて追いかけていく。
「さてさて、これでどんなうねりが起こるやら…」
呟くと、凪は何事もなかったように、悠々と本堂の方に歩いて行った。
源助が流した噂は、村中の隅々にまで疾風のごとく吹き荒れ、地下から聞こえるという不思議な念仏を一言聴いて手を合わそうと、村人たちは白山中宮に押し掛けた。
その念仏の出所は彼らによってすぐに暴かれ、食料庫の周りには、跪き手を合わせる人々が群れを成した。やがてその数は巫女たちが制することもできないほどに膨れ上がり、陽が落ちても彼らは帰ろうとしなかった。
翌日、有馬がその場に出向き、村人らを追い返そうとしたが、その命に従う者はほんの一握りだった。
狼狽え、髪を振り乱しながら喚き散らす有馬を、凪は遠巻きにじっと眺めていた。
彼女は今、自分の無力さを痛感しているだろう。自分の村の中での力は、もはや風前の灯であると、さすがに悟っただろう。凪は痛快で仕方がない。咳きこむふりをして袖で顔を覆い、その陰でくつくつと笑っていた凪はしかし、自分の前を通り過ぎていく人影に気づき、腕を下ろした。
鹿杖にすがりながら、怒りの炎に瞳を滾らせ、一歩一歩踏みしめながら進んでいく女。
襤褸に身を包んではいるが、内から迸るような神々しささせ漂わせている。その姿を目で追いながら、凪は釘付けになったようにその場から動くことができなかった。




