隠れの洞
戸口の向こうの異様な気配に、エツは咄嗟に身構える。急いで土間に降り、這うようにして勝手場に向かうと、壁に掛けられている刃物に手をかけた、その時、
「エツ、わしじゃ!」
その声に、エツは刃物を握ろうとしていた手を緩め、腰が折れたように土間に崩れ落ちた。
「ウネさかえ」
声が震えている。
「すまん、腰が抜けて…どうもないで、入ってきとくれ」
言われて、ウネは戸を開けるや、机に手をかけてへたり込んでいるエツのもとへと駆け寄った。
「驚かしてすまなんだの」
と、エツを抱えて起こそうとするウネの声もわずかに震えていた。汗がとめどなく流れているのに、顔からはすっかり血の気が引いている。
「エツ、今すぐここを出て、どこかに隠れよまい」
「…え?」
「おまんは知らんやろうが、昨日、村に白い蝶が群れて飛んできての。それを祟りの兆やと村の者らが騒ぎ立てとる。やつら、どうやらその元凶はおまんらのせいやと思いこんどるようや」
「白い、蝶…?」
エツの目の裏に、あの夢が生々しく再生される。と同時に、鍬や鎌を持った村人らの黒い影がよぎり、背筋が泡立つ。
「そんなたわけたことを、よりによってあの有馬様が言い出したもんで、すっかりみんな信じてまっとる。ほれで、今、そいつらがこっちへ向かってきよる」
さあ、急げと、ウネは鹿杖をエツの脇に挟み込み、もう片方の腕を自分の肩に回して立たせると、裏口からおせどを横切って烏帽子山へと引っ張っていく。
「…ウネさ、待っとくれ…坊が…千太が今、御池にお参りに行っとる…」
「あの子のとこへは由良が知らせに行っとる。おまんはまず、自分のことだけ考え」
「…由良が…」
エツはこんな状況下の中でも、自分の胸にいびつな歪みが生じるのを感じた。しかし、掻きむしられるような胸の騒めきは、目の前に洞が見えてくるや、別の感情に上書きされたように見えなくなる。
「ウネさ、待っとくれ!」
エツは立ち止まり、まるで悪戯をしたお仕置きに土蔵へと連れて行かれるのを拒む子供のように、自分の手を引くウネの手を引き剥がそうとする。
「いやや、隠れるというても、ここだけはいやや!」
「たわけ! そんなこと言っとる場合でない!」
ウネは一喝すると、問答無用でエツの手を引く。まるで火事場の馬鹿力だ、ウネの老いて萎れた腕からどうしてこんな力がでるのか、エツの抵抗などもろともせず、洞の中へ引きずり込まれる。
そのまま洞の奥まった暗がりまで連れて行かれて、並んで腰を据える。
エツは震えが止まらない。藤六の気配が…そして、迫りくる幼い頃の記憶が全身の皮膚を撫でていく。
エツの肩を抱くウネにすがるように、エツはその襟元に顔を埋めた。
「ここは、藤六さがおいでた場所じゃ。ほれに…若い頃、おれがいつも隠れておった場所…」
エツは、外界に開けた洞の口の方をちらと見やる。飢えた獣のような叔父の顔が、そこからぬっと覗いてくるような気がして、エツは怯えたようにウネにしがみついて、その袖をぎゅっと掴んだ。
「…どうもない、どうもない。藤六さは、もうここにはおらん」
ウネがエツの背をさすりながら諭すように言う。
「…ここには、おらん」エツが自分に言い聞かせるように反復する。「おれが…あれを飲ませたから…」
「叔父さも、もうおらん」
「うん…もうおらん」
エツはおそるおそる顔を上げた。闇の中で、外からのわずかな光を受けて、ウネの灰色がかった瞳が怪し気に輝く。その瞳に、エツは、瞬きをも忘れて吸い込まれていく――ウネの瞳の輝き、この洞の暗さ…湿り気を帯びたカビのような匂い…冷ややかな空気…今五感に感じるこの場のすべての感覚が、否応なく、エツの意識をあの日の洞へと引き戻す。
あの日、エツを苦しめていた叔父が消えた日へと。
エツの脳裏には、その日の記憶が鮮明に蘇っていく。
目が痛むような夕焼け、そして、洞の中まで響いてくる、蜩の声…。
あの時、その気を起こした叔父から必死の思いで逃げて来たエツは、ここに身を隠し、息を潜めてすすり泣いていた。叔父に見つかれば、またどんな辱めを受けるか、想像するだけで恐ろしくてたまらなかった。
そのまま日が落ちても、そこから動けずにいた。いつまでもここで身を隠していられるはずがない。いつか獣の餌になるか、そうでなくとも、飢えて死んでしまう。それでも、叔父がいる家には戻りたくはなかった。
すがるように竜神の名を口の中で呟き、せまりくる闇の恐怖に膝を抱えて祈っていると、洞の奥から白く輝く蝶が一羽軽やかに飛んできてエツの右足のつま先にとまった。その瞬間、長年痛みに苛まれていた右足が、不意に軽くなった。
気づけば蝶は闇の奥へ舞い、エツはその後を追っていた。
暗闇に瞬く蝶の光を頼りに、壁をつたって洞の奥へ奥へと進んでいったエツの鼻を、ふいに、濃い水の匂いがついた。
洞を抜け出したところで、エツは息を飲んだ。
そこは、夜叉ヶ池だったのだ。
唖然として立ちすくむエツの視界から蝶が霧散するように消え、それと入れ替わるように、前方からぼんやりとした松明の光が迫ってきた。
近づいてくるにつれ、炎の灯に照らされたウネの顔が露わになる。
目を見開き、ほどけて乱れた髪が頬にはりついている。その顔面に飛び散っているのは、一瞬墨のように見えた。が、次の瞬間、体の芯を鋭利な氷で貫かれたような衝撃が走る。
ウネはエツを見るや、涙を頬に滂沱と流し、その場に崩れるように跪いた。
「…わしが、おまんの傍についてやっとったらと、悔いん日はない」
ウネは、エツの肩を抱く手に力を入れて、絞り出すように呟いた。熱い吐息に頬を撫でられ、エツは現実に引き戻される。
「ほうしたら、おまんを守ってやれたのに…わしは…」
洞の壁に、恨み節のようなウネの声が跳ね返る。
「今度こそ、なんとしてでも、おまんを守ってやるでな」




