凪の記憶
有馬の部屋を辞して自分の部屋に帰る道すがら、凪はさんざん心の中で姉巫女を罵倒した。
古来より、祈祷に身命を賭するのは神に仕える者としての責務ではないか。その覚悟もなくして有馬は大巫女として散々村で権勢を振るい、あまつさえ崇められもしているのだ。
凪は腹立たしさで、音を立てて奥歯を噛みしめる。
(…とはいえ、わたしもついかっとなって、へまをした。あれでは、結局、有馬様の思うつぼじゃ…)
くさくさとしてまっすぐ部屋に戻る気にもなれず、外に出る。
春の夜風が、血が昇り火照った体を多少なりとも冷ましてくれた。
上空は風が強いのか、雲がかなりの勢いで流れて行き、時折細い月が顔をのぞかせ、わずかばかりに足元を照らした。しかしそれ以外は、濃厚な闇があたりを取り囲んでいる。
風で揺れる樹々の騒めきの合間を縫って、鵺が鋭く鳴く。まるで人の子のように高い耳障りな声で、自分を責めているように。
思わず耳を塞ぐと、凪の立つ境内を取り囲む森、その奥の暗闇が、ぐにゃりと不自然に歪んだ気がした。すると、背中が湯だまりにでも浸かっているように、次第に温くなり、同時に湿った土と苔の匂いが鼻腔に満ちた。
今、凪は、過去の記憶の断片の中に立っていた。
眼前に迫る森は白山中宮の森ではなく、夜叉ヶ池へと続くあの鎮守の森へと変わっていた。
地表を突き破って張り巡らされた太い樹木の根を越え、わずかな月光を頼りに御池を目指す自分の荒い吐息が、耳の奥でこだまする。
背中には、背負う幼子の温もりが生々しく蘇る。
そうだ、幼子はまだ生きていたのだ。病で、もしくは、口減らしのため捨てられて瀕死の状態ではあるが、まだ生きていた。当然だ、自分はそういう子供だけを探し、見つけては、御池まで運んでいたのだから。
過去と現在が混濁する中で、凪は確信する――やはり龍神様への供物は、生きたものでなければならない、しかも、人間でなければならない。
再び立ち返った回想の中で、凪は御池にたどり着く。
懇ろに祈祷を捧げると、岸辺の杭に繋がれた小舟の縄を解いた。
水面は風もなく、漆を流したように黒々と沈黙している。櫂を押し入れるたび、深いところで何かが軋むような音が立つ。
池の中央に差しかかると、凪はゆっくり石を幼子に抱かせるように置き、縄を回した。子の胸はかすかに上下している。
凪の指先に、あたたかい息がかかる。
「……龍神さまにお渡しします」
祈りの言葉が自然と口をつき、声が震える。胸の奥をじわりと熱が満たし、耳の奥で鼓動が強く鳴る。
凪は目をつむり、石ごと幼子を抱えあげ、静かに水に滑らせた。
水面が小さく裂け、やがて閉じ、何事もなかったように黒に沈んでいく。
鵺の鋭い鳴き声とともに、白い腕が一瞬、月光に浮かび、消えた。
その光景を見届けながら、凪の手がひとりでに合わせられる。涙が頬を伝う。龍神に抱かれたような感覚が胸に満ち、体中を血潮が逆巻いているのを感じていた。
贄となった幼子たちの顔を、凪は今でも詳らかに思い出すことができる。
その時感じた高揚感とともに、彼・彼女らの顔を、ひとりひとり思い出しながら、凪は時を忘れて、境内で立ち尽くしていた。
そのまま、どれほど経ったか、気づくとあたりに靄が立ち込めている。
夜が明けようとしていた。
雲間から差す陽がわずかに空を裂いたその瞬間、凪はある一人の女児の顔を思い出した。
それが、昨日千太と一緒にいた娘の顔とぴたりと一致した。
鵺の声がふっと消え、樹々のざわめきも鳥のさえずりも、すべての音が遠のいた。凪はその静寂の中で、膝を抱えてうずくまった。




