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川向こうの女影

 日は遡り、二日前のこと。


 白山中宮へ続く石段の隅で、源助は夜明けから働き詰めの身体を夏の日差しに炙らせながら腰を下ろしていた。

 数段下では、熟れもせぬヤマブドウを賭けて、喜助と与一が石をどちらが高く積めるか競っている。

 その光景を睥睨するように一瞥して、源助は深いため息を洩らし、石段に仰け反って空を仰いだ。


「暇やなぁ……」


 その呟きを聞きつけたかのように、喜助が吹き出物だらけの顔を綻ばせて手を振った。


「おぅい、源兄もいっしょにやろまい!」


 源助は首だけ空へ向けたまま、手をひらひらと振って不参加の意を示す。


(ガキめ……)


 眼下で騒ぐ幼馴染と自分の間には、大きな隔たりがあるように思えた。


 体つきも、考えることも、何もかもが違う。与一が精通の話を興奮気味に語り、喜助が娘との接吻を得意げに言ってみせる。だが、十二の頃から裏の後家に手ほどきを受けてきた源助にとって、そんなものはしょんべん臭い子供の遊びでしかなかった。


 もっとも、彼らは使い道のある取り巻きでもある。だから笑いものにはしない。

 鷹揚に構えて歩み寄り、はしゃいでみせ、賞賛し、面白がるふりをしてやる。

 心は冷え切っていても、外面だけは繕った。


「暇やなぁ……」


 源助はもう一度つぶやき、夏空を覆う薄雲をぼんやりと眺めた。


 こんなふうに手持無沙汰になると、決まって川向こうの女の面影が脳裏をよぎった。


 源助の家に男衆が集まるたび、酒席で猥談に上る女。父を色で釣った女狐──あの母でさえ、そう言い切った女である。


 源助が九つの夏、母は野良で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。


 記憶に残る母の顔は、いつもひとつだった。分厚く垂れ下がった一重瞼に半分程覆われた瞳には躍動がなく、魚のような濁りを湛えていた。

 だがエツの名を聞いたときだけ、その瞳は狂おしいほど揺れた。あれほど動揺した母を見たのは、後にも先にも一度きりだった。

 口では、エツを業の血筋・女狐と軽蔑していたが、瞳には嫉妬と怯えが混じっていた──その異様さが、源助の興味をかき立てた。


 そして、川向こうへ渡った。


 繁みからそっと覗いたエツは、遠目にも息を呑むほどの美しさだった。

 もう少し近くで見ようと踏み出した矢先、ひとりの男影がエツの前に現れた。

 エツの顔が、凍りつくように強張った。

 その男は、源助の父・佐一だった。

 周囲に人がいないのを見計らい、父はエツの腕を乱暴に掴むと、小屋の中へ引きずり込んだ。

 源助の身体は、心臓そのものになったかのように脈打った。

 衝動のまま小屋に駆け寄り、水甕によじ登り、格子の隙間から覗いた。

 正面に父の背。

 その肩越しに見えたエツの顔は、壁に押しつけられ、眦を開き、瞬きもせず──まっすぐ源助を見ていた。

 吸い込まれるようなその視線に、源助は息を呑み、その場から転げ落ちるように逃げ帰った。


 夜になっても、父の顔を見ることができなかった。

 なぜ母が父をあんな目で見ていたのか、痛いほど分かった。

 そして何より、屈辱的なのは──自分の頭がエツでいっぱいになってしまったことだった。

 寝ても覚めても、あの怒りと快楽の間をたゆたうような目が離れない。


 それから源助は、橋を渡ってはエツを盗み見た。

 家の正面の繁みから、裏手の竹藪から、そしておせどの脇から――しかし、ただ遠目に眺めるだけでは足りなくなっていった。


 その日、もっとも近い距離まで迫った。

 山の斜面で、鹿杖にすがりながら、エツは用を足していた。

 悩ましげな吐息とともに放尿するエツの姿から、源助は目が離せなかった。

 去った後に残る生暖かい臭気が、胸の底をぬめるように撫でていき、言いようのないざわつきを呼び覚ました。

 母があれほど嫉妬し、怯えた理由が、ようやくわかった気がした。

 源助はもう、あの女に絡めとられていた。


 開いた小袖の後ろ衿からのぞく白い項。

 汗に濡れ張りつく後れ毛。

 息を呑む曲線を描く豊かな臀部。

 鼻腔の奥にこびりつく生々しい匂い。

 耳の奥に残る悩ましげな吐息。


 それらを思い起こせば、下腹に熱がこみ上げ、抑えきれぬほど暴れ出すのだった。

 よりにもよって、あの卑しい女に焚きつけられた欲情だと思うと、戸惑いとともに、憤りで胸が裂けそうだった。


――――


 源助は右手を空にかざし、握っては開きながら、ぼんやりと青灰色を背景に見つめた。

 その指の先に、春に見えた千太の顔がちらつく。

 あの女を嫌悪してからは、川向こうに近づくまいと決めていた。

 記憶からも消し去ろうとした。

 なのに、あの女によく似た子が、自分の前に現れたのだ。しかも由良を背負って。


(ちくしょうめ)


 舌打ちがこぼれる。


 由良を子供組から跳ねだし者にしてやった。

 泣きついてくると思っていたのに、あいつはそれを務めのように黙って受け入れ、いじけるどころか目の光まで失わない。

 それが虫唾が走るほど気に食わない。


「源兄、源兄!」


 空を睨んでいた源助の視界に、喜助のあばた面がぬっと割り込んだ。


「なんじゃあ、考え事しとるんや。遊びには付き合えん」

「ちがう、ちがう。源兄がぼーっとしとる間に、中宮様にお参りしてきたんや。そしたら向こうで、道者らが噂しとってな」

「……噂て?」


 喜助と与一が顔を見合わせ、ひそひそ確認しあう。


「中宮様の食糧庫の方から、読経が聞こえるんやて。昼も夜もずっとやそうや」

「ふぅん……坊様が唱えとるだけやろ」

「いや、それが地面の下から聞こえる、て言うんや」

「地面の下ぁ?」

「うん。即身成仏なさる偉い坊様でもおられるんやろか?」


 源助は鼻で笑った。


「たわけ。そんなお方がおるなら、村中が参っとるわ」


 確かに、と二人は首を傾げた。


 なんか、裏がありそうやの──。

 源助は身を起こす。


「おもしろそうやないか。その場所、突き止めてやろうや」


 言うが早いか立ち上がり、石段を駆け上がる。

 喜助と与一も嬉々として、その後に続いた。

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