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嵐夜の禁忌

 水面の方を見上げる格好で、由良は水底に体を横たえている。

 上空にはやはり無数の蝶が飛んでいて、絶えず粉雪のような鱗粉が降り、水底に積もっていく。

 由良の身体は、その積もった銀色の鱗粉の中に半ば埋もれかかっていた。

 陽の光を孕んだ水面が波打つたび、今や水底と一体となった彼女の上に、光の波紋を描いていく。

 夢だろうか。身体が動かなかった。

 頭の中の思考の動きもまた緩慢で、ただただ、鱗粉の中に体が埋もれていくに任せている。

 ふと、横に誰かが立った気配がした。

 目だけを動かしてそちらを見ると、千太がこちらを見下ろしている。

 驚いて、何か話そうとするが、声がでない。

 千太は、すこし寂しそうに由良を見つめ、それから、自分の右の掌をそっと見やった。

 彼の目線の先の皮膚が、銀色の魚のうろこのようなもので覆われていた。

 掌だけではない、よく見ると、首から下の、着物から露わになっている皮膚という皮膚の上を、銀色のうろこがびっしりと覆いつくしていた。

 うろこはそれ自体が意思を持つ生命体のように蠢き、ゆっくりと、顔面のほうまで侵食しようとしていた。

 由良は恐怖で叫びたかった。けれども、声がでないのだ。

 その様子を、千太はじっと観察するように見ていた。


「由良、俺が怖いか?」


 千太が問う。由良は震えながら、変わり果てた姿の彼をじっと見た。

 その間にも、由良の身体の周りにはゆっくりと鱗粉が降り積もっていき、もはや彼女の指先と足先と顔面の表層だけを残して飲み込んでしまった。

 時間はゆるやかに過ぎていった。まるで止まっているようにゆっくりと。

 全身をうろこで覆われた千太を、心底恐ろしいと思った。だが、それは最初の数秒だけだった。長く、穴のあくほど見つめていると、不思議なことにその恐怖は薄れていき、そしてそこにいるのが、千太以外の何ものでもないことを発見すると、最初の戦慄は、雪塊が融解し変容するように形を変え、やがて別の感情になった。

 畏怖とも、恐怖とも異なる、胸が潰れそうになる感情。

 それに押し流されそうになりながら、由良は、瞬きをも惜しんで目の前の千太を見つめた。


「由良、俺が怖い(おそがい)か?」


 千太はもう一度同じ問いを投げかけてきた。

 由良は迷いなく、動かない首を振ってみせようとした。


 怖く(おそごう)なんて、ない。


 それだけが、唯一の言葉となって発せられた。

 声は、あたりの水を震わせながら大きく響き渡る。

 由良の全身が、鱗粉の中にずぶずぶと沈みゆく。

 その視界から千太が消える刹那、彼の顔が余すところなく鱗に覆われてしまうのが見えた。

 由良は力いっぱいに彼の名を呼んだ。


 その自分の声と、甲高い叫び声をあげて部屋の中へと吹き込む風の音が重なり、その風の音の方に引っ張られるようにして、由良は目を覚ました。

 ここがウネの隠居小屋であることを、嗅ぎなれた薬草の匂いで悟る。そのウネは、今は室内にいないようだった。嵐のせいであたりは薄暗く、今が一日のうちのいつなのか分からない。

 意識が鮮明になるにつれ、頭と左頬が脈打つように疼き、思わず顔を顰めた。

 この頬の痛みで、ぼんやりとしていた頭が冴えていく。

 そうだった、昨日山で迷って、千太に助けてもらい、村へと帰ったのだった。

 そして、この痛む頬は父親に殴られたのだった。

 村へ迷惑をかけた制裁の他に、父の逆鱗に触れたのは、自分を助けてくれたのは源助ではなく千太だという由良の主張だった。


 ――源助がおまんをおぶって山から下りてくるのを、村のみんなが見とるんじゃ! それを川向こうの間人に助けられたやと? この罰当たりが!


 父の怒声を思い出して、由良はとっさに手で口元を覆った。

 源助がさも英雄面して自分をおぶって帰ってくるのを想像するや、吐き気を催したのだった。横たえた身体を苦の字にまげてしばらくえづき、こらえる。

 自分は馬鹿だ。なぜあのとき、眠ってしまったのだろう。もし自分が起きていたなら、どんなことをしてでも源助の背を拒んだはずだ。

 吐き気が収まった頃に、次は猛烈な後悔が湧き上がってきて、由良は目に涙をにじませた。

 それから、水に沈んだり、浮かんだりしているかのように、浅いまどろみの中をしばらく揺蕩っていた。蟀谷がずきずきと痛むのに、瞼は鉛のように重かった。女が慟哭するような風の音が、気だるい耳朶を叩き、鬱陶しかった。


 次に目を開けた時には、外はとっぷりと日が暮れてしまっていた。風の音はだいぶ収まったものの、代わりに、今は叩きつけるような雨の音が響いている。


 部屋の中が、ぼんやりと明るいことに気づく。


 その光源の方へ寝返りを打つと、小さな油皿の灯の近くで、ウネが糸を紡いでいる。

 がたがたと家を揺らしながら風が吹き込むたび、その油皿の上の小さな灯がひゅっと細く鋭くなり、床に落ちるウネの影をいびつに歪ませた。


「起きたか」


 由良が身を起こす衣擦れの音に気付いて、ウネは糸を紡ぐ手を止め、こちらに這うようにして来ると、由良の額に自分のそれをくっつけた。


「まだ、熱いな。もう少し寝とれ」


 そう言って、由良の肩を優しく押すようにして布団の上に寝かせると、額から落ちてしまった手ぬぐいを取って、枕元の桶に汲んだ水に浸して搾り、額に押し当てるようにして載せてくれた。

 冷ややかな手ぬぐいの感覚が額に心地よい。

 そして手ぬぐい越しに額に感じる、ウネの手――指の付け根にできている豆が小石のように固く、皮の分厚い、働き者の手。

 慣れ親しんだその感触が、由良の心を静めてくれた。


「…おばばさま、おれ、熱出したんか」

「ほうや。疲れたんやろうで、ゆっくり休め。ああ、腹減っとらんか。山から帰ってきて丸一日、飯も食わずに寝っぱなしやったが」


 由良は首を振った。


「喉、乾いた」


 ウネは、小さな急須に水を汲むと、由良の半身を少し起こして、急須の先からゆっくりと飲ませてくれた。

 体に水分が染みわたっていくのを味わいながら、深い息をついて、また横になる由良を見届けると、ウネはまた糸を紡ぎにかかった。


「…おばばさま」

「うん?」

「ごめんなさい、迷惑かけて」

「おまんが謝ることでない。迷いとうて、迷ったんでなし」

「…うん」


 由良は、しばらく、祖母が糸を紡ぐ姿を見つめていた。


「…おばばさま、珍しいね。こんな夜更けに、糸紡ぎなんて」


 灯に使う油がもったいないので、日が落ちたらさっさと寝てしまうのが常だった。ウネは、うん、と生返事をして、


「今夜は、灯りを絶やしたらだしかんような気がしての。おまんが、ひどう、うなされとったでの…」

「え?」

「千太の夢、見とったんか。うわ言で、何度もあの子の名前を呼んどった」


 由良は天井で揺れる灯りの軌跡を眺めながら、夢の内容を反芻した。しかし、それは霞がかかったように朧気で、はっきりとは思い出せなかった。

 しかし、締め付けられるような感覚は、今も胸にはっきりと残っている。

 由良は、とたんにこみ上げてくる感情に戸惑った。喉の奥が焼けるようだった。


「…山でおれを助けておくれたのは、兄さなの。嘘でないし、夢でもない」

「うん、わかっとる」

「なんでみんな信じてくれんの。兄さが川向こうに住んどるから? 身内から業の人を出したから? それとも、龍の子やと思われとるから?」


 風が吹き込む音の合間に、由良は絞り出すように言う。ウネは糸を紡ぐ手を止め、由良の方をじっと見つめた。


「…好いとるんやね、あの子のこと」


 その声は、今まで聞いたどのものよりも、優しかった。

 由良の視界の中で、ウネの姿が揺れた。喉の奥から、熱いものがこみ上げてきて、目じりから零れ落ちた。それを何度も何度も手で拭いながら、ひとしきりすすり泣く間、ウネは何も言わず、糸を紡ぎ続けていた。

 やがて少し落ち着くと、こちらへ寄って来て、温かいお茶を飲ませてくれた。


「豆と麦を煮だいた茶や。これ飲んで、また休め」


 香ばしい豆と麦のまろい甘味が、口の中いっぱいに広がり、由良は一息つくと、また横になった。


「おおきに…。おばばさまは、まんだ、寝なれんの」

「うん…。こういう嵐の日はな、昔っからの癖で、なかなか、寝れんのんじゃ。嵐の日は、なんでか知らんが、命が動く。急なお産になったり、人が死んだり」


 糸を紡いでいるウネは、灯の光に照らされてはいたものの、光量があまりに弱弱しいので、表情をうかがい知ることはできなかった。

 が、しばらく手が止まり、物思いにふけったような静寂があった。


「…おばばさま、おれ、小ちゃい頃、夜叉ヶ池に行ったことがある?」


 ウネは糸を紡ぐ手を止めた。

 灯の光が、鼻梁の脇と頬骨の下と眉下の眼窩の部分に黒い影を作っている。その中で、垂れ下がった瞼の奥から潤んで鈍く輝く瞳が、灯のゆらめきを、瞬きも忘れて見入っていた。まるでそこに、遠い過去が映し出されているかのように。


「山の中で…不思議な夢を見たの。きっと、さっきも同じ夢を見とった気がする。水の底に沈んどる夢。ずっと上の水面の方を、蝶々の群れが飛んどって…」


 その時、ウネが由良の名を呼び、微かに首を横に振りながら、しぃっと唇から細く息を吐いた。


「…嵐の日はの、御池の話はしたらいかん。龍神様が気づいて、目を覚まされるやもしれん」


 いつもとは異なる低いウネの声音に、由良は、何か冷たいものに背を撫でられたようにぞっとして、口を噤んだ。


「…ずっと忘れていたことを、突然思い出すというのは、きっと何か意味があるんや。それが分かるときまで、誰にも、この話はしたらいかんよ、ええね」


 ウネの表情は詳らかにはうかがい知れなかったが、声が掠れていた。泣いているのか、と思ったけれど、目に光るものは見当たらなかった。見えなかっただけかもしれない。


「…うん、分かった」


 とりあえず由良は素直に頷いたが、まるで泥水が砂利に染み入るように、もやもやとした感情が体の深層にまで食い込んでくるのを感じた。


 ウネは、何かを知っているのだ。そして、彼女の反応を見るに、確かに自分はかつて夜叉ヶ池に行ったことがある。あの夢の光景は、かつてそこで自分が見たものなのだろうか…。


 由良がもう一度、あの光景を脳裏に描こうとしたその瞬間、風がいっとう鋭く叫び、灯が鋭く横に凪いで、消えた。

 目が眩むほどの濃い暗闇が小屋の中を包み、鼻をつく魚の油臭が充満した。

 由良を幻想の世界に誘おうとしていた小さな灯が消えたことで、たちまちに現実の夜が戻ってくる。


「さあ、もう、寝よまいな」


 いつものウネの声がする。さっきの声音とは違う、聞きなれた声だ。


 隣で、布団を敷く音がした。ウネが横たわった。しかし、その呼吸は一向に深くならない。先ほど本人が言っていたとおり、今日は嵐の夜だから、暗くしたところで簡単には寝られないらしかった。

 勢いを弱めた雨が静かに地面に跳ね、戸板の間から吹き込む風が、小屋の中の湿っぽく膿んだ空気を緩やかに隅へと押しやる。

 由良とウネは、並んで黙したまま、天井の暗闇を見つめている。

 父に殴られた左の頬が心の臓に合わせて脈うつ。熱を帯びた重い頭が思考を奪う。


 風が泣く度、薄れる意識を殴打するように、鱗に覆われた千太の姿が目の奥に蘇った。


「おばばさま…おばばさまは、エツさのととさまに付いて行かなんだこと、今も後悔しておいでる?」


 独り言のように、由良は問いかけた。

 ウネからは返事がない。

 風の音に紛れて、年老いて遠くなった耳には届かなかったのかもしれない。


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