贄の問い
がこっ、と、閂が外される音がする。
「もう、出てもええそうじゃ」
扉越しに、仲間の巫女の声がするが、それが誰の声なのかは分からない。
声の主は連絡事項だけ告げると、さっさと離れて行ってしまった。
扉の向こうの廊下を、足音が遠のいていく。
「…さて、と」
うずくまっていた凪は、やれやれといったふうにため息をつくと、そっと扉を押しやり、身をかがめて外に出た。
凪が押し込められていたのは、巫女たちの間で折檻部屋と称される宿舎の奥の埃臭い納戸だった。
もう日が落ちていたが、廊下が妙に明るく感じるのは、わずかにも月が出ているからか、それとも、納戸の中が暗すぎたせいか。おそらくその両方だろう。
うん、と伸びをして、丸一日縮こまって強張り切った体を伸ばすと、背中に鈍い痛みが走る。
ご祈祷をすっぽかした自分が何事もなく放免になることはまずありえないとは思ったが、今回は有馬の虫の居所が悪すぎた。
白山中宮に帰るや、棒でしたたかに打たれ、そのままこの折檻部屋に押し込まれた。
水も飯もなく一日すごしたので、食欲よりも喉の渇きの方が深刻だった。いや、その前に放尿がしたい。
それらひととおりの生理現象を満たすと、凪はやっとほっとして、有馬のもとを訪ねる勇気が湧いてくる。折檻部屋を出た巫女は、まず有馬に許しを乞わなければならない決まりだった。
折檻部屋とは反対側の廊下の奥にある有馬の部屋まで、凪は足音を立てぬよう、そろり、そろり、と向かう。向かいながら、さてまずはどう話しかけたものかと、姉巫女への切り出し方をあれこれと考える。
体は痛むが、棒で打たれたのは悪い事ばかりではない。直情型かつ激情型の有馬は、その怒りを一度余すところなくぶつけてしまえば、その後は急速に頭が冷えるのか、きちんと対話ができるまでに落ち着いてくれる。
有馬の部屋は暗い廊下の先からでもすぐに分かった。書き物でもしているのか、扉の隙間から漏れた光で、その前の廊下がほの明るく浮き上がってみえる。灯りのために貴重な油を使えるのは、有馬の特権だった。
「有馬様、凪でございます」
有馬の部屋の前で膝を折り、扉に手をかけ、返事を待つ。
「……入れ」
しばらくの沈黙の後、くぐもった声がする。
凪は息をとめて、扉を開けると、有馬はやはり書き物をしている。まだ五十路手前とは思えぬ総白髪の長髪が、灯の光を受けて輝いている。
有馬の部屋には白檀めいた甘い香が濃厚に漂い、凪はふらりと眩暈を覚えた。
ふらついた体を支えるために床に手をついた勢いで、頭を下げた。
「…有馬様、この度のこと、お怒りなのもごもっともにございます」
有馬はその言葉を断ち切るように、音をたてて筆をおいた。
「…お怒りもごもっともでございます? あの部屋から出てきて、わしに一番に言う台詞がそれかえ?」
言いながら、有馬がゆっくりとこちらを振り返る。
整っていて美しいが、蛇を思わせる目の奥から、鋭い光が凪を射抜く。
「おまんがここに来て、十と五、六年ほどになるかのうし。出来が悪うても、素直さだけが取り柄やったに、それさえ失うしては目も当てられんわな」
まずは、謝罪すべきだろうと言っているのだが、凪は毛頭謝る気などない。
「巫女があれほどおりましたらご祈祷はつつがなく運ぶと思い、わたしなりに考えて、すべきことをいたしました」
有馬の白い蟀谷が、ひくりとひとつ痙攣する。
「そのすべきことというのが、勝手に夜叉ヶ池に赴き、エツと千太をかくまうことやというんかえ」
「有馬様、何故、あの親子をそこまで目の敵にしなれる」
凪は垂れていた首をあげ、ぐっと背筋を伸ばして、有馬とまっすぐに対峙した。
「エツという女を、わたしもだいぶ前に見かけましたけんど、その美貌は息がとまるほどでした。妬ましゅう思われるお気持ちも、分かる気がいたします…」
一瞬だった。有馬が掴んで投げた硯が飛んだ瞬間、凪は反射で右腕を振り上げた。床に硯が重たい音を立てて落ちる。飛び散った墨の粒が顔と腕を伝い、襟と袖に黒い斑を落とす。
「おまん、なにかえ、わしがエツの容姿に嫉妬して、逆恨みしとると言いたいんかえ」
髪と顎から黒々とした墨を滴らせながら、凪は黙っていた。
(図星のくせに)
と、心の中でほくそ笑む。
エツという存在が、昔から彼女の逆鱗であることは、凪もよく知っている。
だが、今回村人たちを川向こうへとけしかけた理由は、それだけではない、と凪は踏んでいる。
村人たちの不安の矛先をエツと千太に向けることで、巧みに、彼らの目を彼女自身から逸らしているように見える。
「…出過ぎたことを、申しました」
凪は一旦下手に出て、床に額をつけて深々と頭を下げた。
「有馬様の言いなれるとおり、確かに、此度の凶兆の発端は、エツが夜叉ヶ池にお百度を踏んだことかもしれませぬな」
こちらに牙を剥いていた飼い犬が急に甘えて鼻を鳴らすような掌の返しっぷりに、さすがの有馬も辟易としたのか、部屋に満ち満ちていた怒気が収束していくようだった。
有馬は息をひとつ長く吐き、指先で机をとん、と叩く。
文机に肘をつき、気だるく体を凭せ掛けた格好で、その蛇のような双眸は、凪の動向を観察している。
「…有馬様、あの凶兆…白い蝶の群れは、ほぼ間違いのう、夜叉ヶ池の方から飛んで参りました。ほれで、わたしは昨日御池へと赴いたのでございます」
それについては勝手な真似をして、申し訳なかったと思っております、とお義理で付け加えてから、
「夜叉ヶ池に龍神様が封じられてからこの方、あんな凶兆はなかった…なにかが近づいてきているのを、わたしも感じております」
有馬は肯定もしなければ否定もしない。肘枕をした格好で、凪の言葉を待っているようだ。凪は、切り出すなら今だと思った。有馬の方にぐっと身を乗り出す。
鎮守の森で、鵺がひとつ鳴いた。
「有馬様、夜叉ヶ池へのご祈祷に、人を供してみてはいかがですか」
その瞬間、有馬の目に不穏な光が宿る。心の騒めきが、彼女の頬にかすかな震えとなって現れる。
「今に未曽有の凶事が起きるやもしれません。ほれやのに、龍神様への捧げものが、あんな目の濁った獣の死骸ではいけませぬ。わたしの故郷では、致命的な凶事の折には人が贄となるのが常でした。そうして、もっと大きな災厄を防いどったんです」
有馬は引きつった瞼をゆっくりと伏せた。それはまるで固い蔀戸を手で引き下ろすような人工的な動きだった。それから、有馬は肘枕を外して、その手を頭でも痛むかのように額に押し当てる。
「たわけが…人身御供などと、そんな言葉を簡単に口にするな」
弱弱しく呟きながら、有馬は眩しくもないのにぎゅっと瞼を引き結んだ。
「その昔は、ここでも凶事の折には人を供しとったと聞いたことがあります」
「ほうや、それを、わしらが長い年月をかけて廃したんじゃ」
「…有馬様が、でございますか」
額に当てた手の隙間から、有馬がこちらを睨みつけている。
「不安に駆られた村の者らは怖いぞ。そのうち、程度というもんが分からんようになって、ちょっとした災厄の前触れでも、おかまいなしに人を供するようになる。ほんで、手ごろなもんがおらんときには、わしらがその標的になる」
有馬の言葉が、床を這い、凪の喉元を掴んだようだった。
「わしがまだ幼い頃、そうして姉巫女らが御池に沈められるのを見てきた」
凪はすっと目を細める。
「それこそ巫女の誉れではありませぬか。姉巫女様方は命を賭して村を救われた。まさにそのための贄ではありませぬか」
凪の言葉の端々に、有馬の臆病さを軽蔑するような響きがあった。彼女には、今の有馬の言動が、まるで自分の命惜しさで凪を非難しているように映っているのだろう。
それもあながち誤りではない。
有馬は自分が可愛い。神に仕える者としての矜持もある。
だからこそ、一時の恐怖から冷静さを欠いた愚民どもに、不必要に贄とされるのはごめんこうむりたい。
どうせ命を使うのなら、ここぞというときに…かの暴れ竜を池に封じた、巫女・夜叉のように、後世に語り継がれるような最期にしたい。
「なんとまぁ、殊勝なことを言ったもんじゃ」
有馬は、凪を睨み据えたまま、口の端を引き上げる。
「そこまで言うんなら…今度災厄がおこった暁には、おまん自ら贄となって、この村を救ってみせよ」




