常世の蝶
薄墨色の空気の中で、道祖神がほほ笑んでいる。
千太と背の上の由良は、立ち止まって頭を下げ、道祖神の視線の先を見つめた。
そこに伸びる獣道は、背の高さまである枯れたススキの穂や雑草で覆われている。
じっとそこに立ち尽くす千太に、由良は違和感を覚えた。まるで、その先へ進むのを躊躇っているようだったからだ。
「…兄さ、どうかしたんか?」
おぶわれているので、千太の表情は伺えなかった。しばらくの沈黙の後、
「いや、どうもない」
ぽそりとそれだけ呟くと、千太はススキの穂を搔き分けるようにして進んでいく。
嵐に洗われた空は澄み渡り、陽が沈んだ直後の美しい藍色の上に、星々が煌ている。それを背景として、鎮守の森が黒く浮かび上がっている。
やがて行く手に鳥居が見えてくると、由良は身体が強張っていくのを感じた。
鳥居の前まで来るころには、胃の奥がきゅうっと縮こまり、絞られるように痛み始めた。
千太は鳥居の前で一礼し、顔を上げると、ちらと由良の方を伺うように振り返った。彼女の腕が、赤子のように千太の首にしがみついている。
「…由良、引き返すか?」
「………………」
「なんか、思い出いたんか?」
由良は千太の背に顔を埋めるようにして頷いた。
「…このまま、進んどくれ」
そう言うので、千太はためらいがちに鎮守の森へと鳥居をくぐった。
首に回された由良の腕が泡立ち、微かに震えている。
「この道を…通ったことがある。あの時は、今とは逆の方に…御池の方から降りて来たんじゃ」
由良が独り言ちるように訥々と語るのを聞きながら、千太の心は妙にざわついた。
「雨が降っとって、足元がぬかるんで…手探りでこの森を下って、何べんも、転んだ。足のいろんなところを擦りむいて…怖くてたまらんくて…、道祖神様のところまでたどり着いて、棚田の向こうに、霧にけぶった村が見えた時、ほっとして、立っておれんくらいに力が抜けた…」
「それ、いつのこと」
由良の生々しい回想に、千太は思わず問いかける。
「分からん。たぶん、ずっと小ちゃい頃。今まで、すっかり忘れとったのに…」
そこで由良は言葉を切る。千太の呼吸が妙に荒い。顔や首筋から珠のような汗が噴き出している。どうかしたのかと訊こうとした傍から、千太はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「兄さ、どういたの?」
「……すまん、俺…」
由良は、痛む足をかばうようにして、千太から降りると、小さな子供にしてやるように彼の背をさすった。
「…冬が来る前に、俺のととさまが、夜叉ヶ池で亡うなったんや。それから、御池には来れんようになってしまった…怖うて…ここに来ると、俺は自分が嫌になるから。生きておるのが、嫌になるんや。この世そのものが、嫌になる…」
千太は呻くようにして両手で顔を覆った。指の間から、涙が滲み出ている。
「…俺のととさまは、業病やった」
突然の告白に、由良は胸が凍るような戦慄を覚えて、千太の背を撫でている手が、反射的に弾かれたように、ひとつ痙攣して止まった。
千太は顔を覆っていた手をゆっくりと降ろし、その豆だらけの掌を見下ろした。
「体の感覚がのうなるんや。まるで、自分の体なのに、自分のもんでないように、暑くも寒くも痛くものうなる。そして肉が腐り、鼻がもげ指が落ち、人ではないような姿に変わってしまう。そのさだめの前には、神様も仏様もありはせん。祈っても、決して、助けてはくださらん。ただ、惨めに生きて、死ぬだけじゃ」
見下ろしている掌に、大粒の涙が落ちて跳ねる。
「そして、その業の血は、俺にも流れとる。俺もいつか、あんな風に変わり果てて死ぬのかと思うと、祈ること自体、虚しゅうて…」
由良は、千太の背に載せた自分の手が震えるのを禁じえなかった。
幼い頃から刷り込まれてきた癩という病への強烈な忌避感と恐怖心が、咄嗟にその手を千太から離そうとする。それに抗うように、強く彼の背に掌を押し付けながら、夢の中の、あの、変わり果てた千太の姿を思い出していた。
「…兄さ、行こう」
由良はその手で、千太の手を握り締めた。
「この先には、見とうないもの、思い出しとうないもの、怖いものがあるかもしれん。でも、逃げずに、進まなきゃ」
千太が顔を上げた先で、由良は泣きそうな顔をくしゃくしゃにして笑んでいる。石英のような白い歯が薄闇の中に光る。
「もしひとりやったら、おれはここに来られんかった。兄さがおってくれたから、来れた。兄さもおんなじじゃ、おれが付いとる」
祭りの日に手放したあの石ころが、再び、懐に戻ってきたような気がした。
「…由良、こんな話聞いて、俺のこと、怖うないんか」
「怖うなんて、ない」
由良のえくぼが深くなる。やっと、直接言えた、そう呟いて、由良は自ら千太の背によじ登り、しがみついた。
「兄さ、立てる?」
「うん、立てる」
千太は立ち上がって、由良を背負いなおす。その目は、真っ直ぐに樹々の奥の夜叉ヶ池の方へ向けられている。
「御池まで、連れて行っとくれる?」
「連れてくよ…いや、いっしょに行こう。ふたりで」
「うん、行こう」
覆いかぶさってくるような樹々の暗がりを抜けると、視界が突如としてぱっと開け、そこには夜叉ヶ池が静かに広がっていた。
鎮守の森に切り取られた狭い夜空から湖面に月影が落ち、湖畔を縁どる菫や菖蒲を蒼白く浮かび上がらせている。
その光が及ばぬ深い暗闇には、無数の蛍の幼虫が点々とさやかな光を灯して、まるで星空が地上に広がっているかのような光景だった。ねっとりと湿気を孕んだ土と草、そして濃い水の匂い。足元から湧き立つように響く虫の声がなければ、ここはまさに常世の入口だった。
「…きれい」
千太の耳元で、由良が呆けたようにぽつりと呟く。
「降りるか?」
千太は由良をそっと湖畔の柔らかな草の上に下してやり、その隣に並んで腰を据えた。
「…なんか、思い出いたか?」
由良は湖面を見つめたまま頷いた。
「やっぱり、おれ、ここに来たことがある…おれ、ここで命をもらったの」
その目には涙が滲んでいる。
「かかさまが言っておいでた、おれはいつかの嵐の日に、熱を出いて、そのままいってしまったって。いったい、どこに行ったんやろうって、思った。でもそれは…逝ってしまったってことは…おれはきっと、一度命を落としたんや」
千太は、信じられない思いで由良を見つめた。出まかせを言うような子でないことは、よく分かっている。けれども、一度死んだなら、今ここにいる由良はなんだというのか。
「なんでか、どういった理由でかは分からんけど、死んだおれは、この夜叉ヶ池に連れてこられて、池に沈められた。そして、もう一度、命を授かったんよ、兄さ」
由良は、目に涙を溜めて、千太を仰ぎ見た。
「あの夢は…幻なんぞでなかった。きっと、その時見た景色なんや。水底から、水面の方を見ると、白い蝶が飛んどって…ほれから…ほれから、蝶から落ちてくる白い粉に埋もれていって…」
由良は這うようにして水際まで行くと、身を乗り出して、ほの白く光る水面を覗き見た。落ちたら危ないと、千太が慌てて彼女の隣に並び、腕を掴んだ。そのとき千太の顔が水面に写る。
その光景を見て、ふたりは言葉を失った。
水面に写る千太の顔の左頬が銀色に光る鱗に覆われていた。
千太は水際から飛びのき、慌ててまっさらな頬をまさぐった。皮膚が擦れて傷がつきそうなほどに、ごしごしと顔面をこする千太の手を止めるように、由良がそっと自分の手を添えて、握り締める。こちらを見る彼女の引きつった目から、同じものを見たことは明らかだった。
「…由良、俺…」
千太は震えながら由良の手を握り返す。
「これと同じ顔を、何べんも、夢で見たんじゃ…。俺…」
千太の双眸から、大粒の涙が溢れて頬を伝った。それに共鳴するように、由良の目からも涙が零れる。
「兄さ…おれもじゃ」
「…え?」
「おれも、何べんも、夢で見た。水底に沈んでいくおれの傍に、この姿の兄さが来てくれたの」
きょとんとする千太の手を由良はそっとひいて、もう一度水際まで促した。
「見て」
そう言われて再び見下ろした先に写るものは、幻覚などではなかった。水面に落ちる自分の顔は、先ほどと同じ容貌を呈している。思わず顔を背けようとする千太を、しかし、由良が制する。
「兄さ、目を逸らしたらいかん。よく見て、じっと、見て」
静かに、しかしはっきりとした口調で諫めるように言いながら、由良自身も、水面に写るおぞましい千太の顔を直視し続けている。
「おれも最初は怖かった。でも、ずっと見とると、不思議と怖うのうなる。姿かたちは変わっても、兄さは兄さやもの」
こちらを見上げた由良の瞳には水面の月光が写り込んでいる。その澄み切った美しさに、千太は息を飲む。
「ずっと忘れとった昔のことを急に思い出すのは、なにか意味があるんやって、おばばさまが言っておいでた。それが、今分かったよ。きっと、兄さに会ったからなんやね。おれも兄さも、この御池で命を授かった者同士やから」
由良は千太の首に手を伸ばし、そっと抱きしめた。千太は、すがるように、彼女の細い背に腕を回す。しばらくそうしてきつく抱き合っているうち、千太の乱れた心音は、ゆっくりと凪いでいった。
「あ、兄さ、見て…」
由良の視線を負って、千太も顔をあげる。
いつしか、周りを、無数の白い蝶が舞っていた。光る鱗粉が、雪のように降り積もり、やがてふたり包み、覆っていく――…
窓際で書き物をしていた白山中宮の巫女・有馬は、ふと顔を上げた。
夜風を取り込むためにわずかに空けている窓の淵に、純白の翅を緩やかに上下させながら、一羽の蝶がとまっている。
(あれ、めずらしい…真っ白い蝶なぞ…)
よく見ようと文机に手をついて腰を伸ばした有馬は、窓の隙間から垣間見えた外の光景に言葉を失った。
慌てて草鞋も履かずに宿舎の外に飛び出す。
「…なんたること…」
そこには、満月の空を埋め尽くすほどの白い蝶が舞っていた。その翅から落ちる鱗粉が、月の光を反射し、まるで砂金を降らせているように見える。その神々しいまでの幻想的な光景に、有馬は口を開けて見惚れると同時に、体の芯が固く凍り付いていくようで、震えが止まらなかった。
「…この世とは思えぬ光景でございますな」
いつの間にか、隣には凪が立っていた。彼女も、首をのけぞらせ、瞬きを忘れたように見入っている。
「不気味で…なんと美しい…」
「凪や、きっとこれは凶兆じゃ。なにかよからぬことが、村に迫っておる…」




