揺れる心
「なんとも、先ほどの嵐が嘘のような晴天になったな」
お堂の扉をあけ放った男は、大きく伸びをしながら天を仰いで、差し込む夏の日差しに目を細めた。
地表に薄く積もった雹に、陽光が反射してきらめいている。その上を、ザック、ザック、と踏みしめながら少し進んで、男は振り返った。
「ふたりとも、どうした」
お堂の前で、千太と由良は頬を赤らめ、不服そうに俯いている。
男は、「悪かったよぉ」と、ばつが悪そうに頭をぼりぼりと掻き、
「なに、今日はちと障りがあったが、機会はいくらでもあるんじゃ。これから好きなだけじゃれ合えばよかろうが」
身も蓋もない言い方に、ふたりはさらに顔を真っ赤にして深く俯いた。
その様子に、男は無精ひげに覆われた口を大きく開け、声をあげて笑う。
「さあ、いつまでそこでつっ立っておるつもりか。こうして晴れたんだ、行こう。村まで案内してくれ」
意気揚々とそう言われても、千太と由良は困ってしまう。
「すんませんが、お坊様」
千太がおずおずと申し出る。
「俺ら、ふもとの村の者でないんです。なので、案内は…」
「ああ、うん、おまえさん達の村まで案内してくれたらええ」
千太と由良は顔を見合わせる。
「ほんでも、こっから、結構遠いですよ?」
「知っておるよ。以前、訪れたことがあるからの。十と五年ほど昔になるか、ちょうど、おまえさんが生まれた時じゃ、千太」
「え?」
思わず素っ頓狂な声をあげて、千太は目を瞬かせた。
「どういて、俺の名を?」
「どうしてって、そりゃあ、わしが付けたんだからな」
瞬きも忘れて口を半開きにする千太を、男はまるで我が子を見るように愛おし気に眺める。
「明るいところで顔を見たら、すぐに分かった。お母上と、よく似ておるから」
千太は、開いた口が塞がらない。
「…かかさまを知っておいでる?」
「知っておる…というか、わしはいっぺん会ったら、顔と名前はすっかり覚えてしまうのよ。まあ、特技みたいなもんじゃ。その隣にいる娘さんは、産婆さんの孫だろう? 違うかい?」
由良は目をぱちくり、こくりと頷くと、男はくじを当てた子供のような満面の笑みを浮かべた。
「赤子に名を授けさせてもらうなど、なかなかないことだから、余計にはっきり覚えておるよ。ご両親は、息災か?」
両親のことを訊かれて、千太の表情にたちまち影が差す。
「…ととさまは、この冬に、亡うなりました。それから、かかさまも元気がのうて…」
男の顔から、笑みが溶け消えた。
千太の父親のことは、覚えている。目ばかり大きくて、おどおどと絶えず目を泳がせている陰気な小男だった。あの男は、死んだのか。
「そうか…亡くなったのか」
静かに数珠を持ち、思わず手を合わせる。
赤子の命はどうなってもいい、どうか妻を助けてほしい、そう泣いてすがりつく藤六の姿が鮮明に思い出された。そして、自分に名をつけてほしいと生まれたばかりの赤子を差し出す、あの泣き笑いのような顔も。
「差し支えなければ、亡くなった理由を訊いても?」
由良が、そっと千太を見上げる。
「………風気を、こじらせまして」
千太は、絞り出すような声でそれだけ答えると、うつむいてしまった。
男は、千太の様子をどこか探るように眺めていたが、それ以上何も訊いてこなかった。
結局、男に促され、千太と由良は村までの道中をともにすることになった。
慈慧と名乗るその男は、肌の質感からして四十ほどだろうか。目が大きく鋭く、たっぱがあり、がたいもよいので、まるで仏閣におられる仁王像のような雰囲気があった。が、目尻に深い皺を刻んで笑うと、どことなく子供のようで可愛らしい。なんとも、人好きのする顔だった。
かつては山岳での修行の他、勧進聖のようなこともしており、今も各地を遊行しているというだけあって、瓢箪のように大きく膨れたふくらはぎと細くくびれた足首からは、彼の健脚ぶりが伺えた。
慈慧がここへ来る前には、ずっと海辺の村にいたことを話すと、千太は目を輝かせて食いついた。
「うみ、というんは、先が見えんほど、でっかい池というんは、ほんまですか?」
「うん。でも池とはちと違う。絶えず音をたてて波打っておっての、その水は舐めるとしょっぱい。珍しい魚もとれるぞ」
千太は感嘆の声をあげた。
「すごいなぁ、見てみたいなぁ」
「おまえさんは、旅に興味があるのかい」
「はい…ほんでも、夢のまた夢です。うちには、かかさまがおいでるし」
慈慧は、くすりと笑って、千太の頭をわっしと撫でた。
「そんなに悲観的にならんでもええ。なんでも、願うことは悪い事ではない。それに、物事には時というものがあるんだよ、千太。願って、その時を待て。そして、時を逃さず動けるように、日ごろから準備をしておけ。御仏の心に叶うことなら、いつか実現する」
仰ぎ見た先の、陽を背にしてこちらを見下ろす慈慧の顔から、千太は目が離せなくなる。こんなふうに、自分の夢を肯定してくれる大人を知らなかった。
「…慈慧様は、不思議なお人じゃ」
「うん? そうかい?」
「はい、うまく言えんけど、不思議なお人じゃ」
慈慧は目尻に深い皺を刻み、千太を見下ろす。由良はその柔らかな表情を知っている。いつか、千太が産まれたときを回想するエツも、同じ目をしていた。
緩急のある山沿いの獣道を抜け、渓流沿いの道に出た。先ほどの嵐で、渓流は轟轟とうなりをあげ、濁った水がしぶきを上げている。視界が開けたことで、遠くの山の間から大日ヶ岳の純白の頂が望め、慈慧は思わず感嘆の声を漏らして手を合わす。
「慈慧様は、ここへ十五年前もおいでたんですね。白山様への登拝のためですか」
千太の問いに、うん、と曖昧に返事をし、慈慧はしばらく無言で川を遡る。千太と、その後ろに、黙々と由良がついてくる。
「仏の道を歩むと決めたのは、ちょうど、おまえさん達くらいの年頃だったかな」
慈慧は、かつての自分をそこに見るように、千太と由良を振り返る。
「そこから一心不乱に荒行苦行を積んできたが、どうも、虚しさばかりが募るようになってな…ちょうどそんなときだったよ、村を訪れたのは。まあ、昔の話じゃ」
「どうぞ、お話くだされ」
自分語りを打ち切ろうとする慈慧に、千太は続きを促した。今は、この人のことをどんなことでもいいから知りたいと思った。
「いや、なに…勧進のために下山して人々と触れ合う中で、自分が信じてやっていることが、果たしていいのかどうか、そう思うようになってな。雑念を振り払うために、白山中宮を訪れたんじゃ。結局のところ、わしは行を積むことしか術を知らんものでな。銚子ヶ峰をはじめとする五つの山を越え、御前峰近くの奥宮に拝する、これをひたすらに繰り返す回峰行を己に課した。百回登拝したら次は出羽へと赴く心づもりでいた。回峰行を終え、この地を離れようとしていたまさにその日だったよ、お前さんが生まれたのは」
行く手を塞ぐように巨岩が連なっている。慈慧は軽々と岩に登り、由良と千太に腕を伸ばして引っ張り上げてやる。
「ちいちゃなおまえさんを腕に抱いたとき、わしは背中を押されたような気がしたんじゃ。自分もこんなふうに生まれ変わって次の道を探そうと思えた。勝手ながら、お前さんには感謝しているよ」
慈慧の力強い腕に引っ張られながら、千太は途端に目頭がつんと痛くなった。胸を締め付けるこの感情が、いったいどのようなものか分からない。ただ、この人が父親のように、ずっと自分の近くにいてくれたらよかったのにと、そう思った。
渓流沿いの道から、また山道へと入る。頭上に茂る樹々の葉の先から、雨だれが音を立てて三人の上に滴り、汗と混じって皮膚を滑っていく。
「慈慧様、ここへまた戻られたのは、また白山様への登拝のためですか?」
慈慧は、ぴたりと足を止めた。そのまま、動かなくなってしまった慈慧に、千太がおずおずと声をかける。
「あの…慈慧様」
「実はな、おまえさんに会いに来たんだよ」
「…俺に?」
「うん。あのときの赤ん坊が、どんなに大きゅうなっとるか、見てみとうなってな」
慈慧は千太の頭をまたわっしと掴んで撫でた。
「こんなに立派になって。月日の経つのは早いもんじゃ」
やがて、眼下に由良たちの村の集落が見えてきた。ここで、千太は慈慧と由良と別れねばならなかった。
「慈慧様、近う、家に来ておくれんやろうか。たいしたもんはないですが、精一杯おもてなしさせてもらいます。かかさまも、きっと喜びますで」
「……その、母上のことだがな、千太」
慈慧はためらいがちに問う。
「元気がないと申しておったが、どこか体の具合でも悪いのか」
「それが…ここ最近でひどう痩せまして」
千太は少し唇を噛んで伏目がちに答える。
「夜も、あんまり寝れとらんようなんです」
「そうか、それは心配じゃな…」
慈慧はしばらく何かを考えるように押し黙っていたが、なにかを決心したように顔を上げ、
「今度、一度伺おう」
「ほんまですか」
千太の目がぱっと輝く。
「お待ちしとります、きっとですよ!」
千太は頭を深々と下げる。
顔を上げると、慈慧の一歩後ろで、少しふてくされたような顔でこちらをねめつけている由良と目が合った。千太は思わずぎくりとする。そういえば、道中彼女が一言も言葉を発していなかったことに、今更ながら気づく。
「…由良、また三日後、いつものところで」
思い切ってそう声をかけると、まだ口をとがらせてはいたが、由良は小さく頷いてみせた。反応があったことにほっとする。千太もぎこちなく頷き返し、ぱっと顔を背けると、山の方へと消えていった。
千太の姿が見えなくなった後、慈慧は改めて由良に向き直る。
「さて、おまえさん、名は由良と申したかな。いっしょに…」
「お坊様、おれ、ちと別の用事を済ませてから帰りますもんで、ここで失礼します」
慈慧の言葉を遮るように、由良は早口でまくしたてた。これ以上の追及を許さぬといったように決然と頭を下げると、面食らったような慈慧を残して、足早にその場を去った。
集落から遠ざかるようにしばらく速足で歩き、人気のない畔の途中で後ろを振り返った。もちろん、慈慧の姿は見えなくなっていた。
旅の坊様を案内もせず捨て置いてきてしまった無礼に、後ろめたさがなくはなかった。が、そんなことを凌駕して、あの坊様と――千太とのあんな所を見ていたあの坊様と、ずっとふたりでいることは耐え難い。それに、腹も立っていた。自分だってついさっきまで、置いてきぼりにされていたのだから。
帰り道、千太はあの慈慧に夢中で、こちらを顧みようとすらしなかった。あの口づけなど、まるでなかったかのように。
胸がずきりと痛む。その痛みは苛立ちとも、不安ともつかないものだった。
由良は思わず立ち止まり、畔の陰に隠れるように座り込んで、未だ痺れたような仄かな熱をもっている唇に、そっと触れてみる。
由良は戸惑っていた。こんなにも胸が鼓動する体験を、未だかつて知らない。
誰もいるはずがないのに、思わず周りを見回す。耳をつんざく蛙の声が、まるで自分を小馬鹿にしているように鳴り響いている。
体中が火照っているのに、心細くて仕方がない。
今、千太もこんな気持ちでいるだろうか。いてくれなければ困る。頭がぼうっとして、腑抜けになったように、今の自分のように道端でへたりこんでいてほしい。慈慧のことなんか忘れて、今は自分のことだけを思い出していてほしい。
そうでないと、やりきれない。
深く項垂れたまま、夕暮れの道を、由良は速足で家へと向かった。
隠居小屋の扉を開けると、ウネがこちらを振り返った。
自分を出迎える祖母の温かな声を聞き、由良は小さな罪悪感に駆られて、顔を上げられずにいた。
下を向いたまま後ろ手に扉を閉めると、もうひとつ、ウネとは別の、聞き覚えのある低い声が、
「用事は、もう終わったんか?」
弾かれたように顔を上げた由良の目に、ついさっき別れた慈慧の満面の笑みが飛び込んできた。
「由良、こちら、慈慧様といってな、わしの古い知り合いのお坊様じゃ。最後にお会いしてから、もう十と五年になりますかの。あのとき、ちいと顔を合わせただけなんやに、よう、こんな婆を覚えて訪ねてきとくれた」
「それは、お互い様でしょう。産婆さんだって、わしを見るなり、すぐにあのときの坊主だと、言い当てなすった」
ウネに向き合って胡坐をかいたまま、慈慧は豪快に笑う。
「そういうことで、慈慧様がこの村においでる間、ここに寝泊りされるでの」
「お世話になります」
唖然として立ち尽くす由良に、慈慧は丁重に頭を下げた。




