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壊れたもの

 ウネの心配は的中した。


 梅雨が明けると、雨のない日が一日、また一日と続いた。

 田畑がひび割れ、干上がっていくにつれ、白い蝶の群れの記憶が、村人の胸に恐怖とともに甦った。

 白山中宮社では、連日夜を徹して雨乞いが行われ、人々もまた目を血走らせて願掛けのために押しかけた──そして二十日後、ようやく空から恵みの雨が降り注いだ。


 この慈雨に、村中が安堵と歓喜が交錯した妙な高揚感に包まれた。

 白山中宮社では感謝の神楽舞や田楽の奉納が盛大に開催され、寺庵では連日読経の声が響いた。


 その熱狂がいささか鳴りを潜めた頃合いだった。


 どこからかぽっと出たある噂が、枯草に落ちた火種がやがて野火のように燃え広がるが如く、たちまちにして村中を席捲した


 ――白山中宮社に霊験あらたかな巫女あり、これが夜叉ヶ池で祈祷を捧げたところ、たちまちにして黒雲が空を覆い、大粒の雨が降り出した…



 ※



 どこからか飛んできた朝顔の種が、軒下に薄桃色の花を咲かせた。

 花弁を指で優しく弾くと、朝露が夏の輝きの一片を纏いながら、軽やかに跳ねた。

 その花をしばし愛でるように見つめてから、千太は筵の上に並べられた籠やら、草鞋やらを、せっせと麻縄でまとめて、背負子にくくりつけていく。


 今日は月に一度の市庭が開かれる日だった。場所は三里ほど離れた川辺で、エツが普段作るこれらの細工品を売ることのできる貴重な機会なのだ。


「坊、これ、向こうで食え」


 戸口から顔を出したエツから笹の葉に包まれた握り飯を受け取る。握りこぶしくらいの大きな飯の塊がふたつ、笹に包まれているらしいのを見てとって、千太は少し心配になる。


「かかさまの分は、あるんか?」


 戸口にもたれかかったまま、エツは意識的に歯を見せて笑ってみせる。

 ここのところ日に日に痩せていく母を案じてだろう、千太はまるで世話焼きばばのように、事あるごとに、かかさま、食え、もっと食え、とうるさい。


「ある、ある。どうもない。それよか、おまん、しっかり食って力つけなれ。ほんで、たんと売ってきとくれよ」


 早く行けと虫を払いのけるように手を振るエツに、千太は大きく頷き、


「分かった。ほんなら、行ってくるでの」


 懐に握り飯をねじ込んで、背負子を背負い、歩きはじめた千太だったが、ふと足を止め、踵を返してエツのもとへと駆け寄ってくると、切羽詰まった様子で、


「かかさま、念のため今日は、洞に行っとってくれ。俺もおらんし、もし前みたいに村の連中が来たら大変じゃ」

「うん、うん。分かった、おまんの言うとおりにするでの。さあ、はよう行け、はよう」


 エツに半ば追い立てられるようにして、千太は今度こそ背を向けて歩き始める。


 速足で鬱蒼とした獣道を下ったが、その中腹で、そっと後ろを振り返った。エツはまだ戸口のところに立ってこちらを見ていたが、千太と目が合うや、またぎこちなく笑って、行け、行け、と手で払った。その枯れ木のような容貌に後ろ髪を引かれつつも、頷くと、再び前を向いた。


 息子の背中が坂の下へ消えるのを見届けて、エツは短く息をつく。


――千太、由良とのこと、おまん、どうするつもりじゃ


 昨日の晩、飯の片付けを終えて戻ってきた千太に、エツは思い切って切り出した。ふたりがこっそりと逢瀬を繰り返していることは分かっていたし、いつか言わねば、言わねばと悶々としてきたのだった。が、旱魃の兆しで再び緊張が走り、それどころではなくなってしまっていた。

 雨が降ったことで、やっと千太と話し合える心の余裕が生まれたのだった。この機を逃すまいと、エツは一気にまくしたてた。


――千太、由良は村の娘や。おまんとは、生きる世界が違う。このまま関係を続けても、おまんが辛い思いをするだけや


 こんなことを言えば、おそらくは、千太は怒りも露わにのっけから食ってかかってくるだろうと覚悟していたのだったが、その予想に反し、彼はただうつむき、伸びた足の爪をいじりながら黙って話を聞いていた。

 話がひととおり終わっても、表情一つ変えず、顔も上げようとしない。


「坊、聞いとったか」


 一瞬うわの空だったのではないかと疑い、そう確認すると、千太は目だけをあげて、「うん」と、小さく頷いた。


「もういっぺん言うが、由良もそろそろ十五や。いつ、縁談の話が持ち上がってきてもおかしゅうない年頃なんや。かかさまの言うことが分かるな、千太。おまんはそれを、黙って見とるしかできんのじゃ」

「ほれは…わかっとる」

「わかっとるんか?」

「うん、わかっとる」

「わかっとって、逢っとるんか? なんや、火遊びのつもりかえ?」


 その一瞬、千太の顔色にさっと影が落ちた。依然として下を向いたままだったが、その頬のへこみ方から、彼がなにかを堪えるように歯を食いしばっていることが分かった。


「遊んでなんかおらん」と答えたのち、もう一度「遊んでなんか、おらん」と一語一語に力を込めて強く言い切ると、きっと目を上げてエツを睨んだ。


「ほんでも、かかさま、俺は、ちゃんと自分の立場は分かっとる」

「立場が分かっとると言うんなら、もうあの子と会うのはやめとけ、な?」


 千太はぐっと眉間に皺を寄せ、暫し黙した後、


「あれか? これもかかさまのいう、さだめというやつなんかえ?」


 棘のある嫌味な言い方だった。しかし、エツはあえて大きく頷いた。


「ほうや、千太。由良とおまんはいっしょに生きれん。そういうさだめなんじゃ」

「………わかった、ほんなら、しゃあないの」


 まるで、飲みかけの湯のみをぽんとその場に置くように、そう言い置いて、千太は、そのまま、布団に潜り込んで丸くなった。



 その翌日は、身構えていたエツが拍子抜けするほどに、千太はいつも通りだった。


 朝いちばんに夜叉ヶ池に行き、その後は籠に使う蔓を採ってきて水に浸したり、食料を採りに山や川へと出て行った。飯も淡々と食い、口からは由良の由の字も出さなかった。


 その卒ない様子が、逆に、エツの心配を煽った。


 なぜ反撥してこない。自分の立場を顧みてうまく割り切れているのか、それとも、まだそこまで由良に対する情が深くなかったのか…。


 坂道の向こうに千太が消えたあとも、エツはその場に留まったまま、もやもやとした思考を巡らせていた。


 そのとき、ふと、背後に気配を感じた。

 誰が立っているのかは、振り返らなくても分かった。

 エツは戸口の柱に額をつけて、苛立つ感情を御するために、細く細く息を吐いた。


「…また、おいでたんかえ」


 返事はなかった。


「もう、おれらに構わんといて。頼むで、どっか行っとくれよ…。いっくら待っても、あの子はおまんといっしょの病になることはないでの。あの子は龍神様の子やでの! 龍神様が、守っておくれるでの!」


 腹立たしさでそう叫ぶと、その叫びに引っ張られるように、体中の力が抜け落ちていった。倒れそうになるのをこらえて柱にしがみつき、しばらくして気づくと、背後の気配は跡形もなく消えてしまっていた。



 千太は、坂を駆け下りる。草の匂いを孕んだ冷たい向かい風を受けながら、吊り橋を渡り、そのまま棚田を登って、道祖神様に一礼して手を合わせる。


 息を整えて顔を上げると、その拍子に顎先から汗が滴った。


 広がる棚田の向こう側に、たちこめる朝靄のおぼろげな空気の中で、由良が暮らす集落が揺蕩っていた。


 いつも市庭に向かう際は、この棚田の外側から村のはずれに降り、往来を避け、人気のないところを息をひそめて横切っていく。が、今日は突然魔が差したように、千太は今登ってきたばかりの棚田を再び下り始めた。


 差し込む朝日が、まるで氷を溶かすようにみるみる靄を散らしていく。棚田を降りたころには、頭上の空は冴えわたり、遠くに連なる山々の稜線までくっきりと見渡せた。そこから、川沿いの畔に沿い、集落へと入っていく。


 朝の往来はひっそりとしていた。これまで村を通るときは常に俯き、周りを見渡す余裕などなかったが、今、千太の双眸は、目覚めたばかりの家々に詳らかに注がれている。


 大きさの違いはあれど、どの家も、どっしりとした茅葺屋根で、戸口の先には青々とした紫陽花がこんもりと房になって生えていた。その隣に、刈り取られたばかりのからむしの茎が涼し気に水に浸っている。そこここから響いてくる蝉の合唱の合間を縫って、間の抜けた牛の声が耳に届く。裏手には、水屋も兼ねた高床式の小さな蚕小屋があったり、納屋があったりする家もあった。


 こうしてみると、村の家は、自分の住む家とは何と違うことだろうか。


 嵐のたびに、風に家ごともっていかれるのを案じなくてもよさそうだし、冬もきっと自分のあばら家よりは温かいに違いない。

 別にこれらの家は、名主の家というわけではないのだ。ふつうの村の暮らしというのは、こういう家で暮らしていくことなのだ。

 由良の暮らしもこのような環境で営まれているものなのだ。


 そのあまりの違いを目の当たりにし、千太の胸は締め付けられた。


 否応なく、昨日のエツの言葉が思い出されて、惨めな気持ちになった。そこに、朝の野良へと向かう人とすれ違うたび、ぎょっとした顔をされるのが一層こたえた。その顰めた顔や、ぱっと逸らされる冷たい横顔が、ここはお前が来てはならぬ場所だと告げている。家々から立ち昇る嗅ぎなれた朝の煮炊きの匂いさえ、よそよそしく鼻をつく。


 出来心から村へ来てしまったことを後悔した。そして、顔を見られぬよう深くうつむき、なるべく速足で歩いた。


 しかし、行商の形をしている少年は目立ったのだろう、白山中宮の前をぬけるところで、背後から小石が飛んできて千太の足元で跳ねた。

 次に飛んできた小石は、背負子の先に当たり、籠やらが揺れて背中で乾いた音を立てた。


「お! 当たった!」


 振り返ると、喜助が手を叩いて喜んでいる。その隣では、外した方の与一が悔しそうに舌打ちし、また小石を拾いにしゃがみこんでいた。そして、彼らの後ろには、あの源助がいた。口元に小ばかにしたような薄い笑みを浮かべている。


「おい、川向こうの」


 と、源助が口を開くのと、与一の投げた小石が顔面へ飛んでくるのは同時だった。千太は咄嗟にそれをよけて、源助を睨み据えた。

 この顔は、一日たりとも忘れたことはなかった。布団の中でふと思い浮かび、苛立ちで眠れない夜を過ごしたこともあった。


「おまん、由良を誑かしとるようやが、なにが狙いや。あれが名主の孫やから、取り入ろうとでも思っとるんか」


 千太は源助をねめつけたまま、何も答えずにいた。それはお前の方だろうと思う。


 また小石が飛んできた。今度はふたつ同時だった。どちらが投げた方かは分からないが、ひとつをよけきれず右のこめかみを掠めたらしい、鈍い痛みが走る。よろめいてかがんだところに、甲高い笑い声が届く。


「おい、もうちっと、うまく狙えや」


 源助の言葉を皮切りに、次々と小石が飛んでくる。そのどれかが、次は背中に背負った籠に命中した。この籠は、藤六が切って下処理をした最後の山葡萄蔓でエツが作ったものだった。


 その籠がぱきり、と割れる乾いた音が、千太の中の何かを壊した。


 石ころを拾いあげ、投げた。

 もう一つ、投げた。

 もう、止まらなかった。

 声も出ないまま、腕だけが動いた。

 しゃがみこみ、そこらの石を土ごとかき集め、滅茶滅茶に投げた。

 さすがの源助らも思わぬ抗戦にひるんだようで、千太に罵声を浴びせながらも、頭を抱えて、降り注ぐ石礫から身を護るようにかがみこんだ。


 千太は石を投げに投げ、もう手元から投げるものがなくなると、踵を返して一目散に逃げた。


「あ、このやろ!」

「待て!」


 後ろから追いかけてくる声を振り切るように、そのまま、駆けて、駆けて、村のはずれの渓流にたどり着くと、川にせり出して生えている木の陰に四つん這いになった。


 源助らの声は全く聞こえなくなっていた。


 うまくまけたと安心した途端に、体中を暴れまわる血が胸を圧迫して眩暈を覚え、背負子を下ろし、そのままそこに倒れるようにして体を横たえた。


 瀕死の獣のように、体中を波打たせて息をした。その鼓動に合わせて、指先と蟀谷の傷が疼いた。湿った土の匂いが、鼻腔を抜けていく。


 皮膚という皮膚のすべての汗腺から噴き出した汗が、夏の風に吹かれて乾いていくにつれ、燃えるようだった身体の熱も引いていった。すると、それと引き換えに、指先と蟀谷が思い出したように鋭く痛みはじめ、千太は思わず小さく呻いた。

 見ると、指先と爪の間に血が滲んでいる。さっき石を集めた時に指が切れたらしい。

 指先を咥えて舐りながら、仰向けになって薄眼を開け、若草色の細かな新芽をびっしりと付けた木の枝が、気持ちよさそうに、青空の下で風にそよいでいるのを、しばし、ぼんやりと眺めていた。


「…くそったれ…」


 起き上がって、血の味がする唾といっしょに吐き捨てるように言うと、枝が揺れる度にちろちろと転がる木漏れ日を瞼に感じながら、再び目を閉じた。


 目の裏に、由良の顔が浮かんだ――自分のことを好きだと言ってくれた、由良の顔が。


 母と同様に、生まれた時から、自分は村の爪はじきものだった。

 村の者から遠ざかり、なるべく目立たず生きていくことを教えられてきた。

 しかし、今や、この身分のために自分が殴られたり、辱められたりするのが、当然のこととは思わない。

 それを教えてくれたのは、由良だった。彼女がいなければ、今も自分は石を投げ返す術を知らず、ただただ、卑屈な諦観の中に身を埋めていたに違いない。


 十分ではないだろうか。そのような存在を得たことだけでも、十分だ。

 彼女を想うたびに胸に陽だまりが灯るようになる、この感情を抱いて生きていくだけでも。


 千太は立ち上がり、背負子を背負って歩き始めた。深呼吸をすると、冷ややかな風が焼けるような喉を洗っていった。


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