御池より帰りて
池の畔で、千太は目を覚ました。
自分の腕の中で、由良はまだ目を閉じて眠っている。名を呼びながら揺すり起こすと、微かな吐息とともに、彼女は瞼を開けた。
ふたりして身を起こすと、空を覆いつくしていた蝶は、まるで幻だったかのように忽然と消えてしまっていた。空にはまだ満月が煌々と輝き、御池の水面は白く輝いている。
蝶以外は、この御池に着いた時のままだった。しばらく、気を失っていたのだろうか、あるいは、夢でも見ていたのだろうか。しかし、先ほどの光景はあまりに現実味を帯びていて、まだ、蝶の鱗粉が鼻先を掠めるような感覚が残っている。
寝起きのような朧げな思考が徐々にはっきりとしていくと、千太はあっとなにかに気づいたような声をあげて、草地を這って湖面を覗き込んだ。
だが、その瞬間、瞳に宿ったかに見えた鋭い光は失われ、沈むような暗さを帯びていく。
水面の上の彼の顔の隣に、由良が写り込む。
「…蝶々といっしょに、これも消えとったらと、期待したんやけども」
千太は、悲し気な薄い笑みを口元に浮かべながら、隣に来た由良に告げた。彼の見つめる先の左頬は、先ほどと同じくすっかり鱗に覆われている。
「さだめから、目を逸らすなと、そういうことやろうか…龍神様」
投げかけるように問う千太に、水面は依然として皮肉なほどに穏やかで、何も返ってはこなかった。
千太の左の頬に、由良がそっと手を添える。
「ここにおる兄さの頬は、まだきれいなままや」
そう言うと、由良は空いているもう片方の手で、水面をばしゃばしゃと波立てた。たちまち、写っていた顔が歪んでかき消えた。
「龍神様の御心は人には知れん。やから、この鱗の意味も、勝手に決めつけたらいかんと思う。でもきっと、その意味が分かるときがくる。おれが昔のことを思い出いたみたいに」
千太は、左の頬に触れている由良の手を覆うようにして、自分の両の手を上から重ねた。この子は、大きな、陽だまりのような子だ。いや、それよりももっと大きい、お天道様のような子だ。自分の暗く沈んだ滓を、温かく包んで溶かしてくれる。
千太は今、これまでに感じたことのない感情に押しつぶされそうになり、戸惑いすら感じていた。鱗に覆われたおぞましい夢の中の自分と対峙した直後にも関わらず、どういうわけか、自分の生そのものに感謝する、根源的ともいえる喜びを初めて知った。ひとえに、今自分の隣にいる少女の故に。
自然と、頭が下がる。
「由良…俺は、自分がどうかなるよりも、おまんがおらんようになることのほうがずっと怖い。なぁ、いっぺん死んだというんは、ほんまなんか。としたら、今俺が触れとるおまんは、一体…」
目に涙を溜めて言葉を詰まらせながら、千太は包んでいる由良の手に頬を押し当てる。まるで、その体温を確かめようとでもするかのように。
月明かりの下で、由良は頬をほの赤く染めて、俯いた。
「分からんけど…おれは、今ちゃんと生きとる。体も動くし、感覚も…感情やって…ちゃんとある…」
そこまで言った由良の手を、千太はぐいと引っ張り、背負おうとした。
「村へ戻ろう」
「え?」
「おばばさまなら、おまんが小ちゃい頃になにがあったか、知っておいでるやろう」
「あ、待っとくれ、兄さ…」
由良は千太の背を押して抗ったが、この冬で一段と体が大きくなった千太はそんな抵抗ももろともせず、ひょいと彼女を背負い上げてしまった。
「なんや、なんを躊躇うことがある」
言いながら、千太は軽々と参道を下っていく。
「思い出いたと言っても、まだぼんやりとしとるし…」
「そんなことはええが。他でもないおばばさまじゃ、おまんの言うことを無下には扱われんやろう。それに…俺はどういても知りたいんや、昔あの御池で、おまんの身になにがあったんか。そして、そのせいでおまんになにかが起こるんなら、それを止める方法も…」
参道を駆け抜け、獣道に茂るススキの穂を掻き分け、踏み倒しながら、千太は道祖神のところまで一気にたどり着いた。柔和な笑みを浮かべる一対の道祖神と向き合って、肩で息をしながら、千太はやっとのことで頭を下げる。顎から滴る汗を拭いながら、身を起こそうとした時、
「…あっ!」
と背中で由良が引きつった声をあげる。
「村で…なんかあったんやろうか」
由良が指さす方、棚田の向こうにある村に、大量の灯りが蠢いている。
数日前、由良を探すために灯された松明の比ではない。灯された多くの火が、煌々と夜空を染めている。特にその火の灯りが集中しているのは白山中宮。この距離からでも、その甍までもが伺えるほどに明るい。
由良の緊張が、肩に添えられた手の強張りを通して千太にも伝わってきた。胸騒ぎが喉を抜けて脳天を貫くような震えとなる。
「行くぞ、由良」
迷いを断ち切るように一言、千太は棚田を駆け下りていった。
村へ近づくにつれ、その喧噪が迫ってくる。
老若男女、松明を手に、口々に念仏を唱えながら往来を進んでいる。ひしめく人の波が、まるで大きなひとつの生き物が蠢いているかのようだった。顔という顔が、松明の炎に照らされて真っ赤に染まり、誰が誰だか分からなくなっていたが、皆一様に殺気立っている。
「南無……南無……」
幾十もの声が重なり合い、うねるように山間の村を満たしていた。念仏の中に、すすり泣きの声や狂ったような笑い声、取り乱すように人を呼ぶ声が混じりあい、祈りというよりは、怨念の唸りのようで、千太の耳を圧し潰す。
上から見た時、白山中宮がひときわ明るく見えたのは、これが理由だった。人々が、続々と白山中宮へと押しかけているのだ。
闇に揺れる人影がいくつも重なり、息苦しいほどの圧を放っていた。由良を背に庇いながら、千太は思わず息を呑む。ほんの一瞬でも村人に怪しまれれば、この異様な渦が一気にこちらに向かってくる、その後は、どんな目に遭うか分からない――そんな予感が背筋を冷やした。
(夜叉ヶ池だけでない、きっとあの蝶々は村にも飛んできたんや。この人らは、それを見て、白山様に押しかけよるや)
そう悟った時、目の前の往来にひしめく人波の中の誰かが、こちらに気づいたように足を止めた。誰かは知れなかったが、途端、その人物がこちらに向かってくるような気配を放った。千太は、ぞっとするものを感じ、音もなく後ずさりして、松明の灯りの届かぬ暗闇に溶けるように消えた。そのまま暗いところを選んで、由良の家を目指す。
山の脇に建つ由良の家は、やはり他の家と同じように門前に松明が焚かれていた。
その裏手の、やや小高い場所にあるウネの隠居小屋は、窓や戸の隙間から、うっすらとした灯りが漏れている。
千太はそっと小屋に忍び寄り、祈るような気持ちで戸口を少しばかり開けた。魚の油の匂いが鼻をつく。その間から見えた板間に、ウネがひとりで座っているのを見て、千太は安堵のため息をついた。
「ウネさ…俺や、千太や」
そう言うが早いか、ウネが勢いよく扉を開けた。
「はよう、入れ、はよう」
ウネはふたりの背後に周り、押し込むようにして小屋の中へと招き入れると、戸を閉めて、つっかえ棒をして誰も入って来られないようにした。
千太と由良が板間に腰を下ろすや、ウネはふたりもろとも、両腕できつく抱きしめた。
「…おばばさま、泣いておいでるの?」
由良は声を詰まらせながら、細かく震えるウネの背をさすった。
「空いっぱいの蝶を見た時、もしやと思ったんや。母屋を探してもおまんはおらんし…由良や、おまん、御池に行ったんやの」
ウネは、由良の頬をその分厚い両の掌で挟んで、じっと孫娘の瞳を見つめた。ウネの瞳に恐怖とわずかな怒りの色を見た由良は、喉の奥をぎゅっと閉めて、頷く。
「由良を御池まで連れてったのは、俺じゃ」
ウネは垂れた瞼の奥から鋭い眼光を光らせ、千太を睨み据えた。
「由良は、いっぺん死んだというんや。死んで、御池に投げ込まれて…ほれから、そこで生き返って、家に戻ってきたって…。ウネさ、教えとくれ、由良になにがあったんや。俺らが御池で見た白い蝶々の群れは、いったいなんなんや。あの蝶々、村にも飛んできたんやろ?」
千太とウネの緊迫した視線の交錯から、先に目を逸らしたのは、ウネのほうだった。
「もっと灯るいところに座れ。今、茶をいれような」
蒼白な顔をした由良を支えるようにして、千太は板間の、灯の近くに移動して、腰を据えた。
ウネが出してくれた茶は、煮だしてからずいぶんと時間がたってぬるくなっていたが、それでも、香ばしい豆の香りがして、昂った心を静めてくれた。
「さて、どこから話いたもんか…」
ウネは茶をひとくちすすると、しばらく梅の種でも舌の上で転がすかのように、もごもごと口ごもっていた。
「はじめに言うとな、由良、おまんがほんまに〈死んだ〉んかどうか、それはわしにも分からんのや」
「…え?」
千太と由良は眉を顰めて顔を見合わせた。
「わしは村のはずれの方までお産に行っておってな、おまんのととさまも高い熱を出いておって…。おまんの身に何が起こったか、見ておったのは、雪だけじゃ」
「かかさまが…」
由良の枕元で泣いていた雪の声が、由良の耳に蘇る。
「雪はその数日前に、腹の子が流れての…。四六時中泣いて、なんでも悪い方へととってしまう、そんな状態やった。ほうやで、雪はおまんを〈死んだ〉と思い込んだのかもしれん。わしがおってやったなら、きちんと脈もとって判断したんやろうが…」
つまり、と千太はウネの方に身を乗り出す。
「ウネさは、由良が〈死んだ〉んでないと、ただのかかさまの勘違いやったと、そう思っておいでるんですね」
「ほうじゃ。人は死んだら生きては帰らん。そんな都合のいいことがおこるはずがない。わしは、そう思っとる」
千太はほっと肩を落として、由良を見た。だが、視線の先で、由良は依然として浮かぬ顔をしている。
「ほんでも…おばばさまは、かかさまが間違っとったと、言いきれん部分もあるんやね」
ウネはどきりとしたように、顔を上げて由良を見た。灯の薄明りのなかでも、ウネの顔が青ざめているのが分かる。
「さっきおばばさまが言っておいでたこと…空いっぱいの蝶を見て、もしやって思ったって…どういうこと? どういて、蝶を見て、おれが御池に行ったって分かったの?」
感情が高ぶり、声が裏返る。千太が肩にそっと手を置くと、由良ははっとしたように口を噤み、まつ毛に滲んだ涙をぬぐった。
「…すまなんだな、由良…、妙な噂がたつといかんと思って、わしも雪もみんな、あのときのことは誰にも言わず秘め事として隠しとったんじゃ。おまんも、なんでかすっかり忘れてしまっとるようやったしの。ほんでも、今思い出いたのは、なんか理由があるんやろうの…」
ウネは絞り出すように言うと、意味深な視線を千太に留めた。その目に見据えられた千太は、腹の底にすっと冷たいものが落ちたような気がした。脳裏を、水面の鱗に覆われた己の顔がちらつく。
ウネは千太から目を逸らすと、しばらく、項垂れていた。が、やがて、訥々と語り始めた。
「おまんがよっつの頃、ちょうど今時分の、春先のことやった。その十日ほど前から、ずっと雨が続いておってな。そんな日に限って、わしは子を取り上げに、峠の近くの家まで行くことになった。嫌な感じはしたけんど、予想通り、雨脚が強まって嵐になっての…子は無事に産まれたが、地滑りで、帰りの道が塞がれてしまった。結局、丸一日かけて回り道して、ここまで帰って来たんじゃ。
家に着いてみたら、おまんが死んだと言って、雪が取り乱して泣き喚いておる。一瞬、何が起こったのか分かんかったが…」
ウネは、茶が入った椀の中に、その日のことが映し出されているかのように、じっと目を落としている。
「仔細を聞いてみると、つまりはこういうことやった。わしの留守中、平次…おまんのととさまの風気がうつったのか、おまんは高い熱を出いた。そして、そのまま、あっけなく死んでしまったというんじゃ。雪は、途方に暮れた。夫も熱でうなされて話せるようでもなし、わしはお産から帰って来ん、さらには、嵐はますますひどうなる。心細うて、怖うて、ぐったりした由良を抱いて土間のところでしくしくと泣いておった。その時、戸口を誰かが叩く音がしたんやそうや。雪は、わしが帰ってきたんやと思うて、慌てて戸を開けた。が、そこに立っとったのは、見たところ十そこそこの、小さな子供やったと」
「子供…?」
「龍神様が、その子をお迎えしたいと申されておる。子供は由良を指さしながら、開口一番そう言ったそうや。雪が驚いて振り返ると、由良の身体は水を浴びたようにぐっしょりと濡れて、何とも言えぬ、水の底のような匂いがしたと」
「…ほんで、由良をその子供に渡いたんですか」
うん、とウネはため息交じりに頷いた。
「子供は由良を背負うと、嵐の向こうへと消えてしまったそうじゃ。その話を聞いたわしは、怒り狂った。雪の頬を何度も叩きつけての。七つに満たぬ子は、死んだら墓も作らず、山に埋めるか川に流すかして神様に返す。ほんでも、それは家の者の手でしてやりたかった。どこのだれとも分からんそんな子供に、由良を渡いてまうなど、許せんかった」
ウネは唇を震わせて、椀の中を睨み据えていたが、ぱっと顔をあげて、由良を見つめた。その目の淵は涙で濡れそぼっている。
「でも…その日の夕刻、雨が上がってしばらくした頃、ひょっこりと、おまんが帰って来たんじゃ。雨上がりの夕日を背にして立つおまんの姿を、わしは今でも忘れることができん。わしは…」
ウネは椀を放り置き、たまらず由良の元へと這ってきて抱き寄せ、その肩でむせび泣いた。
「あの時、いっしょにおってやれんで、すまなんだ。由良…すまなんだ…」
「おばばさま、もうええんじゃ、過ぎたことや…」
由良はウネの背をさすって必死になだめながら、その肩越しに、不安そうに千太を見つめた。
「由良のかかさまは、その子供のこと、なにか言っておいでなんだか? 見た目とか、着とる服とか…」
ウネは首を振る。
「それがの、雪もよう覚えておらんそうや。嵐の日で薄暗かったし、気が動転しておったのもあるやろう。雪は今でも、その時の子供が、龍神様の遣いやったと信じておる」
由良はぞくりとした。夜叉ヶ池からの帰り道のことは、あんなに詳細に思い出せたのに、行く道の記憶が一切ないのは、その子供が、自分を池まで運んでいったからではないのか。
「おまんが帰って来た夜に、添い寝しながら訊いたんじゃ、一体どこへ行っておったのかと。ほうしたら、水の底におったと迷うことなく言ったわな。その時窓の外には、白い蝶がたんと、飛んどったわな…」




