祟りの兆
白山中宮に近づくと、境内に続く階段の下まで、村の者でごった返していた。
由良とウネは途方にくれたようにその様子を眺めてから、顔を見合わせる。
「…こりゃあ、おまんその足じゃ、上まではあがれまいな。ここで、ご祈祷させてもらおまい」
「境内まで行かんかったら、またととさまに叱れるかいな。村のみんなにも、罰当たりとなじられるかもしれんの」
「もしそうなっても、仕方ない。あがれんもんは、あがれんのんじゃ。足が痛むにここまで来たんじゃ、村の者らも分かっとくれるやろう」
「…おばばさま、おれのことはええで、おばばさまだけでも境内に行っとくれ。あとで何言われるか知れたもんでないもの。はよう、はよう」
歎願するように由良が言うのは、由良を庇って平次に怒鳴りつけられるウネを何度も見てきているからだった。祖母を巻き込みたくない一心で、由良は必死になって、ウネを境内の方へと押しやろうとする。それを分かっているから、ウネはしぶしぶ頷いた。
「階段の脇に座っとれ。ご祈祷が終わったら、迎えにくるでな」
そう言って、ウネは境内へと向かう人波の中に紛れて見えなくなった。
ぽつねんと座っていると、前を行く村人たちの奇異の視線に晒される。なんともいえない気まずさと心細さで、由良は顔を隠すようにうなだれていた。そのとき、
「おい、由良」
名を呼ばれて顔を上げると、そこには源助が立っていた。後ろには取り巻きのふたりと、他の大勢の子供らを引き連れている。その中には、お政の姿もあった。
由良は自分でも、たちまちにして顔が岩のように固く引きつっていくのを感じた。
「熱出いとったんやって? その足、まだ痛むんか。どれ、俺が上までおぶってってやるわ」
自分に向かって伸ばされた源助の手を、由良は乱暴に払いのける。
親の仇でも見るかのように、こちらを睨みつける由良の剣幕に圧され、源助は一瞬たじろいだように身を引いたが、その顔はみるみる赤く怒気を帯び、由良に向かって手を振り上げた。
その手が振り落とされるかと、由良はぎゅっと瞼を引き結んだが、村の者が大勢いる手前、さすがにそのまま殴りつけることは憚られたらしい、源助は怒りを吐息にのせて吐き出すと、
「おい、おまん、助けてもらった恩人に向かって、今の態度はなんや」
どすを利かせた低い声が降ってくる。
「恩人やって? 嘘じゃ、兄さは嘘つきじゃ」
胸の奥から声が迸った。由良は体の震えを抑えるために、両の手をきつく握りしめながら、源助を睨み返した。
由良の声があたりに響き、境内の向かう村人らが思わず足を止めて物珍しそうな目でこちらを見る。子供らは呆気に取られて立ち尽くしている。
一瞬水を打ったような静寂が垂れた。
「…おれは知っとる。兄さは手柄ほしさに、山でおれを助けたって嘘ついたんや。おれを助けてくれた人は、別においでるもの」
源助の脇で、喜助と与一が気まずそうに顔を見合わせている。
こちらを見下ろす源助の目が、たちどころに、罪人でもみるかのようなそれに代わった。赤土色の顔を歪めて、子供らの前で自分に恥をかかせた由良への恨みを露わにする。
「嘘つきはおまんじゃ、たわけ」
源助の鋭い大声に、後ろの子供たちだけでなく、まわりの村人らも目を丸くして振り返る。
「こいつ、頭おかしいんやないか。川向こうに通いすぎたせいかのう?」
源助が茶化すように周りを見回すと、男子らは笑って同調した。女子らは、軽蔑したように由良から顔を背けたり、気まずそうに目を伏せる者もあった。
「おい、由良。今言ったこと、俺にきちんと謝れや。それまで、おまんはもう子供組から外す。誰も口利かんし、遊んでやらん。ええな? みんなも、分かったな」
突きつけられた絶縁宣言の前に、由良は怒りで体が震えた。唾でも吐きかけてやりたい気持ちだった。しかしそれをする勇気もなく、境内へと向かっていく子供らの背中を睨みつけることしかできなかった。
子供らが行ってしまった後に、しかし、自分の前に伸びている影がひとつだけあった。不審に思って見上げると、お政がひとりその場に残って由良を見下ろしている。
「源兄の背中は断っても、あの門人には許すわけか」
お政は吐き出すように言う。
「…え?」
「見たで、昨日」お政は腰を折って由良に顔を近づけ、声を落とす。「おまんがあの千太におぶわれて村におるのんを」
その声は、低く湿った井戸底から響いてくるようだった。
「おまんら、その前にどこ行っとったんや。棚田の方から降りて来たな。もしかして、夜叉ヶ池にでも行っとったんか」
今、目の前にいるお政から感じる殺気めいた気配には、昨日も見に覚えがある。昨日松明を掲げた村人の中で、こちらに気づいた人物――顔は見えなかったが、あれはもしやお政だったのか?
「噂んなっとるで、あの蝶々、御池の方から飛んできたって。どうやら、あの川向こうのエツと千太が、昨日の件に関わっとるんでないかってな」
お政の声は、一言ごとに由良の胸を締め付けた。
言葉の刃に胸骨の奥を抉られていくようだ。指先が震え、息が詰まる。
言葉を失った彼女の耳には、村人らのざわめきが遠ざかっていくばかりだった。
その頃川の向こうで、千太は道祖神と向き合い立っていた。
ふくよかな顔をしたこの神の柔らかい笑みを眺めていると、千太は不思議と心が静まるのを感じる。
昨日の昼過ぎまで降っていた雨がまだ地面に染み込んでおり、それが徐々に重さを増してきた春の日差しに炙られて、むわりと土の匂いを放っている。
千太は、村の方へと目を凝らす。
白山中宮へ集まっている人々が、まるで蟻の大群のように小さく見える。風に乗って、焚かれた香木の匂いと鈴の音が微かに届く。
(昨日の件で、今からご祈祷があるんやな…)
やはり、あの光景は夢ではなかったのだと実感する。
由良はあの中にいるだろうか、病み上がりでまだ足が痛むから、家にいるだろうか。ならば、今家を尋ねたら、誰にも見つからず会うことができるかもしれない。
そこまで考えて千太は首を振り、村に背を向け夜叉ヶ池へと向かった。
朝の参道は涼しく、苔むした岩に落ちる木漏れ日が美しい。鳥のさえずりが空から降るようで、なんとも平穏な空気に満ちている。
こうして朝のお参りに来るのは、父が死んで以来だった。千太は、少し岸辺から離れた場所に跪く。水面に写る自分を、今は見たくはなかったから。
祈る――といっても、いったい何を祈ったらいいのか、まったく言葉が出てこなかった。
「…龍神様」
とりあえず名を呼んでみる。
「龍神様、龍神様、龍神様…」
土に額を擦り付け、瞼を引き結んで何度も名を呼んでいると、脳裏に、死んだ父や由良、痩せた母の顔が次々に浮かんだ。そして、水面に写った鱗に覆われた自分の顔が閃くや、腹の底から湧き上がる黒々とした感情が喉を焼いた。
母がここにお百度を踏んで自分を授かった時から、この生がもう決められていたかと思うと、どうしようもなく腹立たしく、悔しかった。自分はそのさだめといううねりの中に、ただ身を委ねることしかできないのだろうか、父の死を、なすすべなく見守ることしかできなかったように。
――龍神様の御心は人には知れん…
今は、この由良の言葉だけが救いの光明そのものだった。
千太は土から顔をあげて、夜叉ヶ池を睨み据えた。池から吹く風が、千太の頬を洗うように撫でていく。それはあまりに優しい。
ここにいる龍神が、山の中で由良を助けてくださったのであれば…いや、もっとその前に、池に投げ入れられた彼女に命を与えてくださったのであれば、ただ自分の生を弄ぶ無慈悲な方ではないのかもしれない。そんな考えが一瞬頭をよぎったときだった。
「あれ、また会ったのうし」
その声は、突然背後から湧いたように聞こえた。
ばっと振り返って身構えると、その声の主は、千太のすぐ後ろに立っていた。強烈な朝日を背負って顔がすぐに判別できなかったが、その、目を刺すような袴の朱の色と、鈴のような声でその人が知れた。
「…凪様」
あの握り飯をくれた日に初めて対峙した時と同じく、名前を呼ばれたことが意外であるというように凪は少し目を見開く。
「この前は、握り飯をおおきに。おかげさんでした、ほんまに…」
頭を下げる千太に、凪はその印象的な鹿のような黒目がちの目を細めてほほ笑み、隣に並んで腰を据えた。
「雪が溶けてから、わたしは毎朝ここにご祈祷に来ておるが、出会わなんだな」
「…はい、ここには、久方ぶりに来たもんで…」
と、千太は口ごもる。
「ずいぶんと、熱心に祈っておったの」
「え?」と千太は首を傾げる。「祈ってなど、おりませんでしたけんど…」
「祈りというのは、体の内側から、迸り出てくるもの。言葉にはならずとも、跪いたおまんの全身から、絞るような祈りが響いてきておった。でも…」
凪は、目を細めて、池の対岸を見やる。
「おまんの祈りは、独りよがりじゃ。自分のことばっかり、好き勝手に、すがってばかり」
字面だけ取れば千太を非難しているようだったが、凪の穏やかな語り口からはそのような棘は一切感じられなかった。
「おまんが、自分の運命を呪うのもよう分かる。が、祈りは対話じゃ。まずは、自分のことより、龍神様に想いを寄せてさしあげねばならん。人の身勝手で、ここに封じ込められた、おいたわしい龍神様のことを、考えてさしあげねば」
凪の目線を追って、千太も御池の方を見やった。
色んなことがありすぎて自分のことだけでも手一杯だ、思わず心に浮かんだその考えをいったんは置いて、凪に促されるまま、龍神のことを想う。
その悲しみ、苦しみ、恨み…分かるはずもないとあきらめず、分かろうとすること…。難しいけれど、そう思うと不思議と、遠く無機質に感じられていた龍神が、今、血の通った存在として千太に迫ってくるような気がした。
「…え? 凪様…」
千太は、時間差であることに気づき、ぱっと凪のほうを見る。
「俺が、自分の運命を呪う…? なんで、そんなこと言いなれる…?」
答える代わりに、凪は突然手を伸ばして、その細い指先でそっと千太の左頬に触れた。氷を押し当てられているようなその冷たさといきなり触れられた驚きで、千太は思わずびくりと肩を聳やかす。
「初めて会った時から、わたしには見えとったよ。この左頬の鱗」
千太は思わず凪の手を払いのけ、座ったまま後ろに飛びのいた。
「どういうことじゃ…凪様…これが見えるって…なんで…」
「さあ。わたしは昔から、不思議なものがよく見えてね」
凪は、再び、静かに御池の方に目をやった。
「なんでもわたしは、朔の日に生まれたそうや。それも双子でね、いっしょに胎から出てきた兄は産声を上げなんだ。それで忌み子と呼ばれて、里ではずいぶんと気味悪がられとった。口減らしに何べんか山に棄てられたけんど、どういてか、必ず家まで帰ってきてしまうし、かといって殺めてしまうにも、祟られそうで怖いというもんで、遠縁にあたる有馬様のところに置いてもらうようになったんよ」
黒目がちの瞳が、少し、哀しそうな色を帯びる。湿り気をおびた池からの風が彼女の艶やかな黒髪をさらっていく。
「昨夜の蝶の件、おまんも知っとろう、千太。村の者達は、あれを龍神様の祟りの凶兆と見て恐れ慄き、ご祈祷を求めて白山中宮に押しかけとる。なんとも浅はかなことじゃ。祟りは代償を求めるというに」
凪は水面に目を落としたまま、侮蔑的な笑みを浮かべる。
「ただのご祈祷だけで荒魂が静まるものか。祟りは代償を求める。それ相応のものを捧げねば、決して荒魂は静まらん」
その言葉に、千太は猛烈な違和感を覚える。胸の中を、ざわざわと虫が這いまわるような気持ちの悪さだ。
「相応のものを捧げる…? どういうことじゃ、凪様」
「それは、おいおい話そう。わたしは、そろそろ戻らねばならんでの。おまんも見たやろう、白山中宮に押しかけた人の群れを。今頃は、その者達の前で、有馬様がご祈祷をされておる頃じゃ」
「もう、ご祈祷が始まっておるんですか。凪様は、その場においでんでも、えかったんですか」
「ああ…ほれは、ええんじゃ」
凪はなんてことないように答えた。
「もっとも、帰って有馬様から大目玉を食らうやろうがの」
「笑いごとのように言いなれる…肝の据わったお方じゃ。俺は、有馬様の蛇みたいな目を想像するだけで、生きた心地がせんですが」
言うと、凪は顔をのけぞらせ、大きな口をあげて笑った。表情が滅多に崩れることのない凪から、こんな笑い声がでるのが意外で、千太は目を白黒させる。
「なに、有馬様のご祈祷は形だけじゃ。ただ、押しかけて来た村の者たちを静めるための、その場しのぎの見せかけにすぎん。ほうやで、わたしはここへ来た。ご祈祷を捧げるべき場所は、境内なんかでのうて、まさにこの御池じゃ」
有馬を非難する凪の口は、先ほどの比ではない程に饒舌だった。そのどこか恍惚とした表情は、まるで酒にでも酔っているかのように見える。
「有馬様は、毅然として見えるが、実は臆病なお方じゃ。昔何か恐ろしいことがあったのか、村の者達を異様に恐れとる…」
凪はおもむろに言葉を切って、千太を見つめた。
「千太、おまんは、はよう家に帰れ。母上の傍におってやったほうがええ」
千太は、凪の含みのある視線と言葉に、胸が騒めいた。
「有馬様は、昔からおまんら親子を…特にエツさを目の敵にされとる。何か災いがあろうものなら、その元凶をおまんらにしてしまうやもしれん。村の者達は、今、怖れでいっぱいになっとるでの。まずいぞ、あの狂ったような人の群れを、おまんも昨日見たやろう」
凪が言い終わるが早いか、千太はその場に立ち上がるや、踵を返して参道を疾走した。耳の奥には自分の呼吸音、目の裏にはエツの顔、背後から、昨日の村人らが追いかけてくるようだった。
どん、どん、と戸を叩く音で、鹿杖にすがり土間に降りようとしていたエツは顔を上げる。割れんばかりの勢いで叩かれ、戸が震えた。




