有馬
夜明け前に、霧雨が地表を撫でていった。
窓から流れ込んでくる土臭い湿った空気が、生温かい俄のように肌に纏わりつく。
草鞋を履き、そっと戸を開けると、軒から雨水が絹糸のように垂れていた。
東の山の稜線近くの空は、薄藍に変わりつつある。
虫の声の合間に、かすかな鳥のさえずりが混じった。
「…慈慧様」
後ろから、そっと袖に触れるようなさやかな声がする。振り返ると、起き抜けの髪を手で整えながら、由良が立っていた。彼女の肩越しに、板間で横になってまだ眠っているウネが見える。
「まだ寝ておいで。夢見が悪かったんじゃろう、夜中うなされておったから」
そう言い残してその場を後にしようとした慈慧を、由良は再び呼び止める。
「……昨日母屋の横に立っていた人のことですが…あの嫌な感じ、身に覚えがあります」
敷居から一歩外へ踏み出したまま、慈慧は動きを止める。ゆっくりと振り返ると、由良が不安そうな目でこちらを見上げている。
「…知っているというのか?」
「……白山中宮社においでる、凪という巫女様じゃ。お会いしたのは、つい最近なんやけんど…あのとき感じた息のような気配が、昨夜と同じで…………」
「凪様…か。いい機会じゃ、これからわしは中宮社へ行く。その折、お会いできたら、それとなく伺ってみよう。ああ、心配するな、おまえさんのことは何も言わずに探ってみるから」
それじゃあ、と由良に背を向けたが、ふと思い立ったように、またちらと彼女を振り返る。
「そうだ、千太と逢うなら、いい場所があるぞ」
そう言って、突っ立ったままの由良にそっとその場所を耳打ちした。
「…ここなら、人目にはつかまいで、邪魔は入らんじゃろう」
「えっ、もう、慈慧様!」
むくれ顔とは裏腹に、頬が鬼灯のように顔を真っ赤になっている由良をからかうように笑って、慈慧は今度こそ白山中宮社に向かって歩き出した。
往来には、すでにちらほらと風呂鍬をかついだ村人たちが、眠気眼をこすりながら歩いていた。
眼下の田地には青々とした早稲の稲が茂り、それが夜明けの風に吹かれ靡く様は、上からみるとまるで手で撫でつけられた動物の毛並みのようにみえる。稲穂はなんとか実っているようだ。
「もし、白山中宮社へは、この道であっておりますかな」
慈慧は、通りすがる二人組の村人に、素知らぬふりをして声をかけた。
「ああ、はい、この道をまっすぐ行ったとこじゃ。ほれ、立派な屋根がむこうにもう見えとりますでしょう」
「おお、本当じゃ、かたじけない。ところで、ここらは旱魃の兆しがあったと聞いたが、無事に稲も実ったようですなぁ」
言うと、村人らは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「はぁ、一時はどうなることかと思いましたけんど…」
「凪様のおかげじゃあ、なぁ?」
「凪様、とな?」と、慈慧は興味深そうに身を乗り出す。
「はい、白山中宮社においでる、立派な巫女様じゃ。この前の旱魃の折、夜叉ヶ池でご祈祷しとくれて、わしらを龍神様の祟りから守っとくれたお方です」
「凪様のご祈祷のときは、風まで止まったんですで。今もお姿を拝むたび、涙が出てきましてな。あれは、まこと神さまのお遣いじゃ。今後どんなことがあっても、きっと解決しとくれる」
「名主様も、その奥方も、すっかりご心酔ですで、なぁ?」
やはり、凪という巫女の評判はうなぎ登りのようだ。
慈慧はわざと大仰に驚いてみせ、そのようなお方がいらっしゃるなど知らなかった、噂で祟りを鎮めた巫女がいると聞いたが、それはてっきり有馬様という方だと思っていた、と言うと、村人らは含みを持った顔で、ちらちらと顔を見合わせてから、
「お坊様、ここだけの話、有馬様はそう力をもっておいでません」
と、囁くように告げた。
「なんと。白山中宮に有馬なる美麗の巫女ありと、その噂は都まで届いておりましたがな」
すると村人たちは、冷笑するように顔を歪めてくっくと肩を揺らした。
「〈美麗〉じゃったのは、昔むかしの話ですで、お坊様。今はただの、白髪の老巫女じゃ」
「この間も、有馬様がいくらご祈祷を捧げても雨が降らんかったというに、凪様が捧げたらば一発じゃった。ご祈祷が終わるころには、空に黒い雲がもくもくと出てきましてな。わしは、この目で見ましたで、間違いない」
「この目で見たというのは、おまえさん、ご祈祷の場に居合わせたのか?」
「わしは名主様に懇意にしてもらっとるもんでの、特別に、いっしょに行かせてもらったんじゃ」
慈慧の感嘆に気をよくした村人は、鼻高々な様子だった。それを見て、人身御供のことを問うと、村人はあっさりと認めた。
「名主様んとこの下人をひとり、池に沈めないたわな。顔は遠うてよう見えなんだけど、女じゃったな。声からして、けっこう歳がいっとる女でなかったかな。病で手足が腫れて、もううまく動けんのんやと聞きました」
村人は、抑揚のない声で淡々と告げる。
「やっぱり、効果覿面ですで、人身御供は。凪様のご祈祷もあわせれば、怖いもんなしじゃ。ほんまに、すぐでしたで、雨が降ったのは」
それはそれは、今から中宮社に行くので、凪様にもお目にかかれたら嬉しいと、心にもないことを適当に話して、慈慧はその場を後にした。
白山中宮社に向かう道すがら、慈慧の心は重苦しく、軽い吐き気すら催していた。
村人らの圧力のもと、下人の女が有無を言わさず池に投げ入れられる光景が、慈慧の目の裏にありありと浮かぶ。池に沈む刹那の女の顔が、ふとエツと重なる。
胸の奥で、なにかを引っ掻くような音がした。
その心象を掻き消すように、激しく、激しく首を振った。
やがてたどり着いた白山中宮社は、そんな慈慧を威圧するかのように、堂々たる姿でそこにあった。十五年ぶりに足を踏み入れた境内は朝靄に包まれ、厳かな雰囲気に自然と身がしまる。
白山登拝に向かう道者たちの影が靄の中を行きかっている。
その中に必死になって登拝を繰り返していたかつての自分を見るようで、胸が軽く締め付けられた。
本堂の外を掃き清める巫女に、有馬への取次ぎを頼む。待つ間、釈迦三尊像に手を合わせ読経をする。つい、夢中になっていると、背後から土を踏みしめる音が近づいてきて、ぴたりと止まった。
振り返ると、朝靄の中に、有馬の姿があった。
もともと細身ではあったが、十五年前と比べて、一回りほど痩せた有馬の顔面は、薄く皺に覆われた皮膚を突き破らんばかりに頬骨が突き出ており、顎が細い分、余計に鋭利な印象を与えた。真白な長い髪をだらりと垂らし、靄の中に立っている容貌は、黄泉の国に住まう亡者のようだ。その、形は良いがやや吊り上がりすぎている目が、慈慧を捉えるや、わずかに揺れた。
「お久しゅうございます。十と五年ぶりでございますな、有馬様」
変わり果てた有馬を前に動揺していることをおくびにも出さず、慈慧は穏やかな笑みを浮かべたまま頭をさげる。
「ほんまに、戻ってまいられたのか、慈慧殿」
有馬は、ただでさえ切れ長の目をさらに細めて、慈慧をねめつけるように見る。
「約束でございましたからな。十五年後に、あの子を見極めに参ると」
「……立ち話もなんじゃ、こちらへ」
有馬に通された部屋は、客間とも違う、縦長の窮屈な部屋で、有馬と向かい合わせに座ると、互いの膝が今にも触れ合わんばかりだった。居心地の悪さを胸のうちに押し込めて、慈慧は運ばれてきた茶をすする。
「白い蝶の噂を、聞いて来られたんじゃろう」
有馬も茶をすすり、ふぅっと細い息を吐く。
慈慧はじっとりとにじみ出てきた汗を拭った。日が照りだすにつれ気温はみるみる上がっているというのに、小さな窓がひとつしかないこの狭い部屋は空気がこもって蒸し暑い。
「答えはもう出とる。やはりあの子は…千太は龍神の子じゃ。この村に災いをもたらす、忌むべき子じゃ。この間の白い蝶の群れが、何よりもの証拠」
「白い蝶の群れと千太の間に、いったいどんな因果があると申される」
「しらばっくれるのはよしてくだされ。おぬしも見ておったんじゃろう、十五年前、池で祈りを捧げるエツの姿を…そして、その周りを舞う白い蝶の群れをの」
慈慧はぎゅっと眉根を寄せて目を見開く。しばし言葉がでなかった。胸の奥で、封じていた記憶が鈍く疼く。なぜ、有馬がそれを知っている…。
「夜な夜な、夜叉ヶ池に子宝祈願に行っておる女子がおると聞いての、わしはエツのところに、そんな真似を今すぐやめるよう、頼みに行ったんじゃ。けんども、あの女、わしの言うことをまるで聞かず、それからも御池に通い続けた。ほれで、いっぺん戒めてやろうと、わしは御池に潜んでおったんじゃ。そこで見た。エツが御池に浸かって祈りだしたとたん、どこからともなく、白い蝶の群れが飛んできて、あの女の周りを舞っておるのを」
慈慧は、顎から滴る汗を拭った。喉が痙攣したように動かない。
「白い蝶の噂を聞いて、おぬしはここまで戻って来た。その時の光景を、思い出したからやろう、違うか? これでもまだ、あの子が産まれた時に千手観音様が降臨されたなどと、戯言を言うつもりかえ?」
有馬は冷ややかな笑みを口の端に浮かべている。その胸ぐらをひねり上げたい気持ちを慈慧は必死に抑えた。呼吸が苦しくてたまらない。
「エツのお百度はの、祈りなんぞではない。あれは呪詛じゃ。村を恨み、世を恨むあの女が、龍神と結託して災厄を起こすためのな」
「………笑止千万でございますな、有馬様。エツのお百度は、子を求める母の祈りそのものでございました。付き添ったわしが、誰よりもそれを見てまいりました。そのわずか断片しか知らぬあなた様に、あの……あの崇高な祈りを…汚す権利はない…」
舌がもつれたことに、慈慧は違和感を覚える。目と鼻の先に座っているはずの有馬がぼんやりと霞み、自分の声が遠くに聞こえる。
「その目…その目じゃ」
ぼやける視界のなかで、有馬が自分を指さしている。
「千太が産まれたあの日、吊り橋のところで出会ったおぬしに、その目で睨みつけられ、わしはひるんでしまった。今思えば、あのとき、どうしてあの子を…そしてあの母親を、きちんと始末しておかなかったのかと悔やまれてならん」
慈慧はついにしっかりと座っていられなくなり、背を後ろの壁にどんと預けた。
(…しまった…この茶のなかに…)
慈慧は油断した己の甘さに、歯噛みをする。霞む目を必死に凝らして、有馬を睨み続けながら、手を床について体を支える。
「……今すぐ、あの母子に手をかけると申されるか……そんなことが…できるはずがない…所詮、あなた様は、自分ひとりではなにもできぬお方…それに、もう、あなた様の言うことをきく村人は…おるまいで…」
風が出てきた。白山中宮が背負う鎮守の森が騒めいている。その音に重なるように、くつくつと、有馬の低い嗤い声が響く。
「エツに骨抜きにされた坊主め。お百度を手助けしたおまえも、同罪じゃ」
その声を区切りに、目の前がぐらりと揺れた。意識が遠のく刹那、有馬の口元が薄く歪み、紅く閃いたような瞳が、こちらを睨みつけているのが見えた。
天地が逆転し、視界が暗転する。光も、音も、すべてが途絶えた。




