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慈慧

 翌日の早朝、慈慧はひとり夜叉ヶ池へと向かった。

 徐々に薄れゆく暁闇の中、うねる畦道を登っていく。

 あれほど眩く煌いていた星々は、すでに濃色の空の色に溶け、埋もれつつある。

 山岳での修行に比べれば、こんな道は平坦といってもいいくらいなのに、まるで石を何百と背負ったように身体が想い。歩を進めるごとに、十五年前の今日を歩いているような錯覚にとらわれ、胸が詰まる。夏とはいえ明け方は肌寒いくらいなのだが、僧衣はぐっしょりと汗で湿っている。


 棚田を登り切った慈慧は、道祖神を目に留めるや、思わず顔が綻んだ。頬を寄せ合う一対の守り神は、彼を労うように微笑んでいる。


「…久方ぶりに、お会いしましたな」


 慈慧は、丁寧に手を合わせながら、道祖神に向かって独り言ちる。


「道祖神様は、変わらずおられますな。この道も、山々も、あのときのままじゃ。まるで、わしの周りでだけ、時が流れていってしまったような、不思議な心持がいたします」


 道祖神の柔和でふくよかなお顔を眺めながら、十五年前、自分はこの守り神に向かって、誰にも言えない思いの丈を吐き出したことを思い出す。その時の自分の叫びが、今懐かしさを伴って耳の奥で反響する。



 十三のとき、己が生を御仏に捧げると誓いました…すべては、深遠の中におられる御仏の境地に達し、即身成仏となるため。そのために、一心不乱に行に励んでまいりました。

 しかし今、心に迷いが生じております。

 滝に打たれ、護摩を焚き、何日も断食し、眠ることなく念仏を唱えても、御仏は遠ざかっていかれるばかりです。

 自分でも分かっております、この迷いは、山に籠っていたときにはなかった。勧進のために下山し、遊行する中で人々と交わるうちに芽生えたものです。

 人々は、その日その日を食いつなぎながら、必死に御仏にすがっています。彼らとともにするうちに、思ったのです、むしろ祈りとは、この喘ぎ求める声そのものなのではないか――すると、自分の行いが途端に空しく感じられてくるのです。

 仲間の僧たちは、一切の迷いもなく精進に励んでおります。

 まるで、自分だけが取り残されていくようです。

 こんな宙ぶらりんの状態で、前にも進めず、思うように勧進も得られず、いったいどうしたらよいのでしょうか……



 白山中宮を訪れたのは、ちょうど、そんなときだった。

 他の道者に混ざって宿坊に寝泊りしながら、雑念を振り払うために白山への登拝を繰り返した。


 ある晩、祈祷を終えて宿坊に戻ると、周りの道者たちの談笑が耳に入ってきた。


(聞いたか…近頃、村はずれの池に、毎夜女が子宝祈願に通っとるらしい)

(村はずれの池というと、夜叉ヶ池か。龍神が住まうという…)

(ほうじゃ…しかもその女、今まで見たこともないくらいの、えらい別嬪らしいぞ、へ、へへ……)


 慈慧は耳を疑った。日が落ちてから女がひとりで村はずれの池に詣でるなど、女捕(めと)りにあっても文句はいえない。

 途方もなく愚鈍な女なのか、それとも、気狂いか…。

 どうしたものか、気になりだしたら止まらぬ性質で、連れだって宿坊を出ていく道者たちの後を静かにつけた。


 その夜は雲間の間から半月がわずかに見えるだけで、それも隠れてしまえばあたりは漆黒の闇となった。

 松明を消し、棚田の影に潜む男たちに気づかれないよう、その背後に陣取って、慈慧も女が現れるのを待った。


 果たして、棚田の下の方から、ぼんやりとした松明の灯りが登ってくる。


 その姿に、慈慧は言葉を失った。


 あろうことかその女、足を引きずっている。鹿杖(かせづえ)にすがりながら、もう片方の手で松明を持ち、体中から汗を滴らせ、かなりの勾配の坂を上がってくる。


 松明の光を(まと)って向かってくるその女は、一瞬慈慧の目に、阿弥陀如来の幻となって写った。だが、近づいてきた顔を見るや、その幻は瞬時に払拭されてしまった。

 光を放つ穏やかな阿弥陀如来のはずがなかった。むしろその女の顔は、子を渇望するあまり狂気に囚われた夜叉のようで、慈慧の胸を打った。

 瞬きもせず女を目で追いながら、思わず、今の自分の姿をそこに重ねると、鼻の奥がつんと痛み、胸が詰まった。


 そのとき、前で隠れていた男たちが、いっせいに立ち上がった。

 飢えた獣のような複数の目が、身構えた女の姿を捉える。

 後ずさりしようとした女の足がもつれ、尻もちをついた。

 それを皮切りに躍り出た男たちだったが、女の目の前で次々に白目を剥き、その場に崩れ落ちた。


 男たちがひとり残らず地面に伸されてしまった後に、目の前にひとりだけ立っている僧形の若い男を、女は凍り付いた目で見上げた。


「夜叉ヶ池の龍神様に、毎晩子宝祈願に詣でているというのは、あんたか」


 その時、雲間から差し込んできた月光が、顔を引きつらせてこちらを見上げる女の顔を闇の中に浮かび上がらせた。目が合った慈慧は息を飲む。改めて間近で見たその麗しさに一瞬、頭が真っ白になる。このような美しい女は、都でさえも見たことがない。


「……なぜ、こんな夜中にお百度なんてする。今のように襲われても、文句は言えんぞ」


 慈慧がそう諭す間、女は彼を観察するようにじっと見つめていた。その瞳は深い水底を思わせる不思議な色をしており、わずかに入っている斜視のせいで視点が定まらないのが、不気味でもあり蠱惑的でもあった。


「…昼間は家を空けられん。夜に行くしかないんです。見逃しとくれんか、このとおりですで」


 女はためらいがちに、しかしはっきりとした口調でそう告げた。


「あんたの夫は、夜のお百度を止めんのか?」

「さあ、うちの人はなんも言いなれんで…」


 慈慧は肩を落とした。


「悪いことは言わん。もうお百度はやめにしておけ。わしは今白山中宮に世話になっとる者じゃが、道者の間であんたのことが噂になっとる。いつまた今日のような目に遭うかも分からんぞ」


 その時、女の目が暗く光った。美しいが狂気じみたその目を座らせて、慈慧をねめつけるようにして見た。その直後、また雲が月を隠して、あたりは真っ暗闇になった。


「…そうなりゃ、そうなったで構わん」


 闇の中で、女の声が低く響いた。


「それで死ぬならば、おれの命運もそこまでやったということ。そんくらいの覚悟で、おれは毎日お願いに行っとるんじゃ。なんも、怖い(おそがい)もんはない」


 慈慧はその腹の据わり方に面食らうとともに、この女にある種尊敬の念すら抱きはじめていた。


「そこまでして、子がほしいか」

「ほしい」

「なぜ」

「なんでってお坊様…ほしいもんはほしいんじゃ。母親というもんに、なってみたいんじゃ、おれも。ほれとも、なんや、お坊様は、おれみたいなもんが子を成すことが許されんと言いなれるか」

「…まさか」

「この足を見て、村の者らは皆、神仏の罰やと言います。加えて、おれのととさまが業を受けたといって、白山様に詣でることも叶わんのです。お坊様、おれは、生きてくために肉や魚も食いますし、念仏もよう知りません。こんなおれがすがれるのは、ただ龍神様しかおいでんのです。どうか、後生じゃ、止めんといでくだされ」


 いつもの自分なら、この機を逃さず仏の道を説いていただろう。

 だが女の言葉は、ぐうの音も出ぬほど切実だった。

 御仏に救われぬ身だから、龍神にすがるしかない——そう訴える声を前に、どんな理屈が返せようか。

 いや、むしろ龍神を求めるその叫びこそ、まぎれもない祈りではないか。

 僧にとって、それがどれほど道を踏み外した思いであるかは知れている。だが、胸の奥にこみ上げたものは喉でせき止められ、ひとつも言葉にならなかった。

 ただ、無力さに打ちひしがれた。

 これまでの生を、御仏に捧げてきた。にもかかわらず、目の前のこの女に救いの道を示すことすらできない——その現実が、骨の奥まで沁みていく。



 それから毎晩、慈慧は、女のお百度に付き添うようになった。

 付き添うといっても、特に了承を得たわけでも、頼まれたわけでもない。

 ただただ、女が夜叉ヶ池へ詣でて帰るまでを遠くから見守った。


 その間、噂に引き寄せられてくる邪な者があれば、女に害が及ぶ前に対処し、暗い夜道で女の松明が切れれば、灯を差し出して道を照らした。激しい風雨の日には、風上に立ち、体を張って防いだ。


 そうして女がお百度を完遂させるのを見届け、子供が産まれるのを待って、慈慧はこの地を去った。



 それから、自分が信じられる道を探して、歩き続けた。その間、池へと向かうあのエツと生まれてきた赤子の姿が、心の中に去来していた。


 そして、雪深い国で、慈慧は師と呼べる人に出会った。彼は言った、ただ信ずる心こそが御仏へと至る道だと。

 師が説く教えは、岩の割れ目に雨水が沁み込むように、慈慧の心を満たしていった。

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