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滝の帳

 千太に手を引かれながら、由良はただ必死に歩いた。

 息が上がる。

 歩幅が合わず、転びそうになる。握られた手首には、千太の指の跡が赤く浮いていた。


 坂を降り切ったところで、由良はぐっと両足に力を入れて立ち止まった。

 互いの腕が引っ張り合う形となり、千太がつんのめる。

 問いかけるように振り返った千太を、由良はきっと睨んだ。


「千太、手、痛い。人さらいみたいに、曳いていかんといて!」


 その言葉にはっとしたように、千太は由良の手首をゆっくりとほどいた。

 恥じ入ったような顔で、由良を見る。


「……すまん」


 ぽそりと謝る千太の手を、由良はそっと取った。


「……行こ。こっち」


 今度は由良が千太を引っ張っていく。

 吊り橋を渡り、渓流に沿って獣道を進んでいく。

 しばらく歩くうちに、轟々という音がさらに強まり、行く手に滝つぼが見えてきた。


 ジーワ、ジーワという蝉の声を割るように、滝は頭上から勢いよく落ち、轟音をたてながら滝つぼに注いでいる。糠雨のような水しぶきが、顔にかかった。

 由良は迷わず滝つぼの縁に沿って歩き、滝の裏側へと千太を導いた。


 途端、肌を焼くような眩しい夏の日差しが幻のように消え、薄闇のなかで、ひやりとした湿った空気が肌を撫でた。

 薄い幕のような滝水越しに、樹々の濃い緑が朧気に揺れる。

 その中に身を置くと、外の音が遠のいていった。


 由良はぱっと千太の方を振り返ると、すがるように抱きついた。

 千太も、由良の背に腕を回し、きつく抱きしめる。


 言葉が出なかった。

 先ほどエツが言った言葉が、耳の奥でこだましている。

 反感は覚えても、反論ができない。それがたまらなくやるせない。


 ただ、互いの想いがここに確かにあるかどうか。

 恐れにも似た気持ちで確かめ合い、探り合うことしかできないのが、もどかしかった。

 抱きしめ合い、夢中で唇を合わせながら、その熱の奥で、ふたりは同じ寒さを抱いていた。


 滝の音が、窟の中に反響する。

 誰が彫ったのか分からない五寸から一尺ほどの石仏が、壁面に沿って何十体も並んでいる。

 転がる石の中にも、御仏の顔だけが彫られた粗野な作りのものが混じっていた。

 ここは、かつて修行僧たちに好まれた霊場だったのかもしれない。


「慈慧様が、教えとくれたの。千太と逢うなら、ここなら人目につかんぞって」


 石仏に手を合わせながら、由良が言った。

「でも、こんなに仏様に囲まれてたら、逆に落ち着かんね」と笑う。


「ほうやなぁ」

 千太はくすくすと笑いながら、由良の隣にしゃがみ込み、同じように手を合わせた。


「……慈慧様は、村においでるんか? どうされとる?」


 千太にそう訊かれて、由良は初めて気づいたように、あっと声をあげた。


「おばばさまの家に泊まっておいでたんよ。最後に会ったの、三日くらい前やろうか。白山中宮様のところに行くと出ていったきり、帰ってきとらん」


「白山中宮様に?」


「うん。有馬様に会うと言っておいでた。たぶん、中宮様に泊まられとるんでないかな」


 千太の脳裏に、鋭い眼光を放つ長身の巫女の姿がまざまざと思い出される。

 たちまち、背中を百足が這っていくように鳥肌が立った。


 なんだろう、この嫌な感じは。

「必ずまた来る」と力強く告げた慈慧の澄んだ声が、どういうわけかたちまちにぼやけていき、やがて耳鳴りにかき消された。


 耳鳴りは、由良と別れ、家に着くまで続いた。


 開け放たれた扉には、筵だけが垂れ下がっている。

 それをくぐると、家の中はもぬけの殻だった。

 母は、厠にでも行っているのだろうか。

 今は顔も見たくなかったので、ちょうどよかったのだが、しばらく経っても戻ってこない。

 さすがに千太も、焦り始めた。


 おせどを探し、裏手の烏帽子山を探し、ついにはあの洞のあたりまで見に行ってみたが、姿が見えない。


「かかさまーっ! おおい、おおい!」


 呼びながら、烏帽子山のさらに深くへ分け入って行こうとした時――


「千太ーっ!」


 家の方から、由良が呼ぶ声がした。

 慌ててそちらへ降りていくと、汗をだらだらと流しながら由良が駆け寄ってきた。

 訊けば、村に一度帰ってから、とんぼ帰りしてきたという。


「エツさが……村に……! 有馬様のとこに……!」


 それだけ告げると、体を苦の字に曲げて咳きこんでしまった。

 どういうことか分からず、千太は混乱してもう一度問う。


「エツさが、白山中宮様に行かれたみたいなんや。有馬様に会われる気らしい。あと、慈慧様が……!」

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