光の残滓
千太と別れ、慈慧はひとり村に戻った。
山の向こうに沈んだ太陽がわずかばかりに投げた光の残滓で、かろうじてまわりの物の形が識別できるが、あと少しで、その輪郭も闇に溶けて消えるだろう。手首を、まだ千太に掴まれているようだった。そちらの手だけ、細かな震えが止まらない。
――幻滅しましたか? かかさまが、もう若くも美しくもないから?
あの時、胸の奥がざわついたのは、千太の言葉が図星だったからだ。否、〈幻滅した〉というのは少し違う。ただ悲しかった、そうだ、変わり果てたエツを目の前にして、言いようもない悲しみに襲われたのだ。同時に、自責の念に押し流されそうになった。
もし十五年前、自分が彼女の元を去らなければ、こうはならなかったのではないか。
ならば、今こそ――と決する傍から、別の声が制する。
今おまえの胸にあるものは、捨てきれなかった劣情から湧き出た蛆のような感情ではないのか。彼女の夫がいなくなった今、それを好機とばかりに積年の想いを晴らそうとしているのではないか。恥を知るがいい。畢竟、おまえにできることは、御仏にすがり、彼女のために念仏を唱えることしかないのだ。
慈慧は思わず立ち止まった。胸の奥が、何かに掴まれたように痛む。
脇を流れる小川の上を、無数の蛍の光が、ふわりふわりと舞っていた。その光の瞬きに合わせて、エツの萎んだ顔が去来する。生きる屍のようなその風貌を思い出した途端、憤怒にも似た感情が、慈慧の胸を震わせた。
御仏にすがっても、尽きる命は尽きる。それまでは、人は苦海の中を歩くしかない。だが――このまま、諦めるわけにはいかない。
――十五年も、想い続けておいでたんでしょう、かかさまのことを。…俺なら、ずっと傍におります。
千太の声が、眠りから揺すり起こすような鋭さをもって、慈慧の中に響いた。
もう、腕は震えていなかった。
慈慧は再び歩きはじめる。小川から離れ、集落へと向かう。ウネの隠居小屋の戸の前に立ち、戻った旨を告げると、戸の向こうから、土間に降りる急くような足音が聞こえた。
戸を引く音が、夜気のなかに細く響く。
開いた隙間からは、灯心の短い油火が、頼りなく揺れているのが見える。
戸口に立つウネは、まだ煤けた頭巾をかぶったままで、どこか遠くから戻った旅人のようだった。
慈慧の顔を一瞥するや、言葉を挟むより先に、かすかにうなずいた。
「戻られたか」
ため息交じりのその声は、深い安堵の響きがした。
「ずいぶんと遅かったのうし。さぁ、入ってくだされ」
慈慧は、深く首を垂れ、ウネに迎え入れられるがままに戸口をくぐった。
戸を閉めると、魚臭い油の臭いが鼻をつく。板間をぼんやりと照らしている薄暗い光だったが、外の闇に慣れていた目には眩しく感じられた。
「ずっと火を灯して、待っていてくださったのですか」
板間にあがりながら、慈慧は感謝と申し訳なさが入り混じった目で、勝手場で茶器に茶を注ぎいれているウネの丸い背中を眺める。
「夜明けに夜叉ヶ池に行くと言って出て行きないたきり、帰って来られんもんで、なんかあったんではないかと心配しとりました」
言いながら、ウネが茶を出してくれた。一口すすると、桑の葉の爽やかな香りが鼻腔を抜ける。吐く息とともに、体のこわばりが抜けて行くようだった。
「…ウネさん、今日、エツに会いました」
その言葉に、夕飯の蕎麦団子をとりに土間へと降りかけていたウネがぴたりと止まる。
「夢のこと、聞きました」
「…エツ、本人からですかな」
「はい」
ウネは土間へ降りるのをやめ、板間に戻り、慈慧と向き合った。
「藤六さんの病のことも、どうやって亡くなったかも。そして、叔父上のことも…」
慈慧は茶器を床に置き、ウネの方に少し目線をあげた。
「エツの叔父上は、どうして亡くなったんですか?」
ウネは瞬きもせず、慈慧を見据えていた。慈慧は出方を待つ。その一挙手一投足を見逃さぬと言ったように、瞬きさえ惜しんで。
「…それを聞いて、なにか解決するんですかな」
ウネは少し挑発的な声音で突き返す。
「あの子が言わんことは、わしの口からは話せませぬ。それよりか慈慧様、あなた様は、どうやらあの子と浅からぬ縁がおありのようじゃ。いくらお坊様でも、あの子はそんなことまで人に話すことはないでの」
慈慧は、エツとの出会いから、お百度を手伝ったことまで、すべてを話した。
「……ほうでしたか」
聞き終わると、ウネはため息交じりにそう呟き、茶を一口すすった。
彼女が見つめる囲炉裏の中には、すでに冷え固まった炭が、まるで遺失物のように転がっている。
「このままやと、あの子はそう長うは生きれんでしょう。あの子を散々翻弄してきた男たちは、死んでもなお、あの子に憑りついておる。わしも足繁く通っておりますが、どんどんと弱っていくんです。自分が歯痒うてなりません…」
茶器を覗くウネの目に、みるみる涙が溜まる。
「慈慧様、わしらにはもう、何もできることはないんかもしれん。あの子は、人を信じれんのです。今までいろんな人に――唯一の血縁じゃった叔父さや…もちろんその中にはわしも入っておるが――裏切られてきたでの。あの子が心を委ねられるのは、ただ千太だけじゃ。あの子が自分の胎から生み出した、いわば、あの子にとって自分の分身やからです」
慈慧は首を振る。
「千太は千太です。エツの分身ではない」
「ほうやけど、エツはそう思っておるんです」
「エツがそう思っておってもなんでも、違うものは違います」
ぴしゃりと言われ、さすがのウネも言葉を飲み込んだ。
「千太は、自分の人生と向き合おうとしておる。さだめを受け入れながらも、己の道を探しているんです。エツを苦しめておるのは、藤六さんでも、叔父上の亡霊でもない。あの人らの姿を借りた、エツ自身です。それを、千太にだけ背負わせるのは酷でしょう。あの子は、会うたばかりのわしに助けを求めてきた。……わしは、あの子を見捨てません。だから、ウネさん、どうかあんたも、諦めんでください」
ウネはふっと笑み零した。その目が、舌たらずのしゃべり方で必死に何かを訴えている幼い子供に傾聴するときのように、柔らかくなる。ただただ無垢にまっすぐな想いが、この大きな体から迸り出ている。エツもほだされて、この男にすべて話してしまったのだろう。
「…らしゅうもない、弱気になっておりました。目が覚めた心持じゃ…おおきにな、慈慧様」
「いえ。十五年も離れておったくせに、えらそうな口をききました。あと、ウネさん、もうひとつ、千太から聞いて気になっておることがあるのですが…由良のことです」
ウネが眉を寄せるが早いか、勢いよく扉が開いた。驚いて振り返ると、夜の闇を背負って、由良がそこに立っていた。
ぼんやりとした灯火に照らされたその顔は、ひどく強張っている。
後ろ手に戸を閉めるや、転がるように板間に上がりこむと、ウネにしがみついた。
「おばばさま、今日ここで寝かして!」
「そんに息せき切って、どういたんじゃ」
「厠から戻る途中、母屋の横に……誰かが立っとったんじゃ。顔も見えんかったけど、ぞっとするほど嫌な気がして……」
その会話を聞くや、慈慧ははじかれたように立ち上がり、小屋を飛び出していった。




