白き蝶の目覚め
翌日も、その翌日も、由良は滾々と眠って過ごした。
朧げな意識の中で、冬に生まれたばかりの弟の太郎がむずがる声を聞いた。赤子独特の甘く乳臭い体臭が汗と混じって鼻をつく。太郎がいるということは、母の雪も来ているということだ。
目を開けて確かめたいが、瞼は眼球に貼りついたようになって、上げることができなかった。そうしているうちに、また眠りの世界に誘われる。
次に意識が戻ってきたときには、母が枕元ですすり泣く声が聞こえてきた。
「…由良のことはわしが看とるで、おまんは母屋で寝とれ」
これはウネの声。
太郎が産まれたのは秋にはそぐわない、凍てつくような寒い日のことだった。高齢なうえに難産だったことが重なり、母は産後の肥立ちが悪く、春が来ても思うように床上げができないままでいる。そればかりか、最近は不自然なほどに涙もろくなった。
「ほんでもおばばさま、またああなったらと思うと、おそごうて、よう寝ておれんのです。あの日も、こんなふうに熱を出いて、何日も下がらんと、そのまま、いってまったでしょう…」
何のことだろう、と混濁した意識を必死で研ぎ澄ませる。おそらく、母は自分のことを話しているのだろうが、昔もこんなふうに熱を出して寝込んだことがあったのだろうか。記憶が定かではないということは、かなり幼い頃の話だろうか。そのままいってしまったとはどういうことだろう。どこへ行ったというのだろう。
「産後はちと、普段よりいろんなことが不安になるもんなんよ。きっと、由良はもうあんなことにはならんで、心配せんでええ。今おまんは、自分と太郎のことだけ考えとればええんや」
太郎の弾けるような泣き声。続いて、母のあやす声。
「ほれみろ、乳の時間じゃ。はよう母屋に戻って乳くれてこい。ほれ、はよう」
衣擦れの音、母たちが立ち上がる気配、遠ざかる足音と太郎の泣き声、戸がカラカラと閉まる鈍い音…――意識はそこで途切れた。
闇の中を、無数の白い蝶が飛んでいく。
由良はぼんやりと、その蝶たちを見上げる形で横たわっている。
銀の砂のような柔らかな鱗粉が、ふわり、ふわりと舞い降りて、由良を覆っていく。鱗粉が放つ硬質な光とは裏腹に、体に触れたそれらは、妙に温かい。
深い、眠りの世界に落ちていく、心地よい感覚。
シャラ、シャラ…シャッシャッ…
どこからか、涼し気な音がする。
シャラ、シャラ…シャッシャッ…シャッシャッ!
それは徐々に近づいてきた。涼やかな水音のようでいて、やがて金属をこするような鋭さに変わっていく。そして突然、耳を切り裂くような音となった。
由良は驚いて、はっと目を開ける。
視界には、橙色に染まった板間の木目が写っていた。
小屋の中を包むこの濃い陽の色は、日が沈む前の刹那に投じる強烈な西日のそれだ。
一体、自分は何日眠っていたのだろう。体中が汗でねばついて、重だるい。
母とウネの会話が、うっすらと記憶に残っていたが、それも定かではない。熱の幻聴かもしれなかった。
身が布団に沈んでいくような感覚がして、目を再び閉じようとした、しかしそのときだった。
シャラ、シャラ、シャッシャッ!
由良は再び目を開ける。その音は、小屋の戸のすぐ外から聞こえる。
思わず、身を擡げようとしたが、軽い眩暈とともに血の気が引いていくようで、また布団に顔を埋めた、そのとき、
「~ただいま語り申す御物語、国を申さば、丹後の国…」
筅の擦る音に合わせて説経するこの声には、聞き覚えがあった。
「…まさか、山で会った天狗?」
掠れた声を精一杯張り上げて問うと、戸の向こうで一瞬はっとしたような沈黙があった。
「…天狗…んんー、まあ、ええか天狗で。おい、見っけた! この家じゃ!」
誰かを手招いている気配、続いて、耳打ちするような声音で、
「わしを天狗と呼ぶおまんは、由良で間違いないな」
「うん、ほうや」
「今、ひとりけ?」
「うん、ひとりじゃ」
「入るで」
そう断るや、ぱっと戸口が開いた。
小屋の中に、ふたつの人影が、さっと伸びる。
そこには先日山で遭遇した天狗、もとい蝉丸と、その隣に、もうひとり立っている。顔を掘っ被りした布で隠しているが、由良には見間違えるはずがなかった。
「…兄さか?」
千太と蝉丸は素早く周りを見回して確認すると、すべりこむように小屋の中へと入ってきて戸を閉めた。
千太は他に目もくれず由良の傍へ来て座り込むと、顔を覆った布を外した。水底のように碧がかった美しい双眸が、由良を貫く。
由良はどきりとして、たちまち体中が熱を帯びたようになった。慌ててはだけた襟元を正し、汗で貼りついた髪を掌で整える。
「怪我した足はどうもないか? 身体、どっか悪いんか?」
まるで観察するような無遠慮な千太の視線に晒され、由良はさらに顔を赤くする。微熱でまだ頭がくらくらとするのに加えて、急な展開にまだ思考がついていかない。
「うん、どうもない。ちと、熱を出いて寝込んどっただけじゃ」
俯きながら、由良はぶっきらぼうにそう答えるしかなかった。
「ほうかぁ」
と、千太は安堵したように肩を落とし、由良の額に掌をあてがった。由良は思わず肩を聳やかす。
「まだ、ちと熱いで。横にならんと」
千太に両の肩をそっと掴まれ、由良は身を固くした。そのまま布団に体を横たえられると、こちらを見下ろす千太ともろに目が合った。さすがに千太のほうもはっとしたのか、寝そべる由良からぱっと手を離して目を逸らす。
「やれやれ、見てられんわい」
笑混じりに言いながら、蝉丸が板の間にあがってくる。
「えかったの、無事な由良の姿が見れて、おまんもほっとしたやろう、千太」
ぽんと肩を叩かれ、千太はますます眉間に皺を寄せてうつむいた。由良の目からはその表情は伺えなかったが、耳まで赤く染まっているのが見えた。蝉丸はなおもからかうように、そんな千太の肩に手を回して、ニタニタと笑っている。
「こいつ、おまんのことが心配じゃあ、心配じゃあ、言うて、煩くてのぅ。ほんなら、様子を見に行けばええがと言うたんやが、家を知らんと言うもんで、わしが一役買ってやったのよ。もう、朝から村中の家を回って、何べん門付け説経したことやら」
「いつもただ飯食らっとるんやで、それくらいええやろうが」
蝉丸の腕を払いのけながら、千太はまた躊躇いがちに由良の方を見やる。目が合ったが今回は逸らさず、微笑んだ。由良は思わず泣きそうになる。
「ほうやったんやぁ、兄さ…心配しとくれて、おおきに」
「顔を見れて安心した。ゆっくり休めよ」
じゃあ、と立ち上がろうとした千太の袖を、由良はつと掴む。
「待っとくれ。あの、兄さ…おれを夜叉ヶ池まで連れて行っておくれん?」
「え?」
千太は目を丸くしてから、蝉丸と顔を合わせる。
「今から?」
「うん」
「でも、熱あるんやろ。怪我もまだ治っておらんやろうし」
「どうもない。肩を貸しておくれたら、もう歩ける。どうしても、行って確かめたいことがあるんや」
訝し気に由良を見下ろしていた千太だったが、その言葉で合点がいったというような目に変わった。
「この間、言っとったことか? 小ちゃい頃に、夜叉ヶ池に行ったことがあるっていう」
「うん。山の中で、夜叉ヶ池の不思議な夢を見た。その日からずっと、おれはその夢と現の合間を行ったり来たりしよる。この夢がただの幻かどうか、はっきりさせんならん気がするの。御池に行けば、何か分かるかもしれん」
裾を掴む由良の手が細かく震えている。その真剣なまなざしを受けて、千太は分かったと頷いた。
「ほんでも、歩くのはなしや。俺がおぶっていく」
そう言うや、有無を言わさず、由良の腕を引いて背中に担いだ。由良はとっさに、自分の汗臭い匂いが気になったが、千太はそんなことは気にも留めていないようだった。
「母屋の方は任せとけ、今からわしが門付けに行って惹きつけとく。その間に連れてけや」
「頼んだぞ」
「おおきに、あの…天狗なんて言うて…」
小屋を出て行こうとする蝉丸は振り返るとにやりと笑った。
「かまわん、かまわん、天狗でええんじゃ」
「ようないよ、名前教えて」
「蝉丸じゃあ、蝉丸。まぁ、忘れたらまた天狗でええさけ」
「忘れんよ、絶対忘れん」
蝉丸は背を向けたまま手を振って、そのまま小屋から出て行った。素直じゃないなと苦笑しながら、千太は土間で由良を背負いなおし、そっと夜叉ヶ池へと向かった。




