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戻り来たもの

 慈慧と由良と別れて帰る道すがら、千太は、今日自分の身に起きたふたつの大きな出来事にすっかり翻弄され、気もそぞろに、無意味に道の真ん中で立ち止まってみたり、吊り橋の上から川面を眺めてみたり、随分と時間をかけて家路についた。


 坂を上がり家が見えてくると、その軒下に、エツが座っているのが見えた。

 すると思い出したように、唇が再び疼きはじめ、それはキンとするどい痛みとなって胸を刺した。耳の奥に、母がこちらを責め立てる声が響いてくるようだった。


 エツは、家の壁に何をするでもなくぼんやりともたれて、照り付ける西日に炙られていた。

 生気がなく、遠目からだと、まるで大きな紙人形が壁に寄りかかっているように見える。その様子に、千太は胸騒ぎを抱えて駆け寄った。

 近づいても微動だにしないので最初寝ているのかと思ったが、両目はぼんやりとだがしっかりと開いていた。


「かかさま…」


 声をかけると、その瞳だけが動いて、千太に目を留め、


「…ああ、おかえり」


 と、力なく応えた。


「すまんな、遅うなって」


 エツの足元に、桶に洗濯途中の汚れ物が放置されているのが目に留まり、千太はそのまま座り込んで、黙ってこすり洗いの続きをはじめた。今は、母の顔を直視したくなかったので、ちょうどよかった。


「今日な、市庭(いちば)で、全部売れた」


 桶の中に目を落としたまま千太は報告するように告げたが、エツからの返答はなかった。


「ほんでな、そこで、びっくりする人に会ったんよ。誰やと思う?」

「…さあ、誰じゃろ」


 エツはだらんと腕を垂らしたまま、興味もなさそうに相槌を打った。その目は、千太を見ているようで、別のどこかを眺めているようだった。が、


「慈慧様といって、俺に名前をつけとくれた、坊様じゃ」


 千太の言葉がまるで気付薬のように、呆けたようなエツの表情を一変させた。


「今、なんと言った?」


 険しく眉間に皺を寄せて身を乗り出すエツに面食らいながらも、千太はもう一度同じことを繰り返した。


「ほんで、近いうち、ここに来とくれると言いないた」

「なんやって?」

「俺がそう頼んだんじゃ、せっかくご縁があってお会いできたんやし。それに、俺が産まれる時にご祈祷くださった坊様なら、かかさまにとっても恩人やろう」


 エツは大きく口を開いたが、その口から言葉が発せられることはなかった。まるで大きな石ころでも飲み下したかのように顔が赤茶色になり、口を閉ざす。その苦心の余韻が蟀谷に細かな痙攣となって残っていた。


 戸惑いも露わにこちらを見上げている息子から顔を背け、無言のまま杖にすがって立ち上がり、足を引きずりながら小屋の中に入っていく母の背中に、


「言いたいことがあるんなら、はっきり言えばええやろ!」


 千太はもどかしさを込めて怒鳴った。


「勝手に家に呼んだのが気に入らんのか? 黙ってへそ曲げられたら、俺も分からんやろうが!」


 その追及を遮断するように、エツが小屋に入ると、入口の筵が音をたてて垂れた。


 千太は手に持った洗濯物を入口近くの壁に投げつけた。

 たっぷりと水を含んだ衣は、叩きつけられた蛙のようにぺちんっと音を立てて壁にぶつかり、そのまま地面にずり落ちて、周りの土を黒く濡らした。

 それを拾いなおして桶の中に放り投げると、今度は手でなく足で散々踏みつけた。

 踏みつけながら、なぜ母はあんなにむきになるのだろうと思った。千太が他人を勝手に家に招いたことが原因ではない、明らかに、慈慧の名を出した瞬間、エツの様子が変わった。


 そのとき、ふたりは実は知り合いなのではないか、しかも、何か因縁のある間柄なのではないかという疑念が、千太の中に燻りだしたのだった。



 ※



 母屋に挨拶をすませると、ウネの家人は慈慧のために歓待の宴を開いてくれた。

 突然訪れた得体の知れぬ僧のために、しかも稲刈り前で食料も乏しかろうに、精一杯もてなして歓迎くれたウネたちに、頭が下がる思いだった。


 その間、由良はせわしなく膳や酒を運んでいたが、慈慧の方を見ようともしない。いつも隠居小屋で寝起きしているらしいが、今日は慈慧を避けてか、母屋で寝ると言って、引っ込んでしまった。


(しょっぱなの出会い方が、あれじゃあなぁ…)


 日が落ちてから、夕涼みがてら小屋のすぐ裏手に腰を下ろし、慈慧はため息をついた。


(年頃の娘は、気が立った雌猫みたいなところがあるからな。こういうときは、無理に近寄らぬが吉じゃ)


 小屋の軒越しに、蒔絵粉を散りばめたような満天の星を仰ぎ見る。

 どこで見ても夜空は変わらないはずなのに、久方ぶりのこの地だからか、その煌きが妙に目に染みる。星々の光が、千太の無垢な瞳の輝きを連想させ、慈慧は思わず微笑んだ。


(腕に抱いたあの子の目はまだ開いてもおらんかったというに…なんとまっすぐで、豊かな光を宿したことか)


 しかも、娘と情を交わすまでに成長して…。


 今日お堂の隅から自分が姿を現したときの、ふたりのなんともいえない表情が目の裏をかすめ、思わず笑いがこみ上げた。


「なにやら、楽しいことでもございましたかな」


 声の方を振り返ると、裏口のところで、ウネがほほ笑んでこちらを見下ろしている。


「うちの孫が、不躾な態度をとって、申し訳ないんな。難しい年頃になって参りましての」


 言いながら、ウネも隣に腰を下ろす。


「いやいや、いきなりこんな爺が家に転がり込んできたんじゃ、無理もない」

「今日、市庭(いちば)で由良に会いないたんなら、あの子…千太にも?」

「ええ…ウネさん、あんた、孫娘があの子と会っておるのを?」

「知っとります。ふたりを引き合わせたのはわしじゃもの」

「……気にならんのですか? その、村に知れたら、面倒なことにならんですか」

「それを承知で会っておるんじゃ。あの子が選んだことです」


 空を仰ぐウネの月光に照らされる横顔は、十五年の歳月の間に皮膚がたるみ、皺が増え、老け込んではいたが、その意思の強い清廉な目はちっとも変っていなかった。


「ほんまに好いた者といっしょにおれる時間は、限られとりますで…」


 慈慧はウネの目線を追って、再び空を仰いだ。

 その言葉に、自然と心に浮かぶ顔があった。こんな星空の下ともに畦道を登った日々が、つい昨日のことように思われる。


「ウネさん、千太の母上とは、近頃会っておられますか」

「…エツのことかえ?」

「はい。千太が今日、母上が元気がないと言っておったもんで、気になって」


 ウネは、急にしぼんだように目を落とす。


「…なんでも、毎夜、恐ろしい夢を見るんやそうです」

「……夢」


 ウネは頷いてから、少しためらったように唇を噛んでいたが、


「前の冬に、エツの夫が()うなりましてな。しかしその夫が、夜な夜な枕元に立つんやそうでございます。するとどこからか白い蝶の群れが飛んできて、隣で寝ている千太に群がり、食いつくしてしまうそうじゃ」


 慈慧は一瞬息が出来なくなった。体中から、冷たい汗が噴き出している。


「……蝶とな。しかも白い…」


 慈慧の反応に、ウネが訝し気にこちらを見ている。


「どうもないかえ、慈慧様、ひどい汗じゃが…」

「……いえ」


 慈慧は節だった掌で額から顎にかけて汗を拭うように撫で、細く息をついて呼吸を落ち着かせた。


「わしが今度この村を訪れたのは、夜叉ヶ池の白い蝶の騒ぎについて、噂を聞いたからじゃ。千太とその母上のことが心配で、居ても立ってもおれんようになりましての」


 ウネは眉間に濃い皺を寄せる。夜叉ヶ池とエツ達との因縁について、なぜ慈慧が知っているのか。


「…慈慧様、おまはんは、あの日――千太が産まれたあの場に、偶然居合わせただけでなかったんかえ…?」

「いえ…千太が夜叉ヶ池へのお百度で身ごもった子やということは、知っておりました。あのときは、白山中宮で世話になっておったもんで、そういった村の噂は聞こえてきましたから。有馬様が千太達をどのように思っているかも、知っております」

「……なんと、そこまでご存知か」

「すまんの、隠しておったわけではないんじゃ。ただ、わしはあのあとすぐ、ここを離れてしまった故…」


 慈慧はその大きな目をぐっと見開いて、ウネの視線を跳ね返す勢いで見据えた。


「ウネさん、ひとつ教えてくだされ。白い蝶の騒ぎの後、旱魃の兆しがあったと聞いた。そして、白山中宮の巫女が祈祷をしたところ、たちどころに雨が降ったと。その巫女様というのは、有馬様か?」


 ウネは慈慧の問いかけに最初困惑しつつも、やがてその真意を悟ったかのようにはっとした表情になり、首を大きく横に振った。


「ちがう。凪様という、別の若い巫女様じゃ。どうやら千太とも面識があるらしゅうて、あの子に、自分は味方やと話したそうじゃ。実際、この前の騒動で、村人らがエツの家へと押しかけてきたのを、凪様が説き伏せて帰しておくれた。ほんでも…」

「でも?」

「得体の知れんお方です。長く有馬様の付き人をやっておいでたお方やし…。ほれに、うちの由良が、異様に怯えておる」

「由良が? なにかあったんですかな」

「分からんのじゃ。ほとんど話したこともないに、訳もなく怖い(おそがい)と申しましてな。あの子は、表からは分からぬ人の心の奥を見れる子です。それがあんなに怯えとるのが、妙に引っかかっての…」


 慈慧は低く唸るように息をつくと、ウネの方に身を乗り出し、声を落とした。


「警戒したほうがええでしょうな。わしが聞いた噂では、その巫女が池に人を沈めて祈ったところ、雨が降ったと」


 それを聞いたウネの顔が、みるみるうちに強張っていった。


「この村で、人身御供は長らくされておらん。廃したのは他でもない有馬様じゃ。この噂が本当なら、その凪という巫女様、すでに相当な権力を持っておると考えたほうがええ。なんか、企みがあるんかもしれん」


 慈慧はウネにそう説きながら、凪と会ってその腹を探ってみなければならない、と思った。

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