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白日、影さす

 西から差し込むやわらかな明かりで、千太は目を覚ます。

 身を起こして、まだ夜が明けきらない薄墨のような空気の中に佇む、家の中を見回す。

 隣からは、母の寝息。あまりにもいつも通りで、昨日の出来事がまだ信じられなかった。


 指先で、左頬にそっと触れてみる。

 水面に写る鱗のおぞましさよりも、ここに触れた由良の柔らかな手の感触を強く思い出す。


 あの後、由良はちゃんと眠れているだろうか。ウネと千太に気遣って、気丈に振舞ってはいたが、やはり内心はひどく不安で混乱しているはずだ。

 それに、村はどうなっただろう。自分が帰る頃もまだ、白山中宮社は集まってくる人々の松明で煌々と輝いていた。それほどまでに、あの蝶々の群れは村人に戦慄を与えたということだ。なにかの前触れとして…。


 隣で、衣擦れの音がし、エツがもぞりと寝返って目を上げた。


「…龍神様のとこに、お参りに行くんかえ」


 いつもながら、朝一番で言うことかと、千太はため息を漏らす。

 布団を跳ねのけて、わらじに履き替える。とりあえず家を出て御池に行ったふりをしておけば、母の追及は免れたから、最近はずっとそうしていた。

 寝ている間に乾いた喉を潤すため、水甕から水を汲もうとして、千太は甕の中に映る自分の顔を見る。ここにはやはり鱗は写っていない。夜叉ヶ池の水面ではないからだろうか。


「かかさま」


 甕を覗き込んだまま、千太はエツを呼ぶ。


「俺のととさまは、誰なんや」


 背後の空気が途端に固くなった。布団から、エツが身を起こす気配がする。その視線が、背中に突き刺さる。


「千太、いきなり、何を言い出す?」

「村のやつらに、ずっと龍の子や言うて石を投げられてきた。俺は、努めて相手にせんようにしてきた、家にはちゃんとととさまがおいでたから。ほんでも…もしや、俺のととさまは別においでるんか? 村のやつらが言うことが…正しいんか?」


 千太は、ゆっくりとエツの方を振り返った。


「どうなんじゃ、かかさま」


 エツは、形の整った目を見開いたまま、千太を見つめていた。その瞳には、動揺も、迷いも、何も感じられなかった。不自然なほどに、静かに凪いでいる。


「おまんのととさまは、藤六さじゃ」


 千太はわずかに眉根を寄せる。


「…ほんまか? 誓ってか?」

「ほうや」


 そうはっきり言い切られたのにも関わらず、なぜか、千太の溜飲は下がらない。


「…分かった。もう聞くまい」


 千太は喉を鳴らして甕から水を飲むと、家を出ようと戸に手をかけた。ふとそこで思い立ったように、再びエツの方を振り返る。


「かかさま、体の方はどうもないか」


 突然そう問われて、エツは少しばかり首を傾げる。


「一時よりはましにはなったけんど、まだ、痩せが治らんな。ほれに、夜も寝れとるんか? 目が赤いけども…」


 ああ、とエツは生返事して、弱弱しい笑みを浮かべた。


「どうもない、どうもない。さ、はよう行ってこい」


 千太は頷くと、後ろ髪を引かれる思いで家を出た。

 最近の母からは、およそ生気というものが感じられない。むしろ、死の匂い――あの、洞の中にいた父と似通った気配さえ見え隠れして、激しい胸騒ぎに見舞われるのだった。


 家にひとりになったエツは、しばらく布団の中に腰掛けたまま、自分の手を見つめていた。

 お日様が高く上がっていくにつれ、差し込んでくる日差しに白く浮かび上がる自分の手は、皺とひび割れに覆われ、まるで枯れたシャクナゲのようだった。

 若さを失い、やせ細っていく自分。対照的にたくましく育ち、心のすべてを他の誰かへ向けている千太。

 彼の中をいっぱいに満たしているのが自分ではなく、村の若い娘であると思うと、胸の奥で黒いざわめきが広がり、どうにも抑えようがなかった。


(おれが一体、どんな思いをしてあの子を産んだと思っとる…)


 エツは、口の中で、誰にともなく悪態をついて、布団を握り締めた。


(誰にも、あの子をおれから奪わせやせん。あの子はおれのすべてじゃ、おれの命じゃ)


 エツは奥歯を噛みしめる。この時目に浮かんだのは、由良のあの屈託のない無垢な笑顔だった。そして、毎夜ここに現れる藤六の下卑た笑みでもあった。


 差し込んでいた朝日が陰り、たちまちに部屋の中が闇に包まれた。その闇に溶け込む様に、声がする。声は、エツの名を呼んでいる。夫の声だ。


 エツは充血した目で、囲炉裏の向こう側の黒ずんだ板壁を睨み据えた。


 だんだんと瞼が重くなり、次に気づいたときには、洞で見たままの姿で、夫は、そこに立っていた。

 どこか拗ねたような、甘えたような赤い目を炯々とさせて、エツを見つめている。

 恐怖とともに、体中を、虫唾がはしるような嫌悪感が突き抜ける。が、体が布団に杭打ちされた一枚の板になったように、エツは一寸も動くことができない。

 かろうじて動かせるのは首と目だけ。

 それを藤六はからかうかのように、わざとゆっくりとした足取りで、囲炉裏を迂回し、横たわったエツの体を跨ぐようにして、隣に眠る千太の枕元へ立つ。エツは叫びたいが、声もでない。


 エツの目の前で、藤六は、しゃがみこんで、千太の顔をじっと見つめる。何も手は出さない。その顔は、植えた種から芽が出るのを待ち望んでいる子供のようだ。口元には、薄い笑みさえ浮かんでいる。


 すると、しばらくたたぬうちに、窓の隙間から白い蝶が入ってくる。その一羽がふわりと千太の額にとまった瞬間、部屋の空気が変わった気がした。

 それを皮切りにして、一羽、また一羽、窓から蝶が飛んできては、千太の身体にとまる。

 次第に、それらは吹雪のような勢いで飛んできて、千太の身体を覆いつくしてしまう。

 横たわる千太は、まるで蝶に貪り食われているかのように見える。

 蝶どもが一斉に翅を動かすと、千太の身体の上に、鱗粉が不気味な青白い光を放つ。

 その光が、その光景を食い入るように見つめている藤六の瞳に反射する。


 成すすべなく見ているしかないエツの目からは、涙が流れている。声が出ない代わりに、喉が痙攣したようにひくりひくりと動く。


(藤六さ、すまなんだ。おまんには、祟られても仕方がないことをしてしまった。おれはどうなってもいい、でもどうか、千太だけは、千太だけは堪忍しとくれ…)


 心の中で、必死に訴えるエツを見透かしたように、藤六はゆっくりと彼女の方に顔を向ける。

 あの洞にも似た、がらんどうのような目が、エツを舐めるように見つめている。 


 はっと目を開けると、あたりは白んだ朝の光に包まれていた。

 胸の奥のざわめきは消えず、ただ息苦しさだけが残っている。


 ――また、あの夢を見たのだ。


 エツは両の手で顔を覆った。


 夜が来るのが、眠るのが恐ろしかった。あの夢は、もはや夢には留まっていない。墨が水に溶けていくように、ゆっくりと現実に侵食してきている気がしてならなかった。


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