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自分の知る世界

 賑わう市庭の片隅に筵を敷いて籠などを並べると、今日は今までにない早さで、すべての品物が売れてしまった。

 背負子に括り付けられたままの割れた籠を見ると暗澹たる気持ちになったが、それでも、やはり品物をさばききって銭を得られたことは、何ものにも代えがたい喜びだった。それによって救われたとまではいかないものの、心にのしかかっていた先ほどの屈辱も、傷の痛みも、少しだけ軽くなったような気がした。


 店じまいをして、市庭の裏手の断崖の上にある先の小さな仏閣堂まで登り、岩場に腰掛け、エツがこさえてくれた握り飯を食った。


 高い所に登ると、遠くまで見渡せてそれだけで気持ちがよかった。


 眼下には、ここにも自分の知る村と同じような閉塞した集落があった。すぐ側には山が迫っており、山間のわずかな窪地に、碗の底に溜まった豆粒のように家々が身を寄せ合っている。


 千太は目線を上げ、山の向こう側に想いを馳せた。


 見えはしないが、あの山の向こうに、自分の知らない別の世界がある。

 それを自分に教えてくれた蝉丸は、どうしているだろう。

 今もどこか、自分が見たこともない道を歩き、様々な暮らしを目にしているに違いない。


 ――そんなええもんでないさけ。人ってのは、よそ者には冷たいもんじゃでの


 彼の自由を手放しに羨んだとき、そう言って笑っていた。彼が笑うときは、悲哀の心情が胸の内にあるときだと、千太は知っている。


 ――わしに言わせりゃあ、おまんは、まんだ乳離れできん坊じゃわいや。流浪してみさらせ、一日もたずに根をあげるによ


 それでも、今の境遇と天秤にかけたとき、どうだろうか。

 行くも地獄、留まるも地獄ならば、どちらの地獄の方がましだろうか――…


 そのとき、背後に人の気配を感じた。振り返るのが早いか、


「兄さ」


 快活な声とともに、健康的に日焼けしたえくぼの顔が視界に飛び込んでくる。

 千太は驚きのあまり一瞬声を失った。


「由良か?」咄嗟にぐるりを見回す。他には誰もいないようだった。「どういたんじゃ、こんなとこで」


 会えたことが、素直に嬉しかった。思わず立ち上がろうとする千太を由良は手を挙げて制し、


「おれも、握り飯持ってきたんじゃ、となりで食ってもええ?」


 と、千太の横に腰を下ろした。


「春のお蚕さんから糸がとれての、余った分を売りにきたんよ」


 由良は、膝の上で笹の葉を縛る麻紐をほどき、握り飯を取り出した。


「ほんでも、もっと村から近い市があるやろ。なんでまたこんな離れたとこまで?」

「この前、兄さがここの市に来とると言っておいでたから」由良は握り飯をほおばりながら、肩をすくめて、ふふっと笑った。「もしかしたら、会えんかしらん、と思っての」


 千太は居心地が悪かった。

 身体の内側の奥の方を、何か別の生き物がむずむずと這っている感じがして、真夏のお天道様の下で炙られたように、顔がかっと火照りはじめる。


「…俺もな、ひょっとしたらおまんに会えんかと思って、今日は村を通って来たんじゃ」


 千太は自分でも目が泳いでいるのが分かった。


「ここで、会えたね」

「うん、ほうやの」


 由良のほんのりとした頬の赤みが、しかし千太を見上げた次の瞬間、みるみるうちに引いていった。


「どういたの? この傷?」


 由良は眉間を寄せて、千太の蟀谷を凝視している。


「ああ、これ…さっき、転んだんじゃ、村で」

「ええ? 結構ざっくり切れとるよ。転んだ先に石でもあった? あ、指も…」


 蟀谷に触れている千太の指が傷だらけなのを認めて、由良はさらに眉根をぎゅっとする。


「どうもない、どうもない。ほれ、もうかさぶたになりよる。昔っから、傷してもすぐ治るんじゃ。丈夫いのだけが取り得やでな」


 ふうんと返事をしながら、なおも心配そうに傷を眺めてくる由良の視線がむず痒かった。


「食わんの?」

「え?」

「にぎりめし」

「ああ、うん」


 千太に促されて、由良は思い出したように手に持ったままの握り飯をかじった。話題を逸らすことに成功して、千太はほっと胸を撫でおろす。


「生糸、売れたんか」

「うん、思っとったより、売れた。兄さは?」

「完売じゃ」

「すごい! えかったね」

「うん、いつもこんなことないんよ。今日はついとる。おまん、福の神じゃ」

「ええ? 福の神?」


 由良はまた大きなえくぼを作り、つるりとした八重歯を見せて笑った。

 この笑顔は、福の神さえ及ばぬほどだ。見ているとこちらまでつられて、知らぬ間に顔が綻んでしまう。


「ここの市は初めて来たけど、ええとこやねぇ。ええ眺めじゃ」


 残りのにぎりめしをほおばりながら、由良は遠くに視線を伸ばした。


「うん。市に来たら、ここに来てにぎりめし食うのが俺の楽しみなんよ。俺は、高いところが好きや。ずぅっと遠くの山の方が見渡せるし、その向こうの国のことを考えると、時間がたつのも忘れるくらいじゃ」

「山の…向こうの国?」

「うん。あの山の向こうには別の国があって、見たこともない食いもんもあって、いろんな人が、それぞれ、いろんな暮らしをしとる。そう思うと、俺のちっさな世界がわっと広がっていく感じがして、気持ちが大きゅうなる」


 由良は千太の言葉に沿って、視線を山の彼方へと移した。


「ほんまやねぇ、なんか気持ちが大きゅうなるねぇ…。山の向こうにも人が暮らしとるなんて、考えたこともなかった。兄さは、すごいなぁ」

「いんや、これは蝉丸の受け売りじゃ。ほれ、山ん中でおまんが会った、天狗」

「覚えとるよ、蝉丸! 元気しとる(まめでおる)かのぅ、次いつ会えるの?」

「さあ、それが分からんのや。気づくと家に来て、知らん間におらんようになっとる。妙な男じゃ。ほんまに人かなぁ、天狗かもしれんなぁ」


 由良がきゃっきゃと笑うのに、千太も思わず吹き出した。


「あいつはいつか金を貯めて、この国の津々浦々を巡り歩くのんが夢なんやと」


 正面から見るよりも、ぐっと大人びて見える千太の横顔には、憂いと憧憬がないまぜになった複雑な微笑が載っていた。


「兄さも、蝉丸みたいに、村を出て、いろんなところを巡ってみたい?」

「うん、まあ…けど、どだい無理な話じゃ。俺にはかかさまがおいでるもん。足も悪いに、ひとりにはしておけんでの」

「ほうかぁ、ほうやねぇ…」


 相槌を打ちながら由良は何かを考えるような顔つきになった。


「…ほんでも、もし、もしな、いつか、そんなときがきたら…。兄さ、おれもいっしょに連れていっておくれる?」


 千太は驚いたように由良に顔を向けた。


 思わず笑いかけたが、その冗談めいた口調とは裏腹に、こちらを見上げる由良の目があまりにも真剣なのに面食らった。千太は中途半端に口端を引き上げたまま、彼女の顔をしばらく見つめるしかなかった。


「…なんての。戯言じゃ! 兄さのその困った顔ったら!」


 由良は、誤魔化すように破顔して、舌の先をちろりと出した。


「なんやぁ、びっくりしたぁ」

 と千太は身をのけぞらせて笑ってみせたが、その胸に、針の先でちくりと刺されたような痛みが走った。由良の真実な気持ちを咄嗟に受けきれず、はぐらかすことによって、蔑ろにしてしまったような気がした。


「…ええよ」


 千太は、笑うのをやめて言った。


「ええよ、もしその時がきたら、いっしょに行こまい」


 今度は、由良が戸惑って顔を向ける番だった。


「…ええの? ほっとに?」

「うん。ほんでも、そんな心配せんでもええ。俺は、どっこも行かん。ずっと、おまんの傍におる」


 たとえ、おまえが嫁に行っても、と、千太は心の中で付け足した。


 こちらを見上げる由良の目は、たちまちのうちに涙の膜で覆われていった。彼女は、不機嫌そうにちょっと眉間に皺をよせて、わずかに鼻をすすると、その大きな勝気な目で、また山の方を睨み据え、そのまま黙ってしまった。


「村での暮らしは、どうや?」


 沈黙を経て、千太はそう切り出した。

 千太は、やはり由良の立場が気がかりだった。自分と会っていることが知れたら、村でひどい目に遭うのではないかと心配でならなかった。


「まだ、みんなから口きいてもらえんのか?」


 由良はため息をひとつ、しばらく口ごもっていた。


「…おれ、村の子らと合わんみたいや。でもええの。おれ、おばばさまについて、取り上げ女の修行を始めたとこなんよ。あいつらと群れとる暇、ないし」

「取り上げ女の修行?」

「うん…手に職があれば、どんな風になっても、生きていけると思って。おばばさまも年で、そろそろ、取り上げ女の仕事も辛くなってきたと言いなれるもんで、後を継げたらと思っとる」


 千太は敬意をこめて由良を見つめた。


「たいしたもんやな、おまん」

「一人前になってから褒めとくれ。トシさっていう熟練の取り上げ女がおいでての、その人腕はええんじゃが、怖い(おそがい)んじゃ。おれは気が利かんと、毎回、叱れてばっかり」


 そう、己の体たらくを自虐的に語ってはいたが、やはり自分の行く道を定めた由良が眩しかった。彼女は年下なのに、一気に自分よりはるかに大人びて見えた。


 手に職、という言葉が耳に残っていた。自分もなにかを探してみたいと思ったが、今日生きることに精一杯で、とてもそんな余裕はなかった。しかも、この身分では、そのなにかを見つけたところで、なにもできまいと思われた。


「…雨の匂いがしてきたな、こりゃ一雨くるで」


 由良も視線をあげた。今の今まで晴れていた空にはいつのまにか薄雲がかかり、川下の方の山の端には、黒雲が集まり始めている。


「帰ろまい」


 と、立ち上がる千太に続き、由良も腰を上げた。

 名残惜しかった。もう少し、千太とこうしていたいと思った。その気持ちに動かされるように、由良は千太の袖をつ、と掴んだ。


「…最後に、きちんとお参りしてこまい」


 由良の視線の先に、崖の上に立つ小さなお堂があった。千太は、ここに登ってきたときに参拝はすでに済ませていたが、それは口に出さずに由良に並んでお堂の前に立った。

 由良が先に手を合わせて目を閉じる。それに続いて、千太も同じようにした。祈っていると、


「仏様、今日もおおきに。無事に兄さにも会えました、おおきに」


 千太は思わず目を開けた。


「おい、声に出したらいかんやろ。心の中で言わな」

「そんなん、誰が決めたんよ。どうもない、この方が仏様もよう聞こえるに」

「ほうかもしれんけど…」


 千太は小さく咳払いし、少しばかり由良に背を向けるように体を捩った。


「…由良が、ええ取上げ女になれますように。村でいじめられませんように。また生糸がたんと売れますように、あと、食うもんに困らんようにしてください」


 祈る千太の耳の先っぽまで紅く染まっているのを見て、由良の頬も、ほんのり赤くなる。


「なんよ、兄さ、おれのことばっかり」


 声が妙に裏返った。それを聞いた千太の背が震えている。笑いをこらえているのだ。由良も改まった感じでひとつ咳払いして、


「兄さが、ひもじい思いをしませんように。毎日、元気(まめ)で暮らせますように。いつか、山の向こうの国を見られますように。ほれから…」


 仕返しとばかりに声を張り上げる由良を、千太が笑いながら止めに入る。


「もう、よせ、よせ。あーもう、なんやこっぱずかしゅうて、耳の後ろが痒うなるわ」

「邪魔せんといて、おれは今、仏様に祈っとるんやから! ほれから、うーんと、ほれから…」


 しかし、由良は祈りを続けられなかった。皮肉にも、自分が一番願っていることを、口に出して祈れないのだった。由良は喉の奥と目頭がきゅっと痺れるのを感じた。祈ることさえ叶わぬことが歯痒くてたまらなかった。


 ゆっくりと合わせている手を下ろし、薄っすらと目を開けて千太を見ると、まるでその胸の内を察しているかのように、寂し気な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。


「さて、お参りも終わったし、今度こそ、帰ろう」


 そう、千太が言った時だった、大粒の雨の雫が、ぼたり、と地面に大きな染みを作った。

 それを皮切りに、天地を割るような轟音が鳴り響いた。山際にあったはずの黒雲は、ものすごい勢いで、今や頭上の空を覆いつくしていた。

 これはまずいと思うが早いか、頭上から、巨大な(ひょう)が音を立てて降り注いだのだ。


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