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照り返す影

 家の壁を焼くような重たい日差しが、梅雨明けと同時に、本格的な夏の到来を告げていた。

 この時期から、村では生糸作りが始まる。

 これは主に女たちの仕事で、日々の家事と並行して行うのだから、まさに夜なべ仕事の重労働だった。


 朝のまだ涼しいうちに野良仕事をひと段落させた由良は、濡れ縁の傍でウネに指導を受けながら糸紡ぎの作業に精を出していた。


 日陰とはいえ今日は風もあまり吹かず、ねっとりとした空気が肌に絡みついて汗が滴る。


 由良の隣では、昨年の秋の暮れに生まれたばかりの太郎が、すやすやと深い寝息を立てている。芋のひげ根のような髪の毛がぺったりと顔に貼りつくほど汗をかいているのに、よくもまあこんなにも気持ちよさそうに寝られたものだ。


 奥の土間では、母の雪が、脱穀が済んだ麦を臼から取り出している。早稲の収穫まであとひとつきあまりの間、食つなぐための貴重な主食だ。

 その隣の窯で煎られている稗の香ばしい匂いが、濡れ縁まで漂ってくる。

 乳の出が悪いことを気にする雪は、出がよくなるといわれる稗を躍起になって食した。その稗を煎っているだけにか、無意識に子守唄を口づさんでいる。

 そのかすかな旋律が、糸を紡ぐ由良の耳にも届く。


「いつも通りの毎日やのう、おばばさま」


 繭玉から引っ張り出した糸を指の先で撚りながら、由良が思いついたように呟く。


「あの白い蝶々の群れで大騒ぎやったのに、まるで夢でも見とったみたい」


 無邪気に笑う由良の言葉に、ウネは口の端をぎこちなく上げて笑むと、濡れ縁の外を眺めた。

 照り付ける陽光に思わず目を細める。

 あの白い蝶の事件からふたつきあまりが過ぎたが、その間、拍子抜けするほど、なにも起らなかった。

 あれほど殺気と緊張に満ち満ちていた村の空気も徐々に緩みはじめ、あの白い蝶については杞憂だったと決め込んでしまったかのように、人々は日々の仕事に精を出している。


 だがしかし、この安穏が、棘のようにウネの胸に刺さる。


 梅雨が明けて七日。雨は一滴も降っていない。空は青く、風もない――真綿で首を絞めるように、災いがじわじわと迫ってきている気がして、胸騒ぎが止まらない。


「…兄さは、なにしとるかなぁ」


 糸を撚りながら、由良が独り言ちる。

 耳に残った自らの声にはっとして、思わず力んだ指先で糸がぷつりと切れた。

 ウネと目が合うと、由良は小さく息を呑み、赤く染まった顔を項垂れるように伏せた。

 千太のことを思っていて思わず口にしてしまったのだろう。その初々しさに、ウネの口元が自然と緩む。


「近頃、あの子とは会っとるんかえ」

「…うん、たまに」


 ぽそりと答えたそばから、由良の耳の先まで赤みが広がる。


「別に、なんもないよ。ただ、会って話すだけ」


 ウネは何も訊かず、わかったわかったとただ頷いた。見ているこちらがこそばゆくなって、頷きながら、小さな笑いが漏れる。


(…龍神様、どうかこの子らが、幸せになれるよう…。何事もおこさんといてくだされ、何事も…)


 胸のうちでそう祈らざるを得ない。

 今も由良を見る度に、十年前の彼女の面影がちらついて、不安でたまらなくなる。


「……おばばさま、今日も、エツさんとこ、行くんかえ?」


 由良が、土間の方をちらと気にしながら、小声で問う。


 あの洞での一件があった日から、ウネは毎日エツの家へと通っている。由良はてっきり、ふたりの間にあった長年のわだかまりが、あの洞で解消されたからだと思っていた。が、帰宅したウネの沈んだ表情を見るや、その和解が、ただ手放しで喜べるほど単純なものではないと悟った。


「そんなに通って、おばばさまは…どうもないんか?」

「…どういて、そんなこと訊くんじゃ?」

「…エツさのところから帰ってくると、いつも、おばばさまの元気がない気がして…」


 川向こうから帰って来たウネは、由良さえも近寄せないほど鋭くピリピリとした気配を纏い、ひとり小屋へと引きこもってしまう。その背中は、なにかに憑りつかれているような得体の知れない気配を漂っているようで、由良は背筋がすっと寒くなる。


「兄さから聞いたんやけども…」


 由良の脳裏に、エツの様子を吐露する千太の物憂げな表情が思い出される。


「藤六さが亡うなってから、エツさの様子がおかしいって…。日中廃人みたいにぼーっとしとるかと思うと、いきなり、誰もおらん壁に向かって怒鳴り散らしたり…」


 ウネは、深いため息をつく。


「…なんとか、なんとか…力になってやりたいと、思うんやけども…」


 消え入りそうなウネの呟きに、由良がわずかに眉根を寄せる。

 その視線から逃れるように、ウネはまた濡れ縁の外に目を遣る。その瞳は淀んだ暗がりに沈んでいる。


「おばばさま…あの…」


 言葉を継ごうとした由良だったが、それは、太郎の耳を劈く泣き声でかき消されてしまった。


 こんな小さな体のどこからそんな声が出るのかと思うほど、太郎の声は壁にワンワンと反響し、聞いている者の丹田をも震わせる。

 あーうるさい、うるさいと悪態をつきながらも、由良は鳴れた手つきで太郎を抱き上げ、あやしはじめる。その小さな手が、夢中で由良の胸をまさぐるしぐさを見て、


「かかさまぁ、乳じゃあ」と母を呼ぶ。


 首からさげた手ぬぐいで滴る汗を拭き拭き、濡れ縁へとやってきた雪に太郎を託す。


「代わりに、稗煎ってきとくれ。あと、麦も蒸しといて」


 太郎に乳を含ませながら、雪は由良に顎で土間の方へ行けと示す。

 黙って頷き、機敏に土間へと向かう由良を眺めながら、


「おばばさま、あの子、最近変わりましたんな」

「…うん?」

「前はちぃと暇を見つければ、さっさと遊びに行ってまうような子やったに、最近は文句も言わずよう働くようになった。あれほど嫌がっとった太郎の子守も進んでやるし…」

「…うん、ほうやの」

「働いとくれるのは、ありがたいことなんやけんど、あの子、村の子らとなんかあったんやろうか。お政らとも遊んどらんようやし、この前の田植えの時もひとりでぽつんとおったし…」


 ウネを見る雪の目がすっと細まった。


「あの子ももうすぐ十五やし、そろそろ嫁入りの話も出てくる頃や。妙な噂が立つと、貰い手がのうなります」

「そんな、まだ月のものもないに、気が早い」

「…おばばさま、分かっておいでるんな」

「なにが」


 ウネは糸を紡ぐ手をとめ、雪をそっと見やった。いつもの猜疑心に満ちた目がこちらをじっと観察している。ウネはまた目を伏せ、糸を紡ぎ始めた。


「もう川向こうへは連れて行っとらんが」

「ほんまですかな」

「しつこいのぅ」


 ウネに睨み据えられ、雪はぐっと言葉を飲んだ。思わず太郎を支える手に力が入り、乳に押し付けられた太郎が不機嫌な声をあげる。


「……もうひとつだけ、この際訊きたいことがあるんですけんど」

「なんじゃ」

「ついこの間も、お産の手伝いにあの子を連れて行きないたみたいやけど…。まさか、あの子に取り上げ女の後を継がせようと思っておいでるんかな?」


 ウネは糸を紡ぎながら少し黙っていた。乳を飲み終えた太郎を肩に担いで背中を叩きげっぷをさせながら、雪が言葉を継ごうとしたとき、ウネはきっと雪を見据えて、


「もしあの子が継ぎたいというんなら、わしは喜んで教えてやるつもりじゃ」

「よしとくれ」


 間髪入れず、雪が腰を折る。


「取り上げ女は村に必要な人じゃ。おばばさまは立派な仕事をしておいでるとは思いますけんど…」


 ウネは思わず笑ってしまった。血の穢れに触れるといって、この仕事に嫌悪感を露わにしておきながら、心にもないことをよくまあぺたぺたと台詞に張り付けて言えたものだ。


「由良に嫁の貰い手がのうなったら、困りますで」

「のうならんわな、現にわしもちゃんと嫁いできた」

「ほんでも、いざ嫁にとなると、煙たがられることも多かろうと思います。おれやって、ここに来るときに、色々と反対されたんですで。本筋の子ではないけんど、一応名主の娘にあたるもんが、取り上げ女んとこの嫁になるんかというて…」

「ほれみろ、反対されたかもしれんが、結果ちゃんと嫁いでこれたやろうが」


 あっけらかんと言い放つウネを前に、雪は苛立ちを露わにした。誰のせいで、自分が不要な苦労をしたと思っていると言わんばかりだった。


「ご領主様に嫁ぐんでもなし、村ん中ならどっかしらには嫁にいける。おまんが今からそう心配することでないわ」


 苦虫をかみつぶしたような顔でこちらをねめつける雪の方を、ウネはあえて見ようともしなかった。

 自分がどんな思いでこの仕事を続けて来たのか、どれほど祈る思いでお産の場に臨んでいるのか、それらを説明したところで理解されるはずはないのだ。


 糸紡ぎの仕事はまだ途中だったが、雪といっしょにいたくなくて、ウネは草履をひっかけて裏戸から外へ出た。

 胸の燻りを一掃するように、ふっ、と短く強く息を吐くと、干していた梅の様子を見るため隠居小屋に引き上げようとしたとき、行く手を阻む様に、息子の平次が立ちはだかった。


「…なんじゃ。なんか用か」


 邪険に言い放つと、平次もむっと眉間の皺を深くする。


「今そこで、お雪と話しとるのが聞こえてきたんやが」

「うん。ほれがどうした」

「もう川向こうへは由良を連れて行っとらんというんは、ほんまやな、かかさま」


 念押しするように言って、平次が一歩ウネに近づき、声を落とした。


「実はな、名主様が、由良の縁談について考えておいでるらしい。相手はだれやと思う? 佐一さとこの倅の、源助じゃ」

「…源助?」


 平次は身を乗り出し、ぽんっと手を叩いた。


「ほうじゃ、源助じゃ! あの源助じゃぞ!」


 息が上ずり、言葉が転がり出る。


「あいつは頭がええぞ! きっと若衆の頭になるで! 神事も誰より早う仕切るし、年寄りもあいつに従うんやもん! なあ、こんな男そうはおらんぞ。名主様がこの間の寄合で惚れ込みないたんじゃ。山で由良を助けたあの一件もあるし、この上ないええご縁じゃで!」


 この吉報にもウネがぴくりとも表情を変えず、死んだ魚のような目でこちらをねめつけているのが、平次の気に障った。


「かかさま、嬉しゅうないんか。可愛い孫娘の相手が、あの源助やぞ。相手として不足がないどころか、もったいないくらいの縁談じゃ」

「……この話、由良には?」

「まだ言っとらん」


 ウネは安堵したように胸を撫でおろすと、平次をきっと睨み据えて身を乗り出した。


「…山であの子を助けとくれたのは、源助でない。あの男は、外面だけいい偽物じゃ。名主さまに言って、断ったほうがええ」


 それを聞いた平次の顔が、みるみると焼けた鉄のように赤黒くなっていく。


「かかさままで、そんなこと…由良を山で助けたのは、あのエツの倅やと、そういうんか? あの、汚らわしい女の倅やと?」

「なんやって?」


 ウネは不快の色を露わにし、平次の肩をこつくように押しやった。唇を噛みしめ、怒りで小刻みに体を震わせている。


「平次、おまんが、ようそんなこと言えたもんじゃ。エツを弄んどったおまんが、ようそんなこと…!」

「弄んだって…」平次は母親の剣幕を前に、困ったように唇を突き出した。「かかさま、まだそのこと根に持っとるんか? 何べん同じこと言わすんじゃ、エツんとこ通っとったのは、俺だけでないで。村の若衆らはみんな行っとったし、エツやって、別に嫌がってはおらなんだしの」

「なんやと、おまん、もういっぺん、言ってみろ!」


 怒りに任せて何度も肩を押しやるウネになされるがままになっていた平次だったが、とうとう我慢できなくなり、そのしわがれた腕を掴んで、腕ごとウネの体を押しやった。

 その勢いでよろめき、糠漬けの壺にしがみついてなんとか踏みとどまったウネの背中に、平次の怒号が降ってきた。


「かかさまは、昔からほうじゃ、息子の俺より、あんな素性の知れん女の方を大事にしなれる。昔おまんから言われた言葉、今でも覚えとるぞ。俺なんかを生まなえかったと、言いないたんな。そんなひどいこと、よう言えたもんじゃ。おまん、それでも人の親か?」


 その言葉に頭を押さえつけられたように、ウネは腰を曲げたその体勢のまま動けなくなった。

 今、息子を振り返ることができなかった。

 怒りに任せて言ってはならない言葉を投げたあの日の顔――怒りと失望と、とてつもない大きな寂しさが、あどけなさの残る顔の上で混濁していた、その顔が、今自分を見下ろしているような気がしたから。


「かかさまには、もうこの話には立ち入らせん。由良が十五になったら、この話、進めさせてもらうでな」


 当てつけのように言い放って、平次はウネに背を向けて去って行った。


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