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あわいの淵にて

 夜叉ヶ池へと続く原生林に覆われた参道を登りきり、滴る汗を拭った。


 慈慧は夜叉ヶ池の淵に立つ。


 地表に溜まった朝靄が、野焼きの煙のように立ち昇っている。

 池を囲む木立の輪郭だけがぼんやりと浮かび、慈慧は、現と幽の境に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。


 しんと静まり返った空気を、時折(ぬえ)の声が鋭く裂く。


 ふと、白んだ靄の向こうに、朧に人影を認めた。近づいてみると、それが千太だと分かった。彼は池の淵にひれ伏し、何か熱心に祈っている。祈りの文言は籠っていてよく聞き取れないが、その背は細かく震えている。


(泣いておるのか…)


 その痛々しいほどに必死な姿に、かつてここで祈りを捧げていたエツの姿が重なり、慈慧の胸にも震えが走る。今の千太の背中からも、魂の声が絞り出されているような迫力があった。


(あの子は、なにを切実に求めているのか…)


 祈りを妨げぬよう、少し離れた岩の上に腰を下ろし、千太を待つことにした。


 日が高くなるにつれて夏の重い朝日が雲間から差し込み、濃厚にたちこめていた朝靄が晴れていく。湖畔にひれ伏す千太の姿と、鈍色の湖面が徐々に明らかになる。それを眺めていた慈慧は、ふと、妙なことに気が付いた。


 水面が、波立っている。


 風は、木立をわずかに鳴らすほどしかない。それなのに、水面だけがざわついている。

 魚でも跳ねたかと一瞬思ったが、その波が収まるどころか、まるで海の波打ち際かと見紛うほどに音をたてて岸辺に打ち付け始め、慈慧は顔色を変えた。


「…千太!」


 慈慧は思わず立ち上がり、千太の名を呼んだ。が、祈りに没入している千太に、声は届かない。湖の水は、まるでそれ自体が意思をもっているかのように、ひれ伏している千太の頭部にひたひたと迫り、飲み込もうとしている。


「――っ千太!」


 慈慧はかけより、千太の体を土からひっぺがえし、引きずるようにして、そのまま波から逃げるようにして離れた。


 突然のことに動転した表情で後ろを見上げた千太は、慈慧と目が合うなりあっと声をあげた。


「慈慧様…?」

「大事ないか」


 後ろから千太を抱え込んだまま、慈慧は顔じゅうに脂汗を浮かべている。千太は慈慧を見上げながら、訝し気に眉を顰める。


「…なにが、ですか」

「気づかんかったか、今しがた、おまえは…」


 言いながら夜叉ヶ池の方を見やった慈慧は、言葉を飲み込む。

 目の前には、先ほどと同じように、静寂を湛えた水面があった。


「…いや…なんでもない」


 凪いでいる御池の方を睨むようにして見つめる慈慧は、腕の中でもぞもぞと居心地悪そうに動く千太に気づいて、ぱっと体を離して立ち上がった。


「驚かせて、悪かったな」


「いんえ」と千太も立ち上がる。「…慈慧様、こんな朝早う、どういてここに?」


 そう問うた千太の表情に、慈慧は違和感を覚える。昨日の自分を見つめるある種憧憬を孕んだ瞳とは打って変わって、どこか猜疑の色さえうかがえる。


「ここは、村の者らは寄り付きません。龍神様の祟りを受けると信じられとる御池です。知っておいでましたか」

「……うん、知っとる」

「ほんなら」千太の目が切実さを帯びる。「かかさまが、ここにお百度をして俺を授かったことも…?」


 慈慧は、諦めたように短く息をつき、頷いた。この子は聡い。今さら隠し立てしても無駄だろう。


「母上が、わしのことを何か言っておられたのか?」


 千太はしばらく、唇を噛んでうつむいていた。先ほどの祈りの残滓が、その艶やかに濡れたまつ毛に残っている。


「…その逆じゃ。慈慧様のことを話したら、途端に不機嫌になって、口も利いておくれん。ほれで、分かりました」


「そうか」と一言、慈慧はエツとの出会いや、お百度を見届けたこと、お産に立ちあった経緯までを、洗いざらい話してしまった。


 千太は、強く見開いた目に涙を溜めて慈慧を見据えたまま、その話を聞き終わると、ふいと顔を背けて、足元の礫を睨みつけていた。


「どういて、昨日会ったとき、そのことを隠しておいでたんですか」

「…すまん、隠すつもりはなかった」

「かかさまと知り合いかと訊いたとき、はぐらかした」

「……千太、わしは」

「好いとるんですか、かかさまのこと」


 再びこちらを見上げた千太の目が、憤りとも寂しさともつかぬ色を宿していた。その瞳に、十五年前、別れ際に自分を見上げたエツの面影が重なる――同じ眼差しだ。自分を責め、拒みながら、それでもなお縋ろうとする眼差し。

 慈慧は一瞬息が止まり、胸が裂けるように痛んだ。


 しばし、風の音だけが二人のあいだを流れた。それから慈慧は、掠れた声で言った。


「……ああ。そうだ」


 その瞬間、千太の顔がみるみると紅潮したかと思いきや、次の瞬間、血でも抜かれたように皮膚の色が白く硬くなっていった。口元が震えている。まるで処刑の間際、身内の裏切りに気づいた者のように。


「…わしは、仏に仕える身。おまえさんの母上は、夫ある身。道ならぬ感情であることは分かっていた。だから、わしはおまえさんが生まれるのを見届けて、この地を去った」

「ほれなら、どういて、今になって戻っておいでたんです」


 千太が追及するのももっともだ、と慈慧は思う。自分とて、願わくば戻りたくはなかった。ここに埋めていった己が感情と再び向き合うのは辛い。


「白い蝶の噂を聞いてな、どうしても、戻らねばならぬと思ったんじゃ。この機に乗じて、有馬様がお前たちに何をしでかすか分からんと思った」

「……有馬様? あの、巫女様ですか」

「そうじゃ。おまえさんことを、災いを呼ぶ龍神の子と信じている。おまえさんが生まれた時、有馬様が祈祷に来れなくなったのは、まさに御仏のはからいじゃ。あの人は、生まれたばかりのお前の命を奪うつもりじゃった」


 千太の顔は、依然として能面のように表情を失くしたまま、慈慧を見つめていたが、その視点は定まらず、どこか遠くを見ているようだった。


「…慈慧様、こちらに、おいでくだされ」


 消え入るような声で呟き、千太は水辺まで歩いて行った。


「………御覧くだされ」


 千太は、水面を覗き込むようにしてしゃがみこむ。訝し気に後ろについて行った慈慧は、目を細める。最初その左頬の部分の水面だけが、妙にちらちらと光を反射して見えた。が、それが、月光を帯びたような微かな銀の鱗であると分かったとき、慈慧の喉から、息とも声ともつかぬ音が漏れた。


 崩れるようにしゃがみこみ、水面に身を乗り出した。


 陸の千太と繰り返し見比べる。だが、何度目を凝らしてみても、確かに、水面に写る千太の左頬にはおぞましい鱗がはびこっている。


 水面が揺れた。ぽたり、ぽたり、と雫が落ち、いくつもの波紋が広がっていく。


「……有馬様の見立ては、正しいんかもしれません」


 千太の目から水面に幾粒もの涙が次々に零れ、その同心円状の波紋を乱す。


「ととさまが言いないた、俺の業は、もうすでに骨身に染みとるんやと。あがいても、逃れられんのやと。有馬様の言うとおり、俺は災いの子やもしれません」


 慈慧は皆まで聞かず、たまらず千太を掻き抱いた。顔を埋めた僧衣を通して、慈慧の激しい胸の鼓動が千太の耳に伝わってくる。そのどこか懐かしい心音に千太はこみ上げてくるものを抑えられなかった。


「慈慧様、俺は自分が怖い。いずれこの鱗に喰いつくされ、右も左も分からんようになってしまうんでないかと。…かかさまや、由良を、傷つけるんではないかと」


 慈慧は千太を抱く腕に力を込める。喉の奥が焼け付くようだった。


(ああ、なんてことだ……龍神様、御仏よ、あんまりではございませぬか!

 なぜ、この子なのです。

 なぜ、この子に、このような業を背負わせなさるのですか……)


 自らの内奥でせりあがってくる声にならない声が、耳朶の奥で空しく響いた。


「…ととさまは、俺を生かすために死にました。かかさまが、殺いたんです。もう、俺のせいで、大事な人が死ぬのは嫌じゃ。それだけは、絶対に嫌じゃ!」


 そう叫んだあとは、もう言葉にならなかった。

 祈りとも嗚咽ともつかぬ声が、慈慧の胸の底を震わせた。

 その声を嗤うかのように、夜叉ヶ池はなお静かな水面を湛えていた。


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