川辺の誓い
家の戸を閉め、黙々と歩いた。
頭の内側で何かが破れようとしている。音という音が、遠のいていく。
慈慧と相対した時の母の顔、あの眼差し――母のものではなかった、まるで知らぬ誰かのようだった。
村の子供らから、母のことを淫乱だの、女狐だのと言われてからかわれたときは腸が煮えくりかえるほどの憤りを覚えたが、どこかで高をくくっていられたのは、それらの揶揄と母の実像がまるで異なっていたからだ。
千太にとって、母は、どこまでも母親だったはずなのに。
気づくと、走り出していた。
坂を下る。生い茂る雑木の梢が顔や腕を掠め、微かな痛みが走る。構わない。遠くへ行きたい――あの小屋から、どこまでも…
棚田を降りてひたすらに歩き、村を流れる河畔にたどり着いた。目の前の川の対岸からが村の入口だ。
ここから、由良の家まではどれほどだろう、そう思ったときだった。繁みの向こうから、頭に桶を担いで、まさに由良が姿を見せたのだった。千太は、胸の奥が締め付けられたようになって、思わず声をあげかけた、が、水を汲もうと由良が川辺にしゃがみこんだ時、何人もの女の声がしたかと思うと、由良と同じ年頃の娘たちが、四人連れだって水汲みにやってきた。
千太はあげかけた声をひっこめてしゃがみこみ、藪の影に身を隠す。
きゃっきゃと笑い声をあげ、楽しそうにやってきた娘たちはしかし、川辺で水を汲む由良に目をとめるや、露骨に眉を顰めて顔を見合わせた。
「おい」と言った、四人のうち一番背の高い娘の影が、由良の上に落ちる。「ここで水、汲むなや」
由良は水を汲む手を止め、娘の方を見上げる。
「…なんで」
「なんでって、なあ?」
長身の娘が困ったように眉を八の字にして、後ろを振り返った。
三人の娘のうち、二人の娘が身を寄せ合ってくすくすと笑う。
「おまんとおんなじ水、飲みとうないんじゃ、分かるろ?」
長身の娘が言うと、後ろの二人の娘も同調するように続く。
「業病がうつるんじゃ、気色悪いわ」
「あの門人とどこまでやったか知らんけんどな」
一言発するごとに、三人が小声で何やら話してはくっくと笑い合い、ちらちらと由良の方を見おろす。由良の目が三角になり、顔が赤黒くなるのが、おもしろくって仕方がない様子だ。
由良はしゃがんだまま唇を噛んでうつむいていたが、涙を溜めた目を、三人の娘から少し離れたところに立つ、四人目の娘に向けた。問いかけるような眼差しだった。
「…お政」
そう呼ばれた、細い目をして少し背の曲がったその娘は、しかし冷ややかに目を逸らす。その瞬間の由良の表情は、今まで見たこともないほど寂し気で、千太は胸が裂かれる思いがした。
由良は黙って立ち上がる。
「川下へ行けよ」長身の娘が、虫を払うように手を振る。「ずっとずっと下の方に」
追い立てられるのに無言で従い、下流に向かって歩き始めた。娘たちの嗤う声が、川風に乗って追いかけてくるようで、途中から速足になる。
川の流れが大きくうねり、集落がちょうど視界から消えるところまで走ってくると、由良は荒い息をあげながら、川岸の岩の影に隠れるようにしゃがみこんだ。
肩で大きく息をするたび、ひゅうひゅうという自分の呼吸音が心音と混ざって耳障りに響く。
桶を脇に投げ置いて、川の水を手ですくって顔に打ち付ける。
何度そうしても、水と混ざって、涙と洟水が滴り落ちる。
顔ごと川の中に突っ込む。
これ以上息がもたないというところまで水に漬けて、顔をあげる。大きく息を吸い込むと生臭い川の水が気管に入り、しばらくの間咽こんだ。
それが落ち着くのを待って、呼吸を整える。
目線の先の川面では、魚が気持ちよさそうに宙に跳ね、燦燦と注ぐ陽光で照り輝く川面にしぶきを散らしている。まるで、この世で独りぼっちになったような寂寥がこみ上げてきて、また顔を洗う。そして、大きく息をつくと、ずぶぬれになった顔を拭うため、頭に巻いている手ぬぐいに、のろのろと手を伸ばした。
が、突然目の前の視界が遮られたかと思いきや、別の手ぬぐいが自分の顔面を押さえ、やや粗雑に水を拭いとった。
驚いた由良が千太を認め、あっと声をあげるが早いか、次の瞬間、由良の顔は千太の胸に押し付けられていた。痛いほど強く自分を抱きしめる千太の腕が細かく震えている。
「すまん…なんも知らんくて…俺…」
千太の声も震えている。
「おまんが俺のせいでどんな目に遭っとるか、しっかりと考えもせんかった。おまんは強いでどうもないやろうと、どこかで思っとった…」
一部始終を見られていたことが分かると、由良は居たたまれなくなった。顔を上げると、千太の碧がかった目と目が合う。
山から吹き下ろしてきた風が川面を滑ってふたりを撫でていく。川面に反射した光が、頬の上で揺れた。
「…兄さ、さっきのは、悔し涙じゃ」
「悔し涙?」
「うん。あいつらにひどいこと言われたんやに、言い返せずに、ここまで逃げてきてまった。情けないことじゃ。せめて、いっぱつ、殴ってやりゃあえかった」
由良は涙でぐしゃぐしゃになった顔をきっと上げて、強がった。白い八重歯がのぞいたが、無理をして笑っているのが分かる。
千太は何も言えず、ただその顔を見つめていた。胸の奥が、じりじりと焼けるように痛む。
先日の母の声が耳朶の奥に鮮明に蘇る――由良は村の娘。自分とは生きる世界が違う。このまま関係を続けても、辛い思いをするだけ…お互いに。
「由良、辛いか?」
「…え?」
「俺と付き合う限り、さっきみたいに、村で爪はじきにされることになる。おまんが村で辛い目に遭っとるとき、俺は傍についておれんかもしれん。おれたとしても、出て行って余計にこじれたら、おまんへの当たりがまたきつうなる」
由良は瞬きをすることもなく、貫くように千太を見つめていた。その怯えたような目に、母のそれが重なって見える。
「辛うない…」由良はそこで言葉を切り、服についた染みを観察するような目で、しばし虚空を眺めてから、「辛うない…というと、嘘になる」
無機質な声音で呟いた。千太は胸が潰れそうだった。由良が次に発する言葉を待つ時間が、まるで終わりのない悪夢のように感じられた。
「…でも」と、由良は探るような口調で切り出す。「兄さと別れる方がもっと辛い」
その瞬間、消えかかっていた光が、由良の瞳に再び燃え上がった。
「さっきも、辛かったけど、こうして兄さに会えたら、そんなもの吹っ飛んでまった。兄さがおってくれる限り、おれは負けん。強うなれる」
千太の心臓が、大きく跳ねた。耳に響いていた母の声は聞こえなくなり、由良に重なっていた母の面影は消え去った。
「俺も、同じじゃ、由良」
自分自身の声に、思いがけず泣きそうになる。
強がっているのは自分のほうだ。こうやって逢瀬を重ねて、互いの気持ちを確かめることは、かりそめのあがきにすぎないかもしれない。分かっている、それでも、抗いたかった。自分たちを飲み込もうとする未来に、そして運命に。
「兄さといっしょなら、おれは戦える」
決然としてそう告げると、由良は、泣き笑いのような顔で、深いえくぼを作った。怖れと不安の色も混じりながら、しかし、どこまでもまっすぐなまなざしだった。彼女の目には、なにが見えているのだろう。
「…ほんなら、その〈兄さ〉いう呼び方、やめんか」
いつのまにか、そんな言葉が口をついていた。
「村じゃそう呼ばんならんのやろうが、俺らは違う。俺は千太、おまんは由良じゃ。それで、ええやろ?」
「…うん、千太」
名を呼んだ傍から、由良の顔がほの赤く染まっていく。それは千太も同じだった。お互いにこそばゆく、思わず照れたような笑いが漏れる。
向き合っているのがこっぱずかしくなって、川辺に並んで座りなおした。
ふたりして足の先を川の水に浸す。じっとしていると、岩の間からカワヨシノボリがひょこっと顔を出す。指をわずかに動かすと、電光石火のごとき動きで、また岩の下に隠れてしまう。戯れにそんなことをふたりで繰り返しながら、初めて会った日のことを思い出していた。
つい一年前の夏の事なのに、もうずいぶんと昔のことのような気がする。
千太は、そのままごろんと体を倒し、川辺の砂利の上に寝転がった。太陽に熱され温みを帯びた石ころが頭や背中に刺さり、妙にそれが心地よい。
仰向けになったまま、目だけを動かして由良の方を見ると、彼女はどこか心配そうな面持ちで、こちらを見返している。
「…なんかあったの?」
「なんで」
「なんとのう、そんな気がして」
千太の脳裏に、先ほど慈慧を見つめる母の眼差しがよぎった。その残像を搔き消したくて、思わず目を閉じる。瞼を夏の日差しが無遠慮に透過してくる。
「…色々とあったけんど、もうええんじゃ、おまんの顔見たら、もう、どうでもようなった」
由良は数秒、千太を観察するように見下ろしてから、少し困ったように、かすかに笑んだ。
「そうは、見えんけどな」
もう一度瞼をあげ、由良の含みのある笑みを見つめながら、千太は、また頭の内側から圧迫されるような痛みを覚えた。今頃、慈慧と母がふたりでいると思うと、体の奥底が痛いほどに冷え、苛立ちが胸中で激しく渦を巻いた。
千太は、すがるように腕を伸ばし、由良の手首をつかむ。
由良もそれを待っていたかのように、千太に引き寄せられるがまま岸に上がり、仰向けになった千太の隣に座ると、身をかがめて口づけた。




