逆しまの子(中編)──命を抱く手
坂を上り終えると、雑木の向こうに小さな小屋が見えた。
入口に垂れている筵をあげると、すぐ前の土間に敷いた筵の上で、エツが横向きに丸くなってうめいている。
ウネは蓑笠を解き、エツに駆け寄ると、後ろから支え起こしてやる。
「エツ、どうもないかえ。わしや、ウネや」
後ろからのぞきこんだウネと目が合うなり、エツの眉間にぎゅっと刻まれた皺がふっとほどけ、目に安堵の涙が浮かんだ。
「ウネさ、来とくれたんか。おおきに、おおきに」
「礼を言うのはまだ早いぞ、こっから踏ん張り時やでな。さて、まずはおれに背中をあずけて、そう、楽に、楽に。遠慮はいらんで」
ウネが、もたれてきたエツを抱え込むようにする。腹抱きという、出産の時の恰好だ。
入口の筵があがる。
トシが、家の中へと入ってきた。ウネと目が合うや、トシはきゅっと唇を引き結んで、小さく頷いた。ウネも頷き返す。
トシは手早く蓑笠を解き、エツの足元にしゃがみこんだ。
「エツさ、見さしてもらうでな」
言うと、トシはエツの開いた股の間から素早く触診をし、ウネを見上げて首を横に振った。
「まんだ、赤ん坊が下りてきとらん」
いきむのには早すぎるということだ。
「ほれに、やっぱり逆しまのまんまや。尻が下にきとるわ」
「ほうか」
ウネはため息交じりに返事をした。最後の最後、頭位になっていてくれることを御仏に願ったが、その望みもついえた。
「ウネさ」
エツが、汗でべっとりと額に張り付いた髪の間から、修羅のような形相でウネを見上げている。
「ウネさ…後生ですで。いざとなったら、腹でもなんでも裂いてくれてええ…おれの命に代えても、この子だけは助けておくれんか」
エツは、絞り出すようにしてそう言った。
ウネが黙していると、エツは念を押すようにもう一度歎願して、ウネの二の腕をぎゅっと掴んできた。
あまりに強く掴まれたので、そのまわりの腕の皮膚がほの赤くうっ血しはじめる。ウネが首肯するまでこの腕離さぬ、といった気迫だった。
「おれ、龍神様と約束したんや。もし子を授けておくんないたら、命に代えても産みますでっての。ウネさ、おれは、死んでもかまわん。やけど、どうかこの子だけは…どうか、どうか、頼んます」
エツに迫られ、ウネは息を飲む。
生まれた時からエツを知っているが、自分がああしたいこうしたいということは、ほとんど言ったことのない子だった。それがどうだ、自分の命を懸けて、訴えに出ている。ウネはエツの頼みに面食らいながらも、腹の底が打ち震えるような感激を覚えた。
トシがエツの股越しに息をひそめてこちらを伺っている。
それにちらと目をやって、ウネはまたエツの血走った眼に視線を落とす。
「…藤六さは、子はだめになってもかまわんから、なんとかおまんだけは助けてほしいと、そう言っといでたが」
エツは、目を怒りに歪ませ、何度も激しく首を振った。
「…ほうか、分かった。おまんは、もう立派な母親なんやな。命を賭して子を生かそうとする、母親という生き物になったんやな…」
ウネは、自分の腕を握るエツの手に自らの手を重ねて、強く握り締めた。
「分かった。もしそうなったときは、おまんの願い通りにしてやる」
トシがぎょっとした顔をしたが、そちらに目をやることなく、ウネはエツに向かって何度も頷いていた。エツはその頬にとめどなく涙の筋を作りながら、深く息を吐いた。
「おおきに…ウネさ」
ウネの腕の中で、エツの強張っていた身体が弛緩していく。
「礼を言うのはまだ早いと、さっきも言ったやろうが。さあ、勝負はこれからじゃ」
ウネは、凛とした口調に切り替え、今しがた漂っていた感傷的な空気を断ちきった。
「ええか、エツ。まず、腹が痛みだしたら、息を吸うことよりも、吐くほうに力を注げ。痛み逃しといってな、息を細くゆっくりと吐くと、少し痛みが和らぐ。最初から無理にいきんだらだしかん。赤ん坊が自然に下りてくるまで、ひたすら、痛み逃しや。ええか」
ウネが言い終えたそばから、陣痛がきた。思わず力んで身をよじろうとするエツを、ウネが叱りつける。
「息を吸って、吐いて…吐いて…吐いて」
ウネの指導に、エツは無心で従った。意識を、ただただ呼吸だけに集中する。
トシがその間に、桶に水を汲んで湯を沸かし、さらしを何枚も近くに重ね、出産のための種々の準備を手際よく行っていく。
女たちの長い戦いがはじまった。
日本史総合研究会.日本女性生活史 第2巻 中世.東京大学出版会,1990
※参考にした著者、章タイトル、ページ数をメモし忘れたため、後日追記いたします。