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祈りの残響

 目をうっすらと開ける。また閉じ、開ける。見えるものは同じだった。ただただ、漆黒の闇――一点の明りもない、地の底のような闇。


 鼓動の音が、やけに耳の奥で大きく響く。冷たい湿気が肌を這い、土の匂いが鼻を刺す。


 ここはどこなのだろう…と、混濁している意識の中でぼんやりと考える。


 身体が言うことをきかず、だらりと横たわったままだ。頭は重く、呼吸に合わせて鈍器で殴られるような激しい痛みが走る。その度に、思わずうめき声が漏れる。胃が、むかむかとしている。この鼻をつくすえたひどい臭いは…おそらく吐しゃ物だ。知らぬ間に嘔吐し、その中に顔を横たえているらしい。


 なんて様だ――。


 身じろぎをして、なんとか吐しゃ物の池から身を遠ざけようとしたが、すぐ背中が壁にぶち当たった。


 ここはどこなのだろう…。体を横たえたまま足を延ばそうとすると、また壁に当たる。随分と狭い部屋のようだ、まるで棺かなにかのような。


 ――――棺……なぜ。


 なぜ、棺の中にいる。

 死んでもいないのに。

 まさか、まさか……。生きたまま、埋められたのか――。


 思考がそこまで辿りついた瞬間、突き上げる恐怖が身体中を貫いた。その力に圧されるようにして、身を(もた)げた。かろうじて座ることはできるが、立とうとすると頭がぶつかる。手触りからするに、四方を土止めの石の壁に覆われている。出口が分からない。いや、そもそもそんなものはないのかもしれない。


 おうい、おうい! 誰か、誰か! 出してくれぇ‼


 壁を叩きながら声をからげて呼んでみるが、壁に反響するばかりで、外には届いている気配さえない。


 おうい‼ おうい‼


 するとまた、突然猛烈な頭痛と吐き気が襲ってくる。膝をつき、暗闇の中に再び嘔吐する。眩暈がして、また、意識を失った――。



 目を開ける。瞬きをする。

 今が昼なのか、夜なのかも分からない。未だに、闇の中にいる。

 体のだるさと重みに引きずられるようにして、目を閉じる。

 遠くで水が滴る音がした。

 いや、違う――それは声だった。誰の。かつての師の読経の声だ。


 十代の頃、師の入定に立ちあった記憶が蘇る。

 断食に断食を重ね、肉が削ぎ落され、まるで干物のような姿となった師は、厳めしくも、誇らし気に目を炯々と輝かせ、地下に掘った石室へと入られた。それから毎日、慈慧は兄弟子らとともに、地下に続く竹筒にわずかな水を差し入れ、地の底から響いてくる鉦の音と、師の読経の声に手を合わせた。兄弟子らが帰った後も、慈慧はその場を動くことができなかった。なんと崇高なことだろうか。人々の苦しみを背負い、師は今、ここでまさに、仏になろうとしているのだ。慈慧は思わず地面に額を擦り付けた。涙がとめどなく溢れ、身が打ち震えて止まらなかった。


 やがて、力強かった読経の声は、日に日に小さくか細くなっていった。そして、とうとう、それはぴたりと止んだ。


 ――――入定されました。


 兄弟子たちが竹筒を抜き、石室に蓋をすると、集まっていた大勢の弟子や人々らのむせび泣く声があたりにこだまし、大気を揺らすほどだった。


 それから慈慧は、雨の日も風の日も、雪が降る最中でも、その場に通い、師に手を合わせて読経をした。その時ほど、御仏を近くに感じたことはなかった。


 石室を空ける日には、慈慧は二十代となっていた。中秋の、からりと晴れた日のことだった。慈慧を含む弟子たちとともに、石室の蓋を開けた。その時の、なにかに撃たれたような感覚は、忘れることができない。


 石室の中で、師は朽ち果てていた。白骨が露呈し、見るも無残な姿だった。


 その亡骸を見ながら、意識が遠のいていくのを感じた。その場にいた誰も、言葉がでなかった。重苦しく気まずい空気に押しつぶされそうだった。


 埋葬をするときも、枯渇してしまったかのように、涙は一滴もでなかった。ただただ、ぽっかりと胸に穴が開いたような、ふわふわと、綿毛のように無為に宙を漂っているような感じだった。喜怒哀楽という一切の感情が自分のなかから零れ落ちていくようだった。


 遡れば、あのときがすべての起点となっていたのかもしれない。なにをするにも、そこはかとない虚しさを感じるようになったのは。


 けれども、なぜ。なぜ自分はこの時、山に残ることにしたのだろう。志を失い離れて行く弟子たちも少なからずいるなかで、なぜ自分は――――。

 御仏に留められた、そう言ってしまえば簡単だが、やはり自分は、あの入定される師の姿に、命を懸けた祈りの声に、魂をもっていかれてしまったのだった。

 即身仏にはなれず、朽ち果ててしまった空しき師の体だったが、その祈りは確かに残ったのだった。この世に真に残るものは畢竟、形なきものでしかない。


 慈慧の口元に笑みが浮かんだ。今の今まで自分を支配していた飢えと渇きへの恐怖、なにより、死への恐怖が、潮が引くように遠のいていった。はからずも、ここは、師が祈りながら入定された際におられた場所――――一切の闇の中に、今自分は置かれている。若かりし頃の自分が焦がれた最期の場所にも等しい。


 あのときの師の読経の声がどんどんと大きくなり、やがて室内に響き渡る。

 慈慧は身を(もた)げ、結跏趺坐(けっかふざ)を組んで目を閉じ、手を合わす。

 師の読経に、自分のそれが重なる。


 師はあの時、このような闇の中で命を賭して何を祈られていたのだろう、自我が完全に削ぎ落された境地での、極限の祈りというのは果たしてどんなものだろう……。そんなところに、生半可で山を降りた自分が到達できているとは到底思えなかったが、何かを一心に想い、この身を捧げて祈ることは、できるような気がした。


 エツの顔が浮かんだ。そして、千太の顔が――――幸せになってほしい。理不尽な運命や過去に押しつぶされないで、どうか、自分が納得できる生き方を、選んで生きていってほしい。


 師の読経と自分の読経が溶けあい、今や室内に響くは慈慧の声のみとなった。

 それは、滔々と流れる川のように、途切れることはなかった。

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