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逆しまの子(前編)──嵐夜の坂を越えて

 文月も半ばに差し掛かろうとしていた。


 長引く梅雨のせいで板の間や布団が湿気を帯び、すえた臭いを発している。

 風ひとつない隠居小屋の中は、蒸し暑さがこもって息苦しく、どこからか舞い込んだ蚊が耳元でしつこく鳴いて眠れない。

 ウネは、少しまどろんでは、耳元によってくる蚊の声に起こされ、節くれだった手でそれを追い払う、というのを繰り返していた。


 もう、夜明けが近いか。漆黒の闇がうっすらと薄墨色に変わりつつある。


 日没と同時にふりだした雨は夜半過ぎた時分からにわかに勢いを強め、屋根や壁をたたきつけて豆を炒るような音をたてている。その心地よい律動に、やっと眠りへ誘われようとしていた時だった。


 突然、ものすごい轟音が鳴り響き、ウネは目を開けた。


 誰かが、外から小屋の戸を壊さんばかりの勢いで叩きつけている。誰や、と問う前に、

「ウネさ、俺や、藤六や!」と、切りつけるような声がした。


 ウネは布団から飛び起き、土間を跳ねて、戸を開け放った。


「ウネさ、うちのかかが、腹が痛いと、もう生まれそうやと言うもんで…」

 笠から幾筋も垂れる雨水の隙間から、藤六の不安そうな目がこちらを見下ろしていた。

「ほうか、よし、わかった」

 ウネは、気が立った牛をなだめるように、藤六の二の腕をぽん、ぽんと叩いてやる。

「おまんは、有馬様を呼びに行け。おれは、エツんとこに向かうでな」


 そう言いおいて、駆けだそうとするウネの袖を、藤六がつかんだ。


「ウネさ、赤ん坊が…その、逆しまになっとると聞いとりますが…。やっぱり、そうなると、無事に産まてくるのは、難しいんやろうか」

 袖をにぎる藤六の手が激しく震えている。

「赤ん坊は…あかんようになっても、構わん。ほんでも、エツだけは、なんとか…なんとか、助けてもらえんやろうか」

 薄闇の中で、笠の下の藤六の青ざめた顔が見えるようだった。ウネは、袖にしがみついている藤六の手を優しく剥がして握り締めてやる。

「どうもない、心配したってはじまらんでな。エツは強い女や、誰よりもまず、主のおまんが信じてやらないかん」

 ウネは、藤六の手を握る掌に力を入れた。

「おれら取り上げ女は、やるだけのことをやる。そっから先は、神仏の領域や。そうとなれば、巫女様のご祈祷がないとはじまらん。ほれ、有馬様をはよ呼びに行け」

 藤六は、うん、うん、とか細い声で自分を納得させるようにうなずくと、白山中宮の方向へと走り去った。


 水たまりの水が跳ねる音が遠ざかっていく。


 ウネも蓑をまとい笠をかぶるや、まずは同じ取り上げ女のトシの家へと向かった。


「トシさぁ! すまんが、起きとくれ! エツが産気づいたそうや!」


 家の前でウネが呼ぶと、一瞬の間を置いて、トシが戸を開ける。

 眠た眼をこすってはいるが、しっかりと蓑笠を身にまとっている。この、突然呼ばれてからの身支度の早さは、長年取り上げ女をしている証だった。


「こりゃあ、どえらい雨風やなぁ! 難儀な日に産気づいたもんやわい!」


 軒をでるや、頭に被った笠を叩きつける猛烈な雨に辟易したように、トシは肩を聳やかして目を歪める。


「はっはは、本当やのう! 飛ばされんように気を付けな!」

「こんな重たい年増ふたりを飛ばせたら、風さんもご立派なもんじゃ!」


 最初はそんなふうに軽口を叩いていたが、行く手から飛んでくる礫のような雨粒に頬を打たれ続けた挙句、強風に煽られて体ごとすくい上げられそうになると、さすがに閉口した。

 ふたりは身を低くかがめ、頭の笠でぐいぐいと風雨を押し戻すようにして、エツの家へ続いている吊り橋を目指した。この雨では松明も使えないから、夜目をたよりに歩を進める。


「しかし、こんなひどい嵐になるとは…なんか胸騒ぎがするの。雨だけやない、何かがこう…押し寄せてくるような気配や」

「なんじゃあ、いきなりどうしたんよ、トシさ」

「おまけに、腹の子は、逆子ときとるしの…」

「どういたんじゃ、おまんらしゅうない、弱気やの」


 ウネは笑い混じりで返したが、その目は笑ってはいなかった。


 実際、トシらしからぬ発言だった。トシの齢はウネの三つ下の三十七。今まで数え切れぬほど多くの村の子供を取り上げてきた熟練の取り上げ女であり、逆子も、何人も経験しているはずだ。何より、肝の据わり方だけとればウネ以上であり、こんなに動揺している彼女はまるで別人のようだ。


「…いや、何べん取り上げても、やっぱり逆子いうのはな…気が重うての」

 と取り繕うように言ったが、その声はどこか震えていた。

(トシは、なんかを恐れとる…。いったい何を?)

 そこまで考えて、ウネは首を振った。別のことにかかずらっている時ではない。今は、エツと腹の子の命がかかっているのだ。

「…ほうやの。最後の最後でひっくり返っておればええが…こればかりは、神仏におすがりするしかないでなぁ」

 逆子は、一番大きな頭が最後に出てくるために、産道にひっかかるなどして、非常な難産になることが多い。エツの腹の子はその逆子であると、ふた月ほど前の触診で、すでに分かっていた。

 それからは、エツに脚を上げて寝させてみたり、腹を回すようにさすってみたり、ありとあらゆることを試したが、ついに逆子は治らず、この日を迎えることになったのだ。


 吊り橋にたどり着く頃には少しばかり雨脚は弱まってはいたが、それでも横殴りの雨風に橋を吊っている縄が激しく軋み、橋の足場も、ゆらん、ゆらん、と揺れている。

 橋の下では、増水した川の水が渦を巻き、渓谷の壁面を削り取るがごとき勢いで流れている。その轟音と時折足元まで飛んでくる水しぶきに、さすがのふたりもたじろいだ。


「ウネさ、こんな橋、渡って行くんかえ?」

 トシが濁流の音に負けぬよう、叫ぶようにして問う。

「行くしかない! お産は待ったなしじゃ!」

「ほんでも、万一足滑らしたら、おれらがお陀仏やぞ!」

「帰りとうば、帰れ。ほやけど、わしは、ひとりででも行く。エツが待っとる」

 ウネは手を合わせて念仏を唱えると、欄干がわりの縄をぐっと握り、橋の上へと足を踏み出した。

 御仏の名を呼びながらやっとのことで橋を渡り終えたウネは、体をくの字にして深く嘆息する。

 数秒の間を置いて、橋を渡ってきたトシが、ウネのすぐ後ろに倒れこむようにして胸を押さえていた。

「なんや、帰ったんとちがったんかえ」

 振り返って、ウネは今日一番の笑みを浮かべた。

「…ウネの姉さを、ひとり行かせるわけにはいかまい」

 トシは呼吸を整え、寿命が縮まったとこぼしながら、体を起こす。

 ふたりの前には、獣道ともいえるほそい坂道が山の中へと伸びている。ここを登れば、エツの家だ。

 空はだいぶ白んできており、あたりの岩や樹木が、うっすらと輪郭を持ち始める。ふたりは、群がってくるやぶ蚊やブヨを手で払いながら、何度も刺されては悪態をつきつき、坂を上っていく。


「トシさ、おおきにな」

 前を行くウネは、トシの方を振り返ることなくぽつりと言った。

「どうしないた、急に礼なんぞ」

「エツのお産、引き受けとくれて、おおきに。おまんだけや、受けとくれたのは」

 その途端、ウネが背中に感じるトシの気配が変わった。急に重苦しく、沈んだ気をまとい、何かためらうようにもごもごと口ごもっている。

「…本当はの、おれも、断ろうかと思ったんじゃ。業を出した家に関わりとうはなかったし、妙な噂も聞いとったし…」

「妙な噂?」

「うん。ほれ、夜叉ヶ池にお百度に行って身ごもった子なんやろ? もし産まれてきたら、よからんことが起こるかもしれんと…」

 

 黙々と坂を上っていたウネは、ぴたりと足を止めた。

 振り返ったウネの形相に、トシは息を飲む。


「おまん、その話、誰から聞いたんじゃ」

 答えずに目を泳がしているトシを、ウネはさらに問いただす。

「言ってみい。誰から聞いたんじゃ」

「…巫女の、有馬様じゃ」

 今にも消えそうな声音。トシに、後ろ暗いところがあることは明らかだった。

 ウネは分厚い掌で顔を撫で、嘆息する。吐息といっしょに、体中の力が抜け落ちたようだった。虚脱感が、みるみるウネの中を侵食していく。

「ほれで、なにかえ。おまんがこの話を受けとくれたのは、有馬様の差し金というわけかえ」

「ウネさ、おれは…」

「子が産まれてきたら、殺せとでも言われたんか?」

「…殺せ、とは言わなんだがの。産まれても育たん方がええ子かもしれん、そんなような言いぶりでな…」

 

 トシは口をつぐみ、しばし、雨の音に耳を澄ますようにうつむいた。


「…ほれで、おまんは産まれてきた子を殺すために、話を受けたと、そういうわけか? え?」

 ウネの剣幕にトシはびくりと肩を聳やかせたが、しかし次の瞬間、きっとウネを睨み返した。

「見くびってくれるな、姉さ。おれだって、取り上げ女や。おれが受けたのは、ただ姉さといっしょに子を取り上げるためや。逆子のお産は、ひとりじゃ難儀するやろうと思ったもんでや」

 たちまち、トシは涙目になった。

「ほんでもよ、どういても、有馬様の言葉が頭をよぎって、心の臓がきゅうと縮こまる思いがするんじゃ。子が産まれて、村に大変なことが起こったらと思うと…。姉さもこの噂は知っとろう? おそごうないんかえ?」

「そんな噂、わしは端から信じとらん」

 トシは、泣き笑いのような顔になった。

「…エツは、姉さがはじめて取り上げた子やったか。ほんでも、本当(ほっと)の娘でなし、どういてそんに、あの子に肩入れなさる」


 ウネはふっと寂し気に目を落とした。


「わしが至らんかったせいで、あの子のかかさまはお産で死んだ。あの子にかかさまがおってくれとったら、あの子の人生も違ったもんになっとったはずや」

「責任を感じておいでるんか? ほれで姉さは、これまで村でどんに後ろ指さされても、親身になってエツの世話をしてこられたんか?」


 しばしの沈黙があった。

 傘を叩く雨の音が、嫌に大きく響く。


「……エツの子に、エツと同じ悲しみを味わわせるわけにはいかんのや。エツも、その子の命も、わしが守ってみせる」


 低く言うと、ウネは、また前を向いた。


「…この坂をあがるまでや。その間に、有馬様から聞いた話やためらう気持ちは全部捨ててまえ。ほれができんのなら、おまんはここで引き返せ。お産は、わしひとりでもやる」

 そう言い捨てると、ウネはまた坂を上り始めたのだった。その背は、迷いも、恐れも振り捨てるようにまっすぐ伸びていた。

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