凪と影
凪に家に戻る様に言われ、道祖神のところまで駆けてきた千太の耳が、自分を呼ぶ声を捉えた。
棚田の下の方から聞こえる。見ると、扉のつっかえ棒にすがりつくようにして、由良が坂を上ってくる。
「――由良⁉」
千太の顔を見るや前のめりに倒れ込む由良を、慌てて支える。
「…えかった、会えた…」
今川から上がったかのように全身汗で水浸しにして、由良は千太の肩にすがるようにして、喘ぐように息をしている。地面に投げ出された左足首が、膝と同じ太さにまで腫れあがっている。
「由良、足が…!」
「そんなことええんじゃ!」
足に触れようとした千太の手を、由良は眉根を寄せて払いのけるようにして、由良は千太の袖を掴んで、きっと見上げる。
「兄さ…今、家に、帰ったらいかん! ご祈祷の後に、村の一部の人らが川向こうに行くと騒いどるんを見て――」
由良はそこで息を切らし、咳きこんだ。
「まずいと思って、おばばさまと知らせに来たんじゃ。おばばさまは先に家に向かった。朝やし、兄さは御池にお参りに来とるかもしれんと、おれはこっちに…」
よかった間に合って、と、目に涙をにじませる由良を、千太は思わず抱きしめる。
「おおきに、由良…おまんは命の恩人じゃ」
ぱっと体を離すと、千太は少し頬を赤くしている由良をじっと見つめた。
「ほれで、かかさまは今どこに?」
「…うん、烏帽子山の洞ん中じゃ」
「……え」
千太は、思わず乾いた声がでる。
「そう言えば、兄さは分かると、おばばさまが…」
千太は由良の肩を握ったまま、何かを躊躇するように固まってしまった。由良がどうしたのか問いかけようとした、そのとき、
「やれやれ」
茂るススキの穂の影から声がしたと思うや、穂を掻き分けて凪が姿を現した。
「もう、川を渡って来たか。せっかちな村人どもめ」
「…凪様」
由良はえっと声をあげて、千太と凪の顔を交互に見やる。
(この人が、兄さが前に言っておいでた、凪様…)
以前名前を聞いたとき、凪の顔は知っていると思っていたが、由良の思い違いだった。ずっと白山中宮にいる巫女なのだろうが、まるで初めて見る顔だ。否、そうでもない、初めて見るようで、由良はあの目を知っている。
黒い、光のない瞳。
ずいぶんと昔に、夢の中で、あの目に見つめられた気がする。
息を詰まらせながら見つめる先で、凪はふっと視線をこちらに投げてよこした。その黒目の多い目が針のように由良の身体を貫き、そのまま壁に留めてしまったように、彼女は動けなくなる。
(…怖い…)
身体を覆う汗が急激に冷えていく。力が抜け落ちそうになるのを、歯を食いしばってなんとかこらえる。その様子にふと気が付いた千太は、
「どうもないで由良。この人は、ええ人じゃ」
「ええ人…」
と凪は千太の言葉を反復し、少しこそばゆそうにふふっと笑う。
「千太、おまんの家に向かっとるやつらは、わたしが何とか説いて村へ帰す。少し時間はかかるやろうが、日没までにはなんとかしよう。暗くなるころまで身を潜めておってから、母上を連れて家におかえり」
千太は深々と凪に頭を下げる。
「おおきに、凪様」
「前にも言ったろう、わたしはおまんの味方じゃ」
凪はくるりとふたりに背を向け、長い黒髪を揺らしながら、千太の家の方へと歩き出す。と思うと、ぴたりと足を止め、顔だけこちらを振り返った。その目は凪に留められている。
「おまんは、ウネさとこの孫かえ」
「え?」と由良は思わず声が裏返る。「はい、ほうですけんど…」
「やっぱり」凪は目を半月型にしてほほ笑んだ。「よう、顔が似ておいでる」
その、ともすれば人懐こくも見える凪の笑みに、しかし、由良は背骨の奥から冷たいものが這い上がり、喉に氷の玉を押し込まれたようになった。
血の気が引いて、また、ふらつきを覚える。咄嗟に体を折って倒れるのを堪えたが、それをおじぎと見て取ったのか、凪も軽く会釈をして、棚田の先へと消えていった。
凪が見えなくなると、由良は止めていた息を一気に吐き出し、まだどきどきとしている胸を抑えて呼吸を整えた。千太はその背をさすってやりながら、訝し気に眉根を寄せる。
「どうもないか、由良…どういたんじゃ、いきなり」
「…兄さ、あの人が凪様かえ。おれ、あの人苦手じゃ。なんか怖い」
「うん、俺も初めて池で目が合った時は怖かったけどな、今は、不思議と信じられるんや。なんでかしらん、俺のこと気にかけとくれて、味方やと言っとくれるし」
「…ほうかえ。兄さがそう言いなれるなら…」
口ではそう言いつつも、由良は震えがとまらず思わず襟をかき合わせる。唇が乾き、舌先で何度も濡らさずにはおれなかった。
「さっき、烏帽子山の洞のこと、あの人に聞かれたかもしれん。まさか、村の人らを引き連れてそっちに来たら…」
「そんなこと…」
千太は、疑り深い娘だと半ば呆れかけながらも、実際にその状況を想像すると空恐ろしくもなり、
「とにかく、おばばさまにこのことを伝えに行こう! 由良、俺の背にしがみついとれよ、走るでな!」
千太は由良を背負い、烏帽子山へと駆けた。




