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子守唄の果て

 ゆっくりと唇を離して、由良は伏し目がちにこちらを見下ろす。


 長いまつ毛が涙で濡れ艶やかないくつもの束になっている。その奥の瞳から目が離せなくなる。


 こんな彼女の表情を、自分は知らない。


 ただ唇を合わせただけなのに、こんなにも人は変われるものだろうか。


 彼女の中に別の女の片鱗を見た気がして、静かな戦慄を覚え、同時に、下腹から脳天まで痺れるような熱が貫いた。その熱は体の奥底まで食い込み、巣くっているようで、由良のことを回想するたびに烈火のごとく燃え上がり、息が浅くなった。妙に気が急いて、どこか後ろめたく、胸がつまるような不思議な感じがした。


 帰り道は、その感情に翻弄されて、藪を抜けるときに群がってくる蚊も気にならず、吊り橋に近くなるにつれて響いてくる、カジカガエルの笛のような声の合唱も耳に届かなかった。


 しかし、家へと続く吊り橋を渡り終えた時、由良の姿が霞のように遠のき、夢の終わりのように、我に返った。前を向いた千太の目に、岩に腰掛ける大柄の人影が飛び込んできた。

 薄墨に浸ったような空気の中で、黒衣の影がゆらりと立ち上がる。


「ずいぶんと、遅かったじゃないか」


 千太は、耳元でか細い声をあげる蚊を払いのけ、苛立ったようにため息をつく。


「…ここで、ずっと俺が来るのを待っておいでたんですか」

「まあな」


 その気の遣われ方が、千太の気に障った。思わず眉を顰めて、こちらをどこか観察するように見つめてくる慈慧の大きな目から顔を背ける。


「気を利かせて、遅う帰って来たんですよ」


 どこか挑発するような千太の言いっぷりに、しかし慈慧はただ鷹揚と頷いてみせる。


「あえて言っておくが、おまえが想像しておるようなことは、一切なかったからな。そんな安っぽい間柄ではないんじゃ、おまえの母上とは」


 自分の青臭さを鼻で笑われた気がして、千太は慈慧をねめつけた。が、それを聞いてどこかでほっとしているところもあり、どぎまぎと目を背けた。


「まぁ、結果的に、おまえが〈気を利かせて〉くれたのは正解じゃった。おかげで、ゆっくりと話ができたからな」


 慈慧は一歩千太ににじり寄る。その目は今の今まで溢れていた余裕をすっかり欠き、切実な光を宿していた。


「毎晩、夢をみるそうじゃ。亡くなった藤六さんが、訪ねてくると」

「…え?」


 こちらを見上げる千太の顔が、みるみる青ざめて強張っていた。

 岩を砕くような渓流の音と、蛙の澄んだ鳴き声が、一時、空間を支配する。


「生きるためとはいえ、夫に手をかけたことを、悔いておるのだろう…」


 薄闇の中でもそうと分かるほど、千太の顔からは血の気が引き切っていた。慈慧は、そこで口を閉ざす。それ以上の夢の詳細は、今の千太に話すことを憚られた。


「とにもかくにも、寝かせてやることだ。おまえが傍で起きていて、落ち着かせてやれ。頼んだぞ」


 慈慧は千太の肩に手を置き、そのまま吊り橋を渡ろうとした。


「待っとくれ、慈慧様。帰んなれるんですか。かかさまの傍に、付いておってくださらんのですか」


 千太は引き留めるように慈慧の手を取った。


「そんな夢の話、かかさまは俺に微塵も話してはくれなんだのに…あなた様には…」


 千太は唇を噛む。


「十五年も、想い続けておいでたんでしょう、かかさまのことを。ほれなんやに、置いて帰ってええんですか。俺なら、そんなことはせん、ずっと傍におります。それとも、幻滅しましたか、かかさまがもう若くも美しくもないから?」


 慈慧は、怒りも露わに千太の手を振りほどいた。その握り締められた拳が細かく震えているのを見てとって、板のわずかな亀裂を見つけて(くさび)をうちこむように、千太は畳みかけた。


「かかさまが、蜉蝣(かげろう)みたいに見えるときがあります。ふとしたときに、消えてしまうような気がして、ぞっとするんです。見るからにやつれていっておるのに、俺には何も話しておくれん。俺はまた、何もできずに…できんまま…取り返しのつかんことになるんでないかと、不安なんです、不安でたまらんのです」


 言葉の最後が涙に濁って、風に溶けた。全力疾走の後のように肩で息をして慈慧を見つめている。

 慈慧は、今しがた振りほどいた彼の手をそっと取って握り締める。


「…大丈夫じゃ。エツにはおまえがおるかぎり、大丈夫じゃ。わしなんかよりも、今はおまえが傍についておってやれ」


 村で調べることがある、それが済んだら、必ずまた来る。そう千太の手を強く握りしめながら言い残し、去って行った。


 すでに夜の帳がおりかけており、慈慧の姿はすぐに闇に溶けて見えなくなった。

 ひとり残された千太は、その残像をしばらく見つめていた。

 カジカガエルの声が、渓流の音と混ざり、もの寂しくあたりに満ちている。


 千太は、とぼとぼと坂を上った。もう夕飯時で、煮炊きのための灯りが戸口から漏れていてもいい頃だったが、見えてきた家はまるで廃屋のように周りの闇と同化していた。


 そっと筵をあげ、中に入ると、数匹の蚊の鳴く声が暗い室内に響いていた。


「……かかさま」


 エツは、朝に見た場所に、全く同じ姿で腰掛け、足を土間にだらんと垂らした格好でいた。まるで、彼女だけが一日の時の流れから取り残されたようだった。


「かかさま」


 千太が声をかけても、呆けたように壁の一点を見つめていたエツだったが、千太が傍まで来て肩を掴むと、ばっと肩を聳やかして、引きつった顔で千太を見上げた。


「ああ…坊…」


 言葉を失ってこちらを見下ろす千太に向けて、エツはそれでも、弱弱しい精一杯の笑みを向けた。


「おかえり。飯の支度、まだじゃった。待っとれ、今からするでの」

「………ええよ」


 千太は首を振る。


「ええよ、飯なんか、作らんで。ええよ、無理して笑わんで。ええよ、ええんよ、俺なんかに構わんで…」


 突然崩れるようにエツにしがみつき、わっと声をあげて泣き出した千太に、エツは面食らったように目を白黒とさせていたが、ほとんど反射的にといっていいほど自然に、震える彼の背中を撫で、赤子をあやすようにぽんぽんとやった。

 彼女の口からとぎれとぎれに洩れる的外れな子守唄が、かえって千太の胸を刺した。


 その日は、夕飯とよべるようなものは食わなかった。もちろん腹は減っていたが、それ以上に準備が億劫だったし、何よりも、食う気が全くおこらないのだった。だが、千太が何も食わないというのを頑として承知しないエツのために、致し方なく、干した大根に(ひしお)を塗ってかじった。エツも同じものをちびちびと口に運んだ。


 夜も更け、空には月が冴え冴えと輝き、硬質な光が窓から斜めに差し込んでいた。

 風のない夜で、木立のさざめく音はないが、そのぶん、虫と蛙の姦しい声が際立って届く。先ほど焚いた蚊遣り煙の鼻をつくような匂いが、室内に充満していた。


 薄っぺらく硬い布団を並べて横になったが、しばらくして、千太はもぞりと上体を擡げた。

 先ほどから、煩く顔の周りを飛び回っている蚊を仕留めると、そのまま立ち上がり、寝そべったエツの隣に胡坐をかいた。


 腹にかけた布団の上に投げ出された、枯れ木のような白い手をとる。昼間由良に触れたその手で。彼女の肌は燃えるように熱く、触れた傍から弾き返されるような弾力と躍動に満ちていた。母の肌が、それとはまったく異質のものであることに驚く。同じ人の皮膚とは思えないほど、渇き、ざらついて、なにより、雪が積もった川辺の岩のように冷たい。


 なんとか温めようと、掌を両の手で包むようにした。すると、閉じていたエツの目がうっすらと開き、ぼんやりと千太を見上げた。視線が合わないのは、斜視のせいばかりではない。今エツは、千太を見ていない。違うどこかを見ている。


「かかさま!」


 千太は胸騒ぎに突き上げられたように、するどく声を絞った。効果はあった。エツの口がはっとしたようにわずかに動き、瞳孔がかすかに開いて、千太に視点が定まった。


「どうもないか?」

「………どうもない」


 エツの口から発せられる「大丈夫(どうもない)」は、その言葉の意味を成さない。ただの頷きと捉えていい。

 千太は、包んでいた母の手を強く握りしめた。


「…今日な、俺、そう眠うないんじゃ。ほうやし、ずっと起きとって、こうして、手を握ってやっとる」

「どういたんじゃ、急に…」


 エツは、眉尻を下げて掠れた声で笑った。


「こんに大きゅうなった子に、そんなことされたら、照れるがな」


 千太も、ははっと笑って、鼻をすすった。


「小ちゃい頃、寝れんと、かかさまがこういて手を握ってくれたろ。俺が寝るまで…寝てからも」

「うん、ほうやったかのうし…」

「今日は、俺がそうしてやる。ほうやで、安心して寝とくれ」

「…慈慧様から、なんか聞いたんか」

「なんも」千太は首を振りながら、喉の奥からこみ上げてくるものを押し込めた。「ただ、まずはよう寝るのが大事じゃと、それだけ言っておいでた」

「ほうか…」


 エツは天井を見ながら、放るようにそう答えると、言うとおりに目を閉じた。


 それから、どれほど経っただろうか。


 外では依然として、雄蛙たちが雌を求めて喚いている。その合間に、梟のくぐもった声が響く。

 蛙たちは、怖くないのだろうか。あんなに鳴いて、梟に見つかって喰われやしないかと思わないのだろうか。それとも、自分の命よりも、雌を得ることのほうが大切なのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、千太は由良のことを想った。母の手を握りながら、彼女の顔を思い浮かべるなんて、我ながら不埒者だと思った。


 母の痩せこけた白い顔が、月光に照らされてさらに蒼白になっている。まるで陶器の人形のようだ。

 千太は手をそっと母の鼻の下にかざし、呼吸の音を確かめる。規則的に吹きかかるか細くも温かい吐息に、母が眠ったことを知り、ほっとする。

 いつしか、千太の口からは、先ほどエツが口づさんでいた子守唄が漏れていた。物心つく前から何万回と耳から注ぎ込まれてきたこの歌を、千太はそれこそ指を動かすように、呼吸をするように、諳んじることができる。

 呟くように歌いながら見つめる先の母の顔は、どこまでも穏やかで、まるで子供のようだった。


 自分は、この人から生まれきたのだ。そして、この人を限りなく愛していて、同時に、居たたまれないほど憎んでいる。


 やはり、父に手をかけた母のことを許しきることはできなかった。

 千太は知っていた、母は父が病になったから切り捨てたのではない。本当はずっとその前から、父のことを嫌悪し、願わくばこの世から消し去りたいと思っていたのではないか。病は、父を葬る都合のよい口実にすぎない。加えて、子である自分を生かすという大義名分までも纏っている。


 ――卑怯者


 子守唄が途切れた。代わりに、腹の底から吐き捨てるような罵詈が口を次いで出る。同時に、やるせなくなる。自分は、結局、守れなかった――父も、母のことも。


 そして失った、この世で一番尊く、澄んだ光を放っていた信仰を。


 父が死んだとき、龍神様も死んだのだ。

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