夜明けの手
墨を流しいれたような漆黒の水面に、一足の草鞋が浮かんでいる。
艫綱が切れた舟のように、ゆらゆらと漂いながら。
その草鞋を拾い上げ、あたりを見回して片割れを探したが、水面はついに沈黙したままだった。
二足の草鞋が揃うことは、もうない――一切の光が届かない、深い深い水底に、絡めとられてしまったから。
ふと目を開けると、視界には自分の手が写った。両の手は、まだ母の手を握ったままでいる。驚くほどに冷たかった母の手も、今は自分の掌の体温と溶け合って、温かみを感じるようになった。
眠っていたようだった。いったいどれくらいの時間なのか、ずいぶんと長い時間だったような気もしたし、瞬き程のわずかな時間、落ちるように居眠りをしただけな気もした。
室内を照らす月の光も、夢の名残のように、青く揺れている。
母も無事に眠ったことだし、自分もそろそろ横になろうか。そう思い、母の手を布団の上にそっと置いて、手を離した、そのとき、母の手がばっと反射的に動いて、千太の手を掴みなおした。
驚いて母の顔を見やったが、目を閉じたまま眠っている。ただし、その瞼は細かく痙攣しており、瞼の下で眼球が目まぐるしく動いているのが見て取れる。呼吸は苦しそうで、半開きになった口から、うっ、うっ、と呻くような声が時折漏れる。目じりから頬を伝う涙を見た時、千太は慌てて母を揺すり起こそうと肩に手を置いた―――が、そのまま、微塵も動けなくなる。自分の体が、意思に反して、まるでいうことを聞かない。体中に鳥肌が立つ。胸の奥が、底なしの水に引かれるように沈んでいく。
千太は、震えながら、唯一動く眼球を動かして、母の枕元を見る。
足が見えた。左だけ、草鞋を履いた足。
あの日の水面が、ふたたび眼前に広がった。
(…ととさま)
呼びかけようにも、声がでない。ひゅう、ひゅう、と、ふいごのような自分の呼気の音が耳朶に届く。
――坊
父の声が聞こえたかと思うが早いか、自分のすぐ左側に冷たい気配を感じた。氷のような指の先が、頬をすーっと撫でていく。
――まだかなぁ、まだかなぁ…
声をうわずらせて、父は指先で千太の頬を撫で続けている。鱗のことを、知っているのだ。そして、その出現を、今か今かと待ち望んでいるのだ。千太は胸が引き裂かれた。昔の、病にかかる前の、それでもまだ優しかった父の姿を必死で思い浮かべようとする。しかし、その傍から、深い絶望の淵へと叩きこまれる――子供なんて、欲しくなかったと、いつか父は零していた。自分には母さえいればよかったと。子が産まれてから、母が自分を蔑ろにするから、寂しいのだと。
(知っとったよ。ととさまが、俺のことを疎んでおいでたこと…)
千太の心の声を聞いたように、父の気配が鋭さを増す。
――ほうか、知っておったんか…
少し驚くような、とぼけたような声だった。
――おまんのかかはな、貧しゅうて、村から爪はじきもんにされて、身寄りもおらなんだんじゃ。それを、俺が娶ってやっての、ふたりして、一生懸命生きてきた。あれには、俺さえおればえかったんじゃ。ほれなんやに…おまん、おまんじゃ…おまんが生まれてしもうてな…あれはもう、俺のことなどどうでもようなったんじゃ…
父は、唸るように言い放つと、次にくつくつと笑い始めた。
――なぁ、坊。俺はの、おまんのために死んだんでない。エツが、エツが初めて俺を見て、死んでくれと言ったからの、そうしたんじゃ。すべては、エツのためなんじゃ…。坊、俺は必ず、おまんが業に喰われるのを見届けてやるでの。俺の命を踏み台にして生き延びたおまんが、のうのうと生きておるなんぞ、俺の溜飲が下がらんでの。
それを聞いても、千太の中で怒りの感情が沸き起こることはなかった。ただただ、爪で皮膚を抉られ続けるように、痛く、悲しかった。見えざる藤六の手が、千太の頭を力いっぱいに押さえつけていた。抗うことができなかった。千太は、押さえつけられるがままに、頭を床に押し付けた。
(…すまん、ととさま。ととさまの言うとおりじゃ、俺さえ、俺さえ生まれてこなければ…ととさまはまだ生きておれたかもしれん。かかさまもこんなふうにならずにすんだかもしれん。由良も…村の者からいじめられずに、村の娘として、普通の生活を送れとったかもしれんのに…)
千太は床に伏したまま目を開けた。
体中が激しく震えはじめる。
卑屈になるなと、遠くで声がした――紛れもない、由良の声だった。
途端に、恥ずかしさが溢れてきた。自分といっしょなら戦えると言ってくれた由良の前で、こんな言葉を吐けるのか。それは紛れもない、彼女に対する裏切りではないか。
「見届けてくだされ…」
千太は伏したまま、腹の底に力を入れて、声をあげた。
「業に喰われ、鱗に喰われ、それでも生きる俺の姿を、とくと見届けてくだされ、ととさま!」
千太が藤六の手を押し返すように首を擡げると、自分の傍にぴたりとついていた父の気配が、怯えたように遠のいていくのを感じた。
千太は両の目から滂沱の涙を流し、その方を睨む。
「…ととさまは、もう死んでしまった…。ここには、来てはならんお方です」
父の咽び泣く声が、聞こえるようだった。その声はだんだんと小さくなり、やがて、ぷっつりと途切れたように聞こえなくなった。
夜が明けた。眠っていた鳥たちが、活動的な声で鳴きはじめる。
白んだ空気の中で、千太は、いなくなった父の方をずっと見続けていた。
ここを去るとき、父のもう片方の足にも、草鞋が履かれていただろうか、そこまでは、見ることができなかった。
ずっと握り締めていた母の手が、ぴくりと動く。
母は目を開けると、眩しそうに一瞬瞼を引き結んでから、もう一度ゆっくりと開け、千太を見る。
よく眠った後の子供のように、顔を顰めて、ふわりと小さなあくびをしてから、怪訝そうにわずかに眉根を寄せた。
「……坊、どういたんじゃ。そんな顔して…泣いとったんか」
「うん、どうもないよ。きっともう、どうもない」
千太は静かに母の手を置き、頬を拭った。立ち上がり、土間に降りて草鞋を履く。
「御池に、行ってくるでの」
母にそう言い残して、朝露で湿った筵をあげると、夜明けの風が涙を拭うように頬に吹き付けてきた。雲間から差し込む夏の日差しは、すでにじりじりと地面を焼きつけ、むせかえるような土と草の匂いが充満している。
もう、泣くまい、泣くまい。そう思う傍から、目には涙が滲む。それを振り切るように、駆けだした。
木漏れ日が降り注ぐ坂道を、夜叉ヶ池に向かい、一気に下りて行った。




