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十五年の筵

 ついてきてくれ、と千太は言った。


 夜叉ヶ池に背を向け、参道に向かいながら、千太は泣き腫らした顔でちらとこちらを振り返り、念を押すように、慈慧の名を呼ぶ。


 慈慧は、夜叉ヶ池に睨むような一瞥を投げてから、千太の後を追い、参道を下った。


 まるで曳かれていく罪人のように、慈慧は千太の後ろをとぼとぼと歩く。


 ふたりの間には見えない縄があり、それを常に張りつめていなければならない気がした。少しでも緩むことがないよう、一定の距離を保ってついていく。


 前を行く千太の背中は、子供の線の細さを残しつつも、すでに青年のしなやかな筋肉を宿しつつあった。それをばねにして、躍動するように緩やかな勾配の参道を駆け下りていく。

 その若さと健康美に溢れた姿を追いかけているうち、さきほどの水面に写った姿は、ただの幻だったのではないかと思えてならなかった。願わくば、そうであってほしい。この若者が、あんなおぞましい鱗に覆われ、変容していく様など、想像もしたくない。


 参道に折り重なる岩々や絡み合った巨木は艶やかな苔に覆われ、そこに梢の間をかいくぐって差し込む陽光が鮮やかな緑色のまだら模様を描く。


 慈慧が足を止めたのを察して、前を行く千太も立ち止まる。


 振り返ると、慈慧は巨木の幹に手をつき、体をくの字に曲げて静止していた。行水でもした後かのように、顎先から汗が滴り落ちている。


「エツは、足を引きずって来る日も来る日もこの道を通ったんじゃ。ひとえに、子を求む執念がそうさせた。あの血走った夜叉のような目を、水面が波立つような祈りを、わしは間近で見てきた。おまえはなぜだ、千太」


 ぐいっと首をあげ、慈慧はその大きな目に涙を溜めて、千太を睨み据えた。


「なぜ、毎日夜叉ヶ池へと赴く。あの水面に写った顔を見るのは辛かろう」


 樹々がわずかに風で揺れ、木漏れ日が千太の顔の上でちろちろと遊ぶように揺れる。その光が目の上を泳ぎ、千太は少しばかり眩しそうに目を細めてから、体の向きを直して慈慧と真正面から対峙した。


「…自分のさだめを見極められるように、でしょうか」


 岩の間を流れてくる山水の音に紛れそうな声で、千太は呟いた。


「ある人が言いました。この鱗には、きっと意味があると。その意味が分かるまで、自分を呪うなと」

「ある人?」


 千太は不機嫌そうに眉を顰め、目を伏せる。


「…昨日、いっしょにおった…」

「由良か」

「はい」


 頷きながらまた眉間の皺を深くするが、それが恥じらいを必死に押し隠したものと分かって、慈慧は思わず笑みを漏らす。同時に、まるで父親のような心持になって、ほっとする。そこまで知った上で、由良は千太を想ってくれているのか。


 けれども、千太の次の言葉に、慈慧の表情は途端に険しくなった。


「由良は昔、あの池に沈められたというんじゃ。その時水底で、白い蝶の群れと、鱗に覆われた俺を見たと」

「…なんだと?」

「ずっと忘れておったのに、急に思い出いたそうです。あの白い蝶の群れが空を舞った日のことです。あの日、俺と由良は夜叉ヶ池におりました。由良の夢が、本当かどうか確かめるために。水面に写った俺の顔に、鱗が見えたのもその日からです」


 慈慧は体を起こし、手の甲でゆっくりと汗を拭った。


「沈められた…人身御供にされたということか」


 慈慧の脳裏に、御池の淵に長い髪を靡かせて立つ巫女の後ろ姿の幻がよぎる。


「分かりません、今はなんも…。ただ、由良と俺との間にはなにか因縁がありそうです。それを繋ぐのは…きっと、夜叉ヶ池の龍神様じゃ。それで、毎日あそこに通っております。俺が鱗の意味を悟れば、もしかしたら、由良になにかあっても、救う手立てが分かるかもしれんので」


 行きましょう、と千太は慈慧に背を向ける。


「…俺には、救いたい人がもうひとりおります。かかさまに、会ってくだされ」


 それからの道中、ふたりは互いに言葉を交わすことはなかった。先導する千太も、慈慧も、黙々と歩いた。


 道祖神を過ぎ、棚田の畦道を下り、吊り橋の前に立った。


 頼りない藤蔓(ふじつる)の縄を掴み、一歩を踏み出す度に、橋が痛そうに軋む。


 足元では荒々しい渓流のしぶきが風に乗って逆巻き、その水音が切りだった岩肌に幾重にも跳ねている。


 エツのお産に立ちあうためにここを渡った時はひどい嵐で、蓑笠を叩く雨音と風の咆哮が、渓流の轟音を飲み込み、ほとんどかき消してしまっていた。その時の記憶が、つい最近の事のように思い出される。


 ふと、背後に誰かが立ったような気配がして背筋がぞくりとした。


 振り返ると、そこに藤六があの日のままの姿で立っているような気がした。あの拗ねたような目をどろりと上げ、ここへ戻って来た慈慧を責め立てている。当時の彼に対する静かな怒りが、未だ熾火のように慈慧の胸に燻っている。そんな自身に嫌気が刺した。仮にももうこの世にはいない男に対して。


 吊り橋の先の坂を登りきると、雑木の間からあの陋屋が姿を見せた。


 あの日、陣痛に耐えるエツの叫び声と魔除けの騒音が、むせるような熱気とともに外まで漏れ出ていたあの家が、いまやひっそりと忘れられたように建っていた。


 その家の前に立った途端、慈慧は、引き返したい衝動に駆られて、しばし棒のように立ちすくんだ。

 この(むしろ)を隔てた向こうには、現実がある。

 十と五年の時を経たその人に会うことで、宝玉のように自分の中にしまっていた思い出が変わってしまうようで怖かった。


 千太は、固い表情で青ざめている慈慧の様子を気にしながら、ためらいがちに薄汚れた(むしろ)を引き上げた。


「どうぞ」


 と促され、慈慧は念仏を唱える前にするように、静かに丹田の底から息を吐き切ると、吸い込むと同時に覚悟を決め、一気に小屋の中へと足を踏み入れた。


 果たしてそこには、エツがいた。


 筵の隙間から差し込んだ外の光が薄暗い室内を照らし、彼女が、板間から土間に足をだらりと降ろして座り、草鞋を編んでいるのが見えた。


 慈慧がエツをしばらく観察することができたのは、無心でわらじを編んでいた彼女が戸口に立つ千太と慈慧の存在に気づくまでに時間を要したからだった。


 慈慧は、言葉を失っていた。


 十五年、たった十五年の年月が、まるで幾星霜を経たかのようにエツの容貌を変えてしまっていた。一瞬、そこにうつむいて草鞋を編んでいるのは、見知らぬ老婆かと思ったほどだった。しかし、(おとがい)をあげてこちらを見たその面は、紛れもないエツその人だった。


 慈慧を認めたエツの暗く沈んだ瞳に、一瞬驚いたように光が宿ったが、それはたちまちに歪み、細かく震えはじめた。


「久しいのぅ…エツ…」


 こみ上げてくるものを無理に抑えようとして、声が掠れた。

 慈慧が発したその言葉に、エツはこちらに向けている蒼白な右の頬を、神経症のようにひとつ痙攣させた。


「お久しゅうございます、慈慧様…」


 その声は抑揚がなく、不自然なほど乾ききっていた。


 千太は、壁にぴたりと背を付けて、その声音の奥に潜む機微を観察していた。が、音をたてず、そっと家を出た。

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