声なき祈り
千太と由良はお堂の軒下に逃げ込んだ。
しかし、叩きつけるような突風を伴う雹に追い立てられるように、背にしていた扉の閂を抜き、お堂の中に転がり込む。
扉を閉めるとすぐさま、千太は突風で扉が開かぬよう、内側から両方の扉の格子戸の隙間に紐を通し、それをきつく縛って閂の代わりとした。
その間にも氷の礫が扉を激しく打ち付け、格子戸の間から豆粒大の雹がお堂の中に吹き込み、床に跳ね、豆を撒くような音を立てる。
「まいったの…」
ガタガタと音を立てる扉から離れ、千太と由良はお堂の奥に鎮座する阿弥陀如来像に手を合わせた。
「すんません、外がおさまるまで、ここにおらしてください」
そうお願いすると、千太と由良は、お堂の隅に壁を背にして並び、よそよそしく腰を据えた。
外からの突風が耐えず吹き付ける。
まるで地獄から這い出てきた大きな鬼が、その手でお堂をわっしと掴んで揺すっているかのようだった。
雹が叩きつける音の合間を縫うように雷鳴が轟く。
稲光の鋭い光が、薄暗い床に扉の格子模様を一瞬落とす。
そのたびに白く照らし出される阿弥陀如来像の柔和な顔も、心なしか不気味に見えた。
「近頃は、妙な天気やな。梅雨が長い思えば、ぴたっと止んで日照り続き…それで、今日は、雹まで」
お堂の中はむっとするくらい熱気がこもっていて、雨に打たれた衣が貼りついて気持ち悪かった。
千太の脳裏を、白い蝶の群れが飛んでいく。
翅が降らせる鱗粉が放つ冴え冴えとした光が、稲光に溶ける。
「…この雹も、あの白い蝶々と、関係があるんやろうか…」
ずぶぬれになった髪や首周りを手ぬぐいで拭いながら独り言ち、そっと、隣の由良を見やる。
髪から水が滴るのもそのままに、由良は何かを掻き抱くように腕を自分の胸の前で交差させたまま、黙りこくっている。
「どういたんじゃ、寒いんか?」
千太は、ぽたぽたと雫を垂らす由良の髪を拭ってやろうと手ぬぐいを持つ手を伸ばした、そのとき、
「…さっき、お祈りの途中やったんよ」
千太は手をとめる。由良は膝をかかえ、声を詰まらせている。
「でも、途中で、やめてまったの。一番、お願いしたいことがあったんやに…おれ…。最後まで、ちゃんとお祈りすればよかった…」
「……十分、祈れとったと思うで」
「え?」
千太は、そっと左頬に手を触れながら、お堂の奥の暗がりに鎮座する御仏を見つめている。
「伝わってきた、声に出さんでも。仏様も、おまんが祈りたかったこと、十分に分かっとくれとる」
御仏を見つめる千太の目は、どことなく寂し気で、しかし、この世で一番尊いものを眺めているかのように恍惚としている。
「俺も祈ったよ、声には出さなんだけど。その中身はおまんとおんなじじゃ」
「………ずっと、いっしょにおれるように?」
あたりが一瞬真っ白になるほど、鋭い稲光が走った。
その直後、天が獣のようにけたたましく咆哮し、大地が鳴動した。
千太は肩を聳やかして、その唸りが静まるのを待った。
「…すごいな! 今の、きっと近うに落ちたで!」
恐ろしいが、妙な非現実感があって心が高揚していた。
由良もきっと同じだろうと期待して振り返った先で、しかし彼女は落ち着き払って、静かにこちらを見上げている。
なにかを肝に据えたような、今までにないほどの強さを孕んだ大きな瞳が、断続的な稲光に浮彫になる。
「なぁ、兄さは、―――とある?」
再び地面が裂けるような轟音で、由良の声がかき消された。
千太は彼女の方に少し耳を近づけて、なんと言ったか尋ねた。
また巨大な落雷があった。
山が崩れるほどの轟音だったが、千太の耳にはなにも聞こえなかった。
体をもとに戻したが、由良の熱い視線に絡めとられたように、こちらを見上げる彼女の顔から目を離すことができなかった。
今しがた触れ合った唇の部分が、痺れている。
首筋から足の先まで、強張っていくのを感じた。
「…ごめん」
由良の声が、うわずっていた。
「……………なんで謝る」
「いや、やったかと」
「…やなもんか」
雷鳴が落ち着くと、お堂の屋根を叩く雹の音が耳に届く。
「…驚いたけど」
「うん…?」
「………うん」
ふたりは、ほとんど同時に、俯くようにして目を逸らす。
外の嵐の音は一切聞こえなかった。まるで真空の中にいるようだ。
喉が渇きでひりついている。
「…続き、する?」
由良がためらいがちに問う。
千太はお堂の奥から、伏し目がちにこちらを見ておられる阿弥陀如来の方を、ちらと見やった。
「仏様の前じゃが…」
由良はふふっと笑った。
「ええが。見とってもらお」
再びこちらを見上げた由良の潤んだ瞳に、千太は静かに息をのむ。
「…ほんなら」
千太は、由良との距離を埋めるように体を寄せた。
触れてもいないのに、彼女の身体の火照りが熱いほどに伝わってくる。
稲妻が走る度に照らしだされる唇が、今、彼を受け入れようとわずかに開いた。
顔を近づけると、震えるような吐息を頬に感じた。
口づけを交わす瞬間、天が裂け、強烈な稲光があたりを真白に変えた。
再び咆哮した大地が、静かに唸る。
間近に見る由良の瞼が固く閉じられ、呼吸に合わせて、細かく痙攣している。
千太もそれに倣って目を閉じる。
唇を離すと、由良はまだ瞳を閉じたまま、うっすらと眉間に皺を寄せ、千太の着物の襟をぎゅっと掴んできた。
引き戻されるように、また唇を合わせる。
上唇が八重歯をかすめ、由良が身体をびくりと縮こまらせる。
千太はその反応に戸惑って目を開けたが、由良は彼の襟を固く掴んだまま離そうとしない。
千太はもう少し由良に体を寄せて、手で彼女の頭を支えた。
頬にかかる由良の吐息が熱かった。
岩のように硬直していた由良の身体が、徐々に、千太の腕の中で弛緩していく――そのときだった。
その破裂音は、今までのどんな雷よりも大きく響き渡った。
続いて、ずずっと洟をすするような音。それからもう一度、破裂音――間違いなく、人のくしゃみの音だ。
千太と由良は心の臓が止まるかと思った。
突き放すように互いから離れ、阿弥陀如来像に向き直る。
いったい何が起こったのか瞬時には分からず、混乱しきった頭の中で咄嗟に思い至ったのは、御前で破廉恥な行為に及んだために、御仏がお怒りになられているのだということだ。
恐怖に肩を聳やかせたふたりだったが、もう一度響き渡ったくしゃみの声の主は、御仏ではなかった。
よく見ると、像のすぐ脇の暗がりから、太い体毛に覆われた人間の脚が二本、にゅっと伸びている。
「…いやぁ、すまん。どうにも鼻が痒うて、我慢できんようになっての…」
そう言って洟をすすりながら、男が気まずそうに顔をだす。
暗がりで顔はよく見えないが、その頭はいがぐりのように髪が短い。僧だろうか。
「邪魔するつもりはなかったんじゃ、いや、申し訳ない。さ、わしに構わず、どうぞ続けて、どうぞ」
言いながら、男はまた盛大なくしゃみを放ったのだった。




