祟りを鎮めるもの
きぃん、と、鋭い耳鳴りがして、視界がぼやける。蟀谷が心の臓の鼓動に合わせて鋭く痛む。
記憶違いだろうか、いや、そんなはずはない、自分はあの娘を、確かに龍神様にお渡ししたはずだ。
あの口元からのぞく特徴的な白い八重歯、気の強そうな二重の大きな目、薄い眉――すべての造形の詳細が一致する。
(…なぜ)胃の奥から、むかむかとした感情とともに喉の奥までさかのぼってくるものがあった。(なぜ、まだ生きている…?)
凪は口元を手で押さえ、近くの樹の根元まで倒れ込む様にして走るや、今しがた食ったばかりのものをすべて吐いてしまった。
「――あのぅ、もし…」
後ろからの声に振り返ると、一瞬、子供かと見紛うばかりの小さな初老の女人が、凪を見下ろしていた。
「凪様に、ございますかな」
名前を呼ばれ、凪は袖で口元を拭いながら立ち上がった。
向かい合って立つと、やはり女人は小柄で、凪の胸ほどまでの背丈しかない。ただ背のわりに恰幅はよく、まあるい体に羽織を何枚も重ね、冬でもないのに首に襟巻をぐるぐると巻き付けたいで立ちは、福良雀さながらだった。
髪をきゅっと結い上げ露わになっている綺麗な富士額の下で、開いているか閉じているか分からぬ豆粒のような目をしばたかせている。襟巻に半分隠れている顔色は血色が悪く土気色をしている。
「これはどうも、お富様」
深々と頭を下げられ、お富と呼ばれた女人はえっと声をあげる。
「わしのことを、知っておいでる?」
「お顔だけは。お話するのは初めてでございますね、名主様の奥方でございましょう」
お富は、襟巻に顔を埋めるようにして頷き、そのまま思いつめたように俯いて黙ってしまった。
「……有馬様なら、もうじき朝のお勤めに出ておいでると思いますけんど」
「いんえ」と、お富は凪の言葉を遮るように言うと、あたりの様子を気にするように見回してから声を落とし、「有馬様でのうて、おまはんに会いに来たんじゃ」
「…わたしに、ですかな」
「ほうです、この間の凶兆のことで、心配で心配で、夜もよう寝れんのです。この前の有馬様のご祈祷では、なんや足りんような気がしての…」
言いながら、なおもあたりを気にして落ち着かないお富を促して、凪は木立の影へと場所を移した。
「実は、去年の秋に、わしが懇意にしとる諏訪の易者様がおいでての、占ってもらったところ、やはり近いうちに、なにかしらの凶事があると言いないて…」
血の気が引き切った顔を怯えるように襟巻に埋めるお富を、凪は冷ややかに見下ろす。彼女の占い好きは界隈でも評判だった。各地に馴染みの易者や陰陽師くずれがおり、暇さえあればその者らに占ってもらっているらしい。
「有馬様が言いなれるように、あの川向こうのエツという女が、御池にお百度を踏んだことが元凶なんかえ? ほれなら、あの親子を殺めてまえば…」
「いんえ、お富様」
凪は思わず、お富の剣幕を宥めるように手をあげる。
「そもそも、お百度自体が龍神様の逆鱗に触れたんなら、エツは今頃生きてはおらんでしょう。あまつさえ龍神様はあの女に子を授けないたんじゃ、これがなによりの証です」
お富ははっとしたように豆粒の目を見開き、怪訝そうに眉根を寄せた。
「…ほんなら、なにが元凶やというんやえ」
「まんだ、分かりませぬ」
「なにを悠長なことを」
どこか、他人事のように言う凪に対し、お富は苛立ちを露わに声を荒げた。
「とにかく巫女様には、なんとしても、凶事を防いでもらわんと困る」
「もちろんでございます。ほれで、お富様はどういて今日、わたしのところへ?」
えっと一瞬戸惑うお富に、凪はわざとらしく首を傾げてみせる。
「その内容なら、今日開かれる寄合で有馬様に伝えておくれたらええこと。ほんでも先ほど、お富様ははっきり、わたしに会いにきたと言いないた」
頭に血が昇って、お富は本来の目的を忘れかけていたらしい。言われて気づいたのかはっとして、一歩凪の方へと進み出ると、ぐっと背伸びをして耳打ちをするように、
「…わしは、有馬様を信用しとらん」
凪は即座に返答せず、震える小動物のようなお富の顔をじっと見据える。
「あの方が大巫女になられてから、日照りが続いたり洪水が出たり、毎年小さいとはいえ、何かしらの凶事が続いとる。作物もそう実らんし…きっと、あの方の祈祷がうまくいっとらんせいや。村のみんなも、陰で噂しとる」
「…ほれで?」
凪は自分でも白々しいと思われるほど、わざと無機質な声音で返した。が、その内心は面白くって仕方がない。あの姉巫女についての悪口は、今一番耳に心地よく、胸がすく思いがする。
「ほれで、おまはんに頼みに来たんじゃ。巫女様は故郷で、三べんも、神隠しに遭って戻っておいでたそうじゃの」
凪はお富に気づかれない程度にため息をつく。尾びれ背びれが付いてそういう話になっているらしいが、正確には三度口減らしで山に棄てられ、勘の良さを頼りに家に戻ってきただけの話だ。
「ああ…ほれが、なにか」
訂正するのも面倒なので適当に返すと、やはり、と一言、お富の顔がぱっと輝く。
「易者様が言いなれるには、この白山中宮にそういう巫女様がおいでると。その巫女様には神様がついておいでるから、かならず、災厄を防いでおくれるやろうと」
その瞬間、お富の背後に、渡り鳥の大群のように整然と隊列を組んだ村人が、自分にひれ伏している幻が閃いた。お富を取り込めば、芋づる式にその亭主である名主と、その影響下にある村人をも付いてくるかもしれない。
凪は思わず顔が緩むのをぐっとこらえ、大仰に頷くと、
「ここだけの話ですが、お富様、有馬様のご祈祷は効きませぬ」
「えっ」とお富は顔を強張らせる。
「まず第一に、御池への供物が間違っております。獣の死骸などで、龍神様の荒魂を鎮めることは叶いませぬ」
「…ほれなら、どういたらええんじゃ」
「人です」
「…人…」
お富の顔から血の気が引き、襟巻きを掻き寄せる手が小刻みに震えた。豆粒の目が、蛙のようにぎょろりと揺れる。その双眸を覗き込むように、凪はぎゅっと自分の顔を近づけ、念押しするように告げる。
「ほうです。祟りを鎮めるためには、それなりの代償を捧げねばなりませぬ」
凪は、言葉を発するごとに、冷たい水が肺の奥まで満ちていく感覚を覚えた。
「…わかった」凪に気圧されたように、お富は震える目を見開いたまま、小刻みに何度も頷く。「そのことは、わしがなんとか工面いたしましょう。そのかわり、どうか、どうか何卒、災厄を退けてくだされよ…」
「もちろんでございます」
凪が鷹揚に頷いてみせると、土気色をしていたお富の頬にはじめて血が通ったようだった。
頭をさげ、朝日に向かって去っていくお富の背中は、憑き物が取れたようにしゃんと伸びている。
その姿が鳥居の向こうに消える前に、凪は思い出したように呼び止める。
「お富様、ひとつお聞きしたいことが」
「…なんですやな?」
お富は追いかけてきた凪を訝し気に見上げた。
「お孫さんのことで」
「孫…? どの孫やえ?」
「ウネさとこにおる、孫娘じゃ」
ああ、とお富の目が、たちまち死んだ魚のように濁る。
「由良のことか。あの子は、うちの人がよそで作った娘の子で、わしとは血の繋がりはないんじゃ。うちの人は、たいそう可愛がっておいでるけどもね」
「ほうでしたか…由良…」
そうだ、たしかに千太もあの娘をそう呼んでいた。
「由良が、どうかしたんかえ?」
いんえと首を振る凪を、お富は不思議そうに眺めていたが、特にそれ以上はなにも訊いてこなかった。
「由良か…」
お富を見送った後、凪はぽつりと独り言ちる。
由良の顔を思い出したとたん、池の底から白い手が伸びてきて足首を掴まれた気がして、凪は思わず身をすくめた。再び、腹の底から突き上げるような吐き気を覚える。
それから凪は、十年前の自分の供儀をひとつひとつ順を追って思い出した。なにか手違いはなかったか、しくじりはしなかったか、特に、重しを括り付けてからを入念にたどる――縛り上げる際に自分の指に食い込む縄の感覚…あの子を沈めた時の鈍い水音…。
しかし何度記憶を遡っても、あの娘はたしかに、池の底に沈んだというところに帰着するのだった。
(あの娘…いったいどうやって生き延びた…?)
凪の背中を一筋の冷たい汗が撫でていった。




