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母の影

「ウネさは、おれのととさまの後妻に入るつもりでおいでたんやね」


 エツが、ぽつりと呟く。その声は、まるで娘の頃に戻ったように儚げだった。


「むかし、叔父さから聞いた。ウネさがおれら爪はじき者の家に、ようしてくれとるのは、後妻に入らなんだことを…村での暮らしを選んだことを、悔いておいでるからやって」


 日が中天へと向かい動くにつれ、ウネとエツのすぐ足元まで伸びていた陽光が、徐々に、洞の入口の方へと後退する。それとともに、うつむくエツの瞳からは、少しずつ、光が失われていく。


(やっぱり…知っとったんやの…)


 ウネは喉の奥が熱く焼けるようだった。

 思わず声が出そうになるのを押しとどめて、エツの言葉を待つ。同時に、身構えもする。今ここで、自分の偽善を糾弾されても致し方ない、いや、むしろ一思いに罵ってもらったほうが、楽になるかもしれない。そんな諦観にも似た気持ちだった。


「それを聞いたとき、合点がいった。なんで村の者らから後ろ指刺されながら、いつもおれらを気にかけとくれるんか…ああ、ほうか、ウネさは今、罪滅ぼしをしておいでるんじゃ、ほれで、ちぃとでも楽になりとうて、来とくれるんじゃ、と…。ほうやで、ウネさに甘えんように、うぬぼれんようにと気を張ってきた…寂しゅうて、辛かった…けど、それを口に出すことすら、ようできなんだ」

「…エツ…」


 背を預けている冷たい洞の壁を通して、隣にいるエツの震えが伝わってくるようだった。


 幼い頃から、エツはほとんどわがままを言ったことがない。ウネに対しても、どこかよそよそしかった。流れ者の藤六と夫婦になると言った時に反対できなかったのは、ほとんど初めて、彼女が自分の願望を口に出したからだった。

 そしてもうひとつ、彼女が村から――自分から、距離を置きたがっているということを察知したからだった。


「…ウネさ、さっき、過ぎたことを悔いとると、言いないたけんど…おれやって、悔いとるんじゃ。いじけた、穿った目でしか、ウネさを見れなんだこと…。おれのために、あんなことまでしたお人を…おれは…」


 その後はもう、言葉にならなかった。エツとウネは、しばらく手を握り合い、声を殺して咽び泣いた。


「エツや…」


 ウネはエツの骨ばった背を掌に感じながら、その頭をそっと、何度も撫でた。

 抱きしめるエツの吐息の熱さが、胸元に染みていく。


「今からでも…わしを、おまんのかかさまにならせておくれんやろうか。差し出がましい願いやとは分かっとる。おまんを捨てたも同然のことをしたわしを、許いてくれとはいえんけども…」


 エツはまるで幼子のように、ウネの背にしがみついた。


「…ウネさ。わしは、ほんとうはずっと――おまんが欲しかったんや」


 掠れる声が、胸の奥から零れ出す。


「けど、口に出すことすらようできなんだ。おまんにすがれば、嫌われてしまう気がして…」


 むかし、村を歩いているときに見かけた、軒先の母子を思い出す。

 母親とその腕に抱かれる赤子に抱いた劣等感と剥奪感、自分が知らない温もりへの強烈な羨望と嫉妬。

 そのとぐろを巻いた感情がもつれ生みだした渇きを満たすために、自分は藤六と夫婦になり、子を求めて夜叉ヶ池へと通った。あの温もりが、どうしても欲しくて。どうしても、愛されたくて。


 ウネの、お日様と草木の混じった体臭が、彼女の胸に押し付けたエツの鼻腔を抜けていく。

 最期まで自分を見てくれなかったという藤六の言葉が耳朶に蘇って胸を刺した。

 自分は、ウネからも目を背け続けてきたのだ。ずっと求めてきたものは、ここにあったのに。



「――…かかさま」


 そのとき、洞の口の方から、聞きなれた声が自分を呼んだ。

 エツはぱっと顔をあげ、後ろを振り向く。外界の光を背にして、洞の口から、千太と由良が覗き込んでいる。


「千太、ここや」


 エツが声をあげると、千太と由良はほっと表情を緩めて顔を見合わせ、洞の中へと入ってきた。

 入口に勾配があるので、まず千太が降り、由良の方へと腕を伸ばして抱きかかえるようにして下ろしてやる。その様子を、エツは食い入るように見つめている。


「えかった、無事やったか」


 エツは声を詰まらせながら、目の前に腰をすえた千太の手を握り締める。


「由良、よう千太をここまで連れてきとくれたの」


 孫娘に、ウネは誇らしげに労いの言葉をかける。

 照れ臭そうにはにかむ由良の足が腫れあがっているのに、エツが目を留める。こんな足で、千太を呼びに走ってくれたのかと思うと、エツは胸が引き裂かれる思いがする。


「ほれで、道中どうもなかったか。村のやつらに会わなんだか」


 ウネの問いかけに、千太は首をふった。


「御池からすぐここまで来たもんで、今、家の方がどうなっとるかはわからん。でも、凪様が日暮れまでにはなんとか事態を治めてくれると言いないて」


 ウネが怪訝な顔をする。


「…凪様、いうたら……有馬様の妹巫女かいな」

「はい、前に御池で見かけたとき、有馬様のお付きのようなことをしておいでた」


 千太の答えに、ウネは眉を曇らせる。


「…ほんでも、俺の味方やと、そう言っておくれた。有馬様のことを、よう思っておいでんようやったし…」

「千太、おまん、その凪とかいう巫女様と知り合いなんか?」


 横から、エツが強い口調で問いただす。


「うん、まあ、ほうや。冬が来る前に、御池で会って、握り飯をくれたりした」

「握り飯をくれたからってなんや。おまん、そんなもんでやすやすと気を許いて…」


 身を乗り出すエツの剣幕を宥めるように、ウネがその肩に手を置く。


「まあ、落ち着け。わしの知る限り、有馬様の付き人をやっとったのは、凪様がもっと小さい頃の話じゃ。今は確かに、いっしょにおるところをあまり見かけん。有馬様も癖の強いお人やでの、ふたりの間に亀裂があっても、不思議ではないわな。ほれで…」


 ウネの灰色がかった瞳が、千太をきっと見据えた。


「ここに隠れとることは、凪様は知らまいな」


 千太はどきりとした。


「…いや、分からん。由良と話しとるのを、聞かれたかもしれん」


 そう告げるや、ウネはさっと立ち上がると、注意深い足取りで洞の入口に近づいていった。右手には、小刀が握られている。

 そっと入口から外を伺うウネの様子を、奥の暗がりからさんにんが不安そうに見つめている。


「……ウネさ、凪様は、そんに信用できんお人なんか」

「いや、わしにも分からん」千太の問いに、外に目を光らせながらウネが答える。「何人もおいでる巫女様の中で、凪様は目立つ存在でなかった。いつも有馬様の影に隠れておって、わしら村の者も、ほとんど話いたことがない。ほうやで、その人となりは知らんのじゃ。知らん者は、とりあえず疑え、じゃ」


 まるでその言葉が、凪を全面的に信じた自分の意見を軽んじられているように聞こえて、千太はむっとする。

 その隣で、青ざめた顔でうつむいている由良に、エツは気が付いた。


「…由良、どういた。足が痛むかえ」


 えっと由良は顔を上げる。咄嗟に、手で腫れた足を隠すように覆うと、

「いんえ、どうもないです」

 と首を振った。


「…おおきにな。そんな足で、うちの千太を呼びに行っとくれて、おおきに…」


 暗がりの中でも、エツの美しい瞳に見つめられると、由良はどぎまぎしてしまった。いんえ、と弱弱しく首を振り、またうつむくしかなかった。



 ウネの心配をよそに、洞まで村人が押しかけて来ることはなかった。

 日暮れ間近になって、こっそりと家に様子を見に行ったウネが、そこに誰もいないことを確認し、エツと千太を家に戻した。


 凪が事態を治めてくれたのか否か、その場にいなかったので真相は分からなかったが、結局は、彼女の言うとおりになったのだ。


 エツと千太に別れを告げ、由良といっしょに帰る道すがら、ウネはしかし、心にもやもやとしたものが垂れこめているのを感じた。


 吊り橋を渡り終えた時、「由良」とウネが呼ぶのと、「おばばさま」と由良が呼ぶのは、ほとんど同時だった。


 一瞬の沈黙の後、由良の方が身を引き、ウネに発言を促す。


「…おまん、さっき洞へ来る前に、凪様と会ったかえ」

「うん、会った」

「どんなお人やった? おまんの感じたままでええで、話いてみ」

「どんな…歳は、二十そこそこくらいやろうか。背格好はそんにこれと言って目立つところはのうて、髪が長うて、丸顔で、黒目が大きい…」


 そこまで言って、由良は口を噤んでしまった。


「…どういた?」

「いんや…あの…」


 少しの間口ごもっていた由良が、次に発した言葉は、「怖い(おそがい)」だった。


「おれ、あの目が怖い(おそがい)。なんやしらんけど、目が合うと寒気がする」

「そんに、鋭い目をしとるんかえ」

「ううん、そうでないの。丸っこくって、可愛らしい感じや。ほんでも、おれはなんでか、あの人と目が合うと寒気がする。あの目を、むかしどこかで見たような気がする。でも、思い出せん」


 由良は、帰り際にエツから借りた予備の鹿杖にしがみつき、怯えたように肩を聳やかしている。


「むかし…どこかで…?」


 ウネは、なにかどす黒い汚いものを、胸に手で擦り付けられたような、嫌な気がした。


「…あのあと、川を渡ってきたやつらはどうなったんか、村に帰ったら探ってみんとな。ほんで、凪様のことも…」


 ウネはしかし、由良の顔が真っ白に固まっているのを見てとると、そこで言葉を切った。

 代わりに、ぽんと手を叩いて強張った空気を断ち切るや、道端にしゃがみこんだ。


「おぉこりゃあ、こごみじゃ。帰って煮て食おまい。今日は朝からなんも食っとらんで、おまんも腹が減ったやろう」


 由良の腹が、その言葉に反応したようにぐうと鳴る。

 思わず照れたように吹き出した由良を、ウネはほっとした顔で見上げた。


「おばばさまが言うもんで、急に腹が減ってきた」


 由良も足をかばいながらウネの隣に腰を下ろし、夕焼けを受けて橙色に染まるこごみをいっしょに採り始める。


 並んでこごみを採りながら、由良はそっと、ウネの横顔に目をやった。


「…おばばさま、エツさと、なんかええことあったんか?」


 ウネは頷く代わりに、皺が刻まれた目尻を細めてほほ笑んだ。


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