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灯と影のあわいに

 小屋から母屋の裏に続く階段を駆け下り、壁に背をつけ様子を伺う。

 厠から母屋に戻る途中で人影を見たということは、だいたいこのあたりのはずだが、夜目を凝らしても、それらしきものを確認できなかった。

 

一応、母屋のぐるりを歩いてみながら、黒々とした水が胸の底に溜まっていくようで、息が詰まる。

 

 人影が確認できなかったが、かえって妙な気配が濃厚にその場に漂っているのを感じる。慈慧は数珠を握り締め、まるでまじないのように、口元で小さく読経をしながら、小屋へと戻った。

 

 草むらから響いてくるクビキリギスのジーッというざらついた声が耳に障る。


 戸を開けると、板間の上で、ウネと由良が寄り添うようにして、すがるような目でこちらを注視した。慈慧が首を横に振ると、ふたりは気が抜けたようにため息交じりに肩を落とす。


「由良、おまえは今日ここで眠ったほうがいい。わしがいっしょで、嫌かもしれぬが…」

「いんえ」と由良は少し気まずそうにしながらも、「ここで寝ます。母屋に帰るのも怖い(おそがい)し…」


 慈慧は頷く。


「ウネさん、今宵は雲が多くて月明かりが届かぬ。油はもったいないが、できるだけ、灯を絶やさぬほうがよい。わしが起きて見張っておるから、ふたりは安心して休まれるといい」


 ウネと由良は、顔を見合わせ、申し訳なさそうに慈慧に頭を下げ、その提案に乗ることにした。


 ふたりは布団を敷いて横になった。しばらくすると、由良の寝息が壁にもたれ座っている慈慧の元へと届いた。衣擦れの音がするので目をやると、ウネが体を擡げている。こちらを見つめるその深い灰色の瞳に灯が反射して、まるで水あめのように光っていた。


「慈慧様、先ほど言いかけないたことですが…なんか、千太から聞かれましたかな」

「ええ。詳しく聞かせてくださいますかな、由良の身に十年前に起きたことを」


 ウネは、あの白い蝶の群れの晩に、千太と由良に語ったのと同じことを、訥々と慈慧に話して聞かせた。

 話を聞き終えた慈慧は、しばし目線を床に落とし、沈黙した。


「…つまり、高熱のため由良が死んだと思い込んでいた母親の元へ、得体の知れぬ童が現れ、由良を運んでどこかへ消えたと。千太の話の内容からするに、その行き先が、夜叉ヶ池だったということですな。そこで由良は池に供されたが、何らかの理由で生き延びて、家まで帰って来たと…」

「信じられん話ですが、そういうことになります。龍神様が生かしてくださったんやろうか…現にこの子の母親は、その時の童が龍神様のお遣いやったと信じ切っております」


 慈慧の背筋に、先ほどの母屋で感じた不気味な気配が、未だにべったりと張り付いていた。黒く縁どられた人影が、戸のすぐ側に再び立っている気がして、体中が泡立つ。


「お母上は、その童がどんな見てくれやったか、覚えておらんのですか」

「ほれが、残念なことに…」


 慈慧は、低くかすかに唸った。


「ウネさん、このことは、他の誰にも話しておらんのですね?」

「はい、わしと、母親の雪しか知りません」

「確かですか」

「雪は用心深い女で、流言を何より恐れておる。こんなことを村の誰かに話すとは思えませぬ」


 慈慧は頷いた。


「わしも、他言は絶対にせぬと誓いましょう」


 そして、なにやら考えを巡らせるように、揺れる灯火をじっと見つめてから、「白い蝶…」とぽそりと呟いた。え?と首を傾げるウネに、慈慧は静かに視線を移す。


「エツの夢に、由良の夢…夜叉ヶ池に深く関わったふたりの夢に、共通して白い蝶が現れるというのは興味深いことです。夢だけではない…実際、白い蝶の大群が空を覆った。その日に由良は記憶を取り戻した。エツの夢に白い蝶が出てきたのも、おそらくそこに端を発している。そして、千太の…」


 ここで、慈慧は口を噤んだ。千太の頬の鱗のことは、ウネはおそらく知らない。


「……なにかの、徴ということでしょうか? なにかの…」


 そう問うウネの声が詰まる。そのごつごつと節くれだった両手で顔を覆い、体を曲げてうつむいた。


「村に、何かが起こるんでしょうか……慈慧様、わしは信じとうありません。子を授かりたいというのは、エツが生まれてから抱いた唯一の願いやったんです。ほれが間違いやったなんて…夜叉ヶ池へのお百度が…千太を産んだことが…ぜんぶ、災いにつながっておるなんてこと…あってはならんことです、そんなこと…」


 息を荒げて身を震わせるウネを、慈慧は見守ることしかできなかった。


「まだ、何も分かりませぬ。分からぬことは、憶測で決めつけてはならん。ウネさん、わしは明日、白山中宮社へ行ってまいります」

「中宮様へ、ですかな」

「はい。有馬様と…凪という御方にも、お会いしてみねばならんようです」

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