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夜叉ヶ池の子  作者: 七泉
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龍の封土

 有馬に呼びつけられた凪は、狩人に追われた兎のように、宿舎から飛び出してきた。


 こけしのような丸い顔をした童女で、手の甲で拭った洟がいつも鼻の下から頬にかけてへばりつきテカテカとしている。そこに冷たい風が当たるので、常に真っ赤に荒れて痛々しかった。

 数えで九つになる凪は有馬の遠縁にあたる娘であり、先月からこの白山社へ巫女見習いとして入ったばかりだった。祈祷の準備を命ぜられてお堂の方へと駆けていったはいいが、手間取っているのか、なかなか出て来ない。有馬は苛立ち、再び鋭く名を呼んだ。やがて、祈祷の道具を背負った凪が、肩で息をしてやってきた。


「遅い。たいした準備でもないに、なんでそんに時間がかかる」

「申し訳ありません、姉巫女様」

 有馬はこの呼び方が気に食わない。

「そう呼ぶなと何べん言ったら分かるんじゃ。わしのことはきちんと名前でお呼び」

「はい、申し訳ありません、有馬様」


 深々と頭を下げると、背負っている籠に隠れて、凪の体はすっかり見えなくなってしまった。齢九つというにはあまりに体が小さすぎる。どう大目にみても、六つか七つくらいにしか見えない。あらかた、口減らしに出したいがために、年齢を上乗せしてこちらへ寄こしたに違いなかったが、それで手加減する有馬ではなかった。


「もう九つやと聞いとるが、それしきのことでどうする。きちんとできんのなら、里に帰してしまうでな」


 叱りつけると、凪はさらに低く頭をさげて謝罪しながら、歩き始めた有馬のうしろにそっと追随した。

 

 集落を抜け、棚田を登りきると、トチの大木の脇に、石に彫られた一対の道祖神が祀られている。

 子供の姿をした道祖神は、そのまあるい頬を互いに寄せ合うようにして、柔和にほほ笑んでいた。凪は、自分とおなじような風貌の神様に顔を近づけ、まじまじと見ながら、つられたように口角をあげる。


「見てみい、村の方を」


 凪がいるからとて有馬は気遣って歩調を緩めたりなどしない。その歩について行くのに必死で周りを見ていなかった凪は、この時はじめて背を伸ばして有馬の指さす方を見やった。

 道祖神から村に向かって細長い畦道が伸び、猫の額のような斜面に沿って、所せましと小さな棚田がひしめいている。


「この棚田が切れるところまでが村の領域じゃ。そしてこの道祖神様を境に、外側は化外の土地となる」


 言いながら、有馬は村の方に背を向けた。

 凪は自分の豆だらけの足を見やる。ということは、今踏んでいるこの土地は、もう村ではないということだ。


「この先に、夜叉ヶ池があるんじゃ」


 道祖神が見つめる先には、生い茂る草木の中に、人ひとりがやっと通れる獣道が伸びているらしかった。


「行くぞ。おまんも巫女になるなら、夜叉ヶ池のことは知っとかねばならん。ここに祀られておる龍神様にご祈祷を捧げるのも、わしら巫女の重要な役目やからの」

「龍神様、でございますか」


 凪の背を越す雑草が顔にまとわりつき、足元の泥に草履が取られそうになる。それをかき分けながら、凪は夢中で有馬の背を追う。


「かつてこの地に人は住んでおらず、龍が住んでいた。その龍を、先々代のご領主様が封じ、この地を人の住める地に開かれたのじゃ。今から向かう夜叉ヶ池が、その龍が封じられたまさにその場所。龍が流した血が、池の水となったと言われておる。祟りを畏れた人々が龍を神として祀り、代々、我々巫女が祈祷を捧げ続けている」


 やがて行く手に鳥居が見えてきた。白山中宮社のものとは比べ物にもならないほど、ささくれ立ってみすぼらしい、簡素な鳥居だった。

 有馬はそこで祈祷の文言を唱え、鳥居をくぐる。

 その先は、凪が普段知っている村の近くの森とは、まるで植生が違っていた。太古のままの樹々が絡み合うようにして生え、陽光を遮り、あたりは薄暗い。苔むした巨岩の合間に顔をのぞかせるのは、地面や岩を割って地表に姿を見せた荒々しい巨木の根だった。

 有馬について行きながら、凪はどこか懐かしい気持ちになった。もっともっと幼い頃に迷い込んだ、飛騨の深い森とどこか似通っている。


「感じるか」

 前を行く有馬が訊いた。

「何を、でございますか」

「龍神様の、禍々しい恨みの気じゃ。ここらの森全体に、満ち満ちておる」

 凪の目の高さにある有馬の手首が、薄く泡立っていた。

「はい、感じまする」

 嘘だった。しかし、感じないと言ったら、どんなふうに罵倒されるか分からなかったし、何よりも、巫女の素質なしと断定され里へ戻されることを恐れたからだった。


「このわしでも、御池に近寄れば気分が悪くなるというに、あの女、よくもここへお百度になど通えたものじゃ」


 凪はその独り言の詳細を尋ねたものか一瞬迷った。

 巫女見習いとして有馬の世話役についてひと月あまり経つが、有馬が独り言ちる時は、それを誰かに吐露したい場合が多いのだ。かといって、むやみに訊くと、厚かましいと叱られるので、見極めが難しかった。


「あの女、とは、どなたのことでございますか」


 凪は思い切って尋ねたが、今回はこれが正解だったらしい。有馬はふんと鼻を鳴らして、


「川向こうに住まう、エツという女じゃ。エツの父親は癩やったんや。知っとるやろう、業病のことや。あの女自身も、生まれつき右の足首が曲がっておって、普通に歩けん。そういう血筋なんや。だから、神仏もエツに子をお授けにならなかった。ほれなんやにあの女、立場をわきまえず、浅はかにも、この夜叉ヶ池においでる龍神様に子宝祈願などをしよった」


 有馬は、前方を睨み据えている。


 ちょうど昨年の秋口頃だったか、有馬は、夜叉ヶ池へのお百度をやめるよう諭すため、川向こうのエツを訪ねたことがある。

 濃い秋の日差しの中で、エツは数日分の汚れ物を桶に詰め込み、無心でこすり洗いをしていたが、近づいてきた有馬に気づいて、顔をあげた。


 その、間近で見たかんばせに、有馬は息を飲んだ。


 丸みを帯びた瓜実顔に、まるで柔らかい細筆で描いたような眉がすっと伸びている。その先端と繋がる鼻梁の形の美しさ。白いふんわりとした肌に咲く、形の良い赤い唇。なにより印象的なのはその潤んだ深い鉛色の瞳だ。わずかに斜視が入っており視点が定まらないのが、余計に神秘的で蠱惑的な雰囲気を醸していた。有馬の目が、そのひとつひとつを貪るように追っていく。


 かつて自分が誇ったもの、いや、それを凌駕して余りあるものが、そこにあった。この、卑しく貧しく、足が悪く、村からも忌避されているような最底辺の小娘が、自分が望むすべてのものを保持している。その事実を前に、有馬は、戦慄を覚えるほどに狼狽した。その動揺が、有馬の口を強めたのは確かだった。突然訪ねてきた巫女にどう接してよいか分からず戸惑っている様子のエツに、有馬は夜叉ヶ池のお百度をやめるよう、過剰なほどに詰め寄ったのだった。


 ――おまんに子ができんのは、おまんの業の血を絶たねばならんという神仏のご意思じゃ。そのご意思に反して、よりによって龍神様に、あの邪神に子を願うとは、何事か。


 有馬の言葉に、エツは唇を噛んだまま黙りこくってしまった。

 やがてその体は小刻みに震えだした。

 顔面からはすっかり血の気が引き、目のぐるりは涙で濡れそぼっていた。そして、眉間にぎゅっと皺をきざみ、有馬を睨みつけたのだった。その狂気じみた恐ろしい顔に、有馬は息を飲む。本能的にひるみ、一歩たじろいだ。

 エツは何かを言わんとしたが、ぐっと唇を噛んでその言葉を飲み込んだ。じきに唇は紫へ変色し、歯が食い込んでその皮はやぶれ、血がにじんだ。まるで拷問を受けた咎人のような、凄まじい苦悶の表情だった。 

 気圧された有馬は、それ以上何も言うことができず、すごすごとその場を後にするしかなかった。

 吊り橋を渡ったところで振り返ってみると、エツはまだその場に立ち尽くし、じっとこちらを睨み据えていた。


「わしは間違ってはおらん。あくまで真実を言ったまでじゃ」


 凪はその呟きに首を傾げる。


「有馬様、今なんと?」


 しかし、凪の問いかけは有馬の耳には届かなかった。かわりに、昔エツに入れ込んでいた若衆の腑抜けた声が響いていた。


(ありゃあ、きっと人ではないですよ、有馬さま。それくらい、美しい女ですわい。透けて見えるほどに白い肌をしとって、触ると絹のようやで。ただのべっぴんとはわけが違うで)


 有馬が薄ら笑いを浮かべるのを、凪は横目でこっそりと盗み見る。

「いくら美しゅうても、エツは所詮、村の爪はじきもんじゃ」

 そう呟く有馬の耳には、また別の村人の声が再生される。


(エツの母親はの、あれを産むときに死んでしまったんじゃ。ほんで、父親が病になって村を出てからは、家に残っておった叔父が育てとったらしいです。その叔父さがの、年頃になったエツを、慰みもんにするようになったらしいですわ。足ひきずって逃げとるエツを、見かけたもんがようけおります。そんとき、エツはどうやら、夜叉ヶ池の龍神様んとこに隠れとったらしいですよ。ほういてしばらく経った頃、その叔父さの姿が見えんようになった。エツは、風気こじらして死んだんやと言っとったがな…。ほっとに、風気ですかいの)


 風気なものか。きっと、あの女が殺したのだ。龍神様に頼んで、呪い殺したに違いない、そう有馬は確信していた。


 凪はもう、なにも訊こうとはしなかった。

 なおもぶつぶつと独り言ちる有馬の背中を、ひたすら追いかけることに集中した。

 

 そうしているうちに、鬱蒼とした森が開け、夜叉ヶ池の湖畔に出た。

 水際に立つと、春先の爽やかな風が水面を揺らしながら吹いてきて、凪の小袖の袖からふわりと衣の中を抜け、汗ばんだ肌を撫でていった。


「気持ちのええところですね。おそがい神様がおいでるなんて、信じれん…」


 思わず凪の口をついて出た言葉を、有馬は聞き逃さなかった。振り返りざまにきっと睨まれて、凪は畏縮して肩を聳やかす。


「はよう、ご祈祷の準備をせんか」


 凪は慌てて背負っていた籠を下ろすと、中から布に包まれた温いものを取り出し地面に置いた。

 布を解くと、首を折られた肥えた鶏の死骸が草地の上に露わになった。有馬の指示に沿い、板の上に鏡と翡翠細工があしらわれた刀、そして鶏の亡骸を淡々と並べ、即席の祭壇をこしらえていく。


「捧げものが死んだ鶏でええなんて、ここの龍神様はお優しいんですね」


 鶏の死骸を祭壇に並べながら、凪が独り言ちるようにそう言った。

 有馬は、ちらと凪の背中を見下ろし、


「今はまだ…それで済んでおるからええがの…」


 と呟いただけだった。

〈参考文献〉

横井清.中世民衆の生活文化〈上〉.講談社学術文庫,2007

福西征子.語り継がれた偏見と差別: 歴史のなかのハンセン病.昭和堂,2017

中山太郎.日本巫女史.国書刊行会,2012

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