水の底に灯る翅
沢の近くで足を滑らせたところまでは覚えている。それから、いったいどれほど転げ落ちたのだろう。
目を開けると、由良は山の斜面に仰向けになって倒れており、視界一面に、雑木の細い枝が影絵のように不気味に広がっていた。
その枝の先から冷たい夜露が垂れ落ち、由良の頬に微かな音をたてながら跳ねた。
全身、背中や肩や両方の脚が鈍く痛む。地面の雪が溶けて着物を濡らし、気持ちが悪かった。
呻きながら恐る恐る半身を起こし、あたりをゆっくりと見渡す。さっきまで雪の残る地面の上に木漏れ日が美しい模様を描いていたのに、すっかり日が暮れかけている。
しばらく気を失っていたようだ。
まだぼんやりとした頭で記憶をたどると、異様な姿をした天狗に追いかけられたことを思い出して、由良はぞっとした。慌ててもう一度ぐるりを見渡したが、姿は見えなかった。ひとまずはほっと胸を撫でおろす。
(早う、村へ帰らんと…)
立ち上がろうとした由良はしかし、鋭い悲鳴を上げて横向きに倒れこんだ。少しでも動こうとすると、左足首と右ひざに激痛が走る。足を滑らせたときにひねったのか、打撲したのか…。足だけでなく、背中や肩の痛みも相まって、呼吸をするたびに思わず口からうめき声が漏れる。
あたりの闇はどんどん深くなり、昼間のあたたかさがうそのように、凍てつく山の空気が容赦なく体温を奪っていく。
がさ、がさ、と時折周辺から物音がするたび、熊やイノシシのような獣のことが頭をよぎり、体が一枚の板になったように緊張した。息を殺してその物音をやりすごす。
由良は歯を鳴らして震えた。
両脚の痛み、全身を刺すような寒さ、そして心細さが、一度に押し寄せてくる。
(おばばさま…)
かすれた声が雪の中に溶けた。
腹ばいになり、腕だけで斜面を這い上がろうとするが、指先はすぐにかじかみ、力が抜ける。
そのたびに、胸の奥に「もう駄目かもしれない」という黒い思いが忍び込んでくる。
由良は肩で息をしながら地面に突っ伏した。
なぜかこのとき、目に浮かんだのは、千太の顔だった。
あの祭りの日の屈辱めいた寂しさが、冬の間ことあるごとに蘇り、由良を苛んだ。
どうして? という気持ちが強かった。どうして、あの日来てくれなかったの? おれが、あんなことを言ったから?
しかし一方で、もし千太を祭りに連れて行っていたら、千太を村のみんなの前で辱めることになったと思うと、自分の軽率さにも嫌気がさした。
やはり、村の者にとって、千太はずっと間人なのだ。どんなことをしてもそれは変わらないのだ。そう思うと、自分の無力さとともに、さらに千太が遠くに行ってしまうような気がしてならなかった。自分たちを隔てているあの川が、轟轟と逆巻き、吊り橋を飲み込み崩してしまうような気がして恐ろしかった。
(もういっぺん、会いたい、兄さに…)
しゃくりあげながら、由良は山道を這った。
熱い涙がとめどなく頬を伝い、地表の薄い残雪を溶かしていった。
そのとき、視界が揺らぎ、雪明かりの中で何かが舞った。
白……ではない。淡い光を帯びた翅。
銀色の鱗粉が粉雪のごとく舞い、闇の中で煌めく。
――蝶?
風に葉がそよぐ音も、虫の声も、すべてが静まり返り、地に積もった雪がほの白く発光して闇を照らしていた。
その中を、光の粒のような一羽の蝶が、ひらひらと飛んでいく。
その動きに導かれるように、由良は痛む脚を引きずり、雪を蹴った。
湧きたつような濃い水の匂いが鼻腔をつく。
その瞬間、足元が崩れた。
身体が宙に浮き、冷たい闇の中へ落ちていく――。
ざぶん、と音がした気がした。白い泡とともに、視界がぼやける。
頭上の水面は、陽の光を受けて、碧、青、灰色と刻々と色を変えている。
気づけば、由良は水底にいた。
周囲は月光のような青白さに満ちている。
水面を仰ぐと、無数の白い蝶が飛んでいる。その翅から零れる銀色の粉が、指先に触れるたび、冷たさではなく温もりを運んでくる。
――夢…いや、ちがう。おれは、この景色を、見たことがある…
足元には鱗粉が降り積もって白く輝き、波紋はゆるやかに広がっていく。
遠くでだれかが自分を呼んだような気がして、由良は顔を上げた。
けれど次の瞬間、視界は再び暗転した。
冷気が骨に染み、風の音が戻ってくる。
そこは、さっきまでいた山の斜面だった。
全身が泡立ち、汗が噴き出している。
ぽきり、と枯れ枝の折れる音がする。
雪の上に灯りが差し、影が伸びる。
そこに現れた人物に、由良は言葉を失う。
「…由良…由良かっ?」
松明の灯に照らされたその顔を見上げた瞬間、由良の双眸から大粒の涙があふれ出た。
「…千太の兄さ?」
自分の名を呼ぶ声が別人のように低くなっていたが、まさにそこに立つのは千太その人だった。
「うん、俺や。大事ないか、どっか怪我しとるんか」
しゃくりあげながら滂沱の涙を流す由良を案じて、千太は血相を変えてしゃがみこむ。
「痛いんか、どこを怪我した?」
「…脚を…」
由良がやっとのことで答えると、千太は松明をすぐ側の岩に立てかけ、早速由良の脚の具合を調べにかかった。
「あの、兄さ…」
話しかけようとする刹那、千太が由良の左足首をわずかに持ち上げた。鋭い痛みが走り、思わずうっとうめき声が漏れる。
「見たとこ…たぶん捻挫やろうな。右足は…膝の外側が黒くなっとる。でも…」
千太はほっとしたように小さく息をつき由良を見上げた。
「えかった…。骨は折れとらん」
「うん、これなら、ちぃと動かずにおれば治るわいや」
同調しつつ千太のうしろからぬっと現れた少年に、由良はひっと悲鳴を上げる。
その反応を見て、千太はため息をつきながら肩を落とす。
「由良、安心せえ、こいつは天狗でのうて、人や」
「…え、人…」
「うん。俺んとこにたまにくる筅すりや。けっして怪しいやつでは…」
言いかけて千太は言葉を飲み、隣でニタニタと笑みを浮かべている蝉丸を見た。怪しい奴ではないと胸をはって言いきれない、そこはかとない胡散臭さが漂っている。
「おい、なんや千太、そんな顔して。わしより、おまんの方がよっぽど怪しいが。なんで、ここにこの子がおること分かったん? 途中から、迷いもせず山道突っ切りよって」
由良も、問いかけるように千太の顔をじっと見た。
「…なんとなく」
とだけ、千太ははぐらかすように答える。
「…兄さ、もしかして、大勢の蝶々が飛んどるのが見えなんだ?」
「蝶々…いんや。ただ俺は、本当になんとなく……水の匂いに混じって、おまんの匂いがしたもんで…」
言いながら、千太は少し顔を赤らめた。
「匂い? 水の匂いがしたの? 本当に?」
由良は、灯の光で揺れる千太の顔を見つめた。頭の中に、龍の子、という言葉が、水滴のように落ちてくる。
「さあ、はよ山を降りよまい。ウネさも心配しておいでる」
千太は話題を打ち切るようにそう告げると、由良をそっとおぶって、立ち上がる。
「おばばさまに言われて、探しにきておくれたの?」
「うん。村の者らも、総出で西山の方を探しよるみたいや」
「帰ったら、叱れるやろうなぁ…」
由良が背中でため息をつく。
「叱れてもなんでも、無事でえかった」
千太はまだ雪が残る斜面を登って行きながら励ましたが、つと足を止めた。肩口が生温かかった。由良の涙が、衣を濡らしていた。
「……兄さに、嫌がられとると思っとった。祭りの日、来ておくれなんだから」
その声は、かすかな怒気を孕んでいた。
「どうして、来ておくれなんだの」
「………すまん。前の日に、ととさまが亡うなって…」
肩越しに、えっと由良が息を飲む気配がした。千太はしかし首を振る。
「…いんや、それはただの言い訳じゃ。俺は…勇気がなかったんや。おまんの気持ちを受け止める勇気が…。おまんとは、生きる世界が違うんやと、ととさまが死ぬのを見て、改めてそう思ってしまって…」
千太はそこで言葉を切り、残りの坂道を登り切った。彼の背後から、松明を持った蝉丸が黙々とついてくる。
「…おれな、さっき山の中で、兄さの事呼んだんよ。このままここで死んだら、もう二度と会えんのやと思うと、身を切られるようやった。そしたら、まさか兄さが助けにきてくれるなんて…、おれ、嬉しかったんよ。兄さは? おれを見つけてくれた時、どう思った? 嬉しゅうなかった?」
しばらくの沈黙が、雪を踏みしめる足音を際立たせる。
「…嬉しかったよ」
千太は、掠れる声で答えた。
「嬉しかった。俺も、おまんに会いたかったよ。それに、あの日待ちぼうけさせたことを、謝りたかった。…すまなんだね」
背中から、ほうっと息を吐く音がする。
「なんで兄さがそう思ったか、おれは分からんけど…、おれらの生きる世界なんか、変わらんと思っとる。ただ、川で隔てられとるだけ。きっと、それだけなんよ。遠いと思えば遠いけど、近いと思えば近いの。そうなんよ、きっと」
由良は、千太の背に頭を預け、まるで自身に言い聞かせるようにそう言った。温い背中で揺られているうち、張り詰めていた糸がゆるゆると弛緩していく。やがてやってきた気だるいまどろみに、そのまま身を委ねた。
「…おれ、思い出したの。ちいちゃいころ、夜叉ヶ池に行ったことがあるって…兄さ、今度、おれといっしょに御池に行こう。約束じゃ…」
独り言のような由良の声が、尻すぼみになったように消えていった。
由良の方へ松明を掲げた蝉丸が、
「おい、こいつ、眠っとるぞ」
のんきなやっちゃなーと呆れながら、千太の顔を覗き込む。
「あれえ? おまん、なんか顔が赤いぞ?」
「…別に。その灯りのせいやろ」
「いやいや、赤いって、ほら」
「熱いわ! 火近づけんなや!」
千太は蝉丸から逃げるように山道を下った。
やがて見えてきた沢にそって、村の方へと降りていく。
満天の星の下、集落の灯りが遠くに見えてきた。
そのとき、行く手の岩陰から、橙色の光が雪の上に長い影を揺らしているのが見えた。その影はやがて人型になり、こちらへ近づいてくる。
「おい」
と、ひときわ大きな影が、こちらを威嚇するような低い声を出した。
その声だけで、それが誰であるかが分かった。取り巻きふたりが松明をつけると、こちらを睨む源助の、厳めしい顔が闇の中に照らし出された。
「川向こうの門人、おまん、由良に何した」
源助が、千太の背中のほうを顎でしゃくる。
こうして面と向かって対峙すると、源助の迫力に圧倒される。それは体のでかさだけではない、身に纏う気配がただ者ではないかんじだ。
しかし、怯みそうになる心をぐっと抑え込み、それをばねにしたようにずいと前へ出ると、千太は真正面から源助を睨みつけた。
先ほど耳にした、この男の由良を愚弄する言動を思い返し、腸が煮えくり返る思いがする。
「由良に何したんかって、聞いとるんじゃ」
「…なんもしとらん。山で怪我して動けんようになっとった由良を見つけて、運んできただけや」
「ほうや、今は眠っとるだけや。気ぃ失っとるわけではないさけ」
と、蝉丸が千太にかぶせるように補足する。
「由良をこっちに渡せ。こっから先は、俺らで村まで運んでやる」
「やなこった!」
と、千太より先に声をあげたのは、また蝉丸だった。
「わしらが先に見つけたんじゃ。おまんら、それを横取りする気け?」
「なんやて?」
「ほんで、さも手前らが助け出しましたって顔で、褒美でももらおうって魂胆なんろ、わしにはお見通しやわいや」
「なに言う、生意気な乞食風情が」
ほうじゃ、ひっこめ、この薄汚い乞食め、と、源助の左右に控えている喜助と与一が合いの手を入れる。
蝉丸は、源助らをおちょくるようにくっくと笑いながら、千太に目くばせした。
「おい、今のうちはよ逃げまっし。もっぺん山の方へ戻りゃあ、撒けるかもしれんで。こいつらは、わしができるだけ引き留めたるさけ」
そう興奮気味に囁く蝉丸の肩を、千太はぎゅっと掴み、一歩前へ進み出た。源助は口元に余裕の笑みを浮かべている。
「おい間人、おまん、そうやって由良をおぶったまんま、村へ行く気かよ? 行けるとでも、思っとるんか、え?」
千太の目に動揺の色が浮かんだのを、源助は見逃さず、さらに畳みかけた。
「おまんにおぶわれたまま村へ帰ったら、今度こそ由良は爪はじきもんやぞ。わらび採りに行くふりして、おまんと仲良うしとったなんて噂でも立ったら、どうなるかのぉ」
千太は唇を噛みしめて、源助の細く冷ややかな目を見据えていた。
悔しく、不本意だが、返す言葉が見当たらない。
首筋に、由良の赤ん坊のように無垢な寝息を感じながら、そうだ、と千太は思いなおす。自分は何に意固地になっているのか。今は、由良を早く家に帰して、手当を受けさせてやるのが最優先ではないか。
「…分かった。頼む」
えっ!と隣で蝉丸が声をあげる。
「なあ、おまん、源助やろ」
千太は源助をまっすぐに見据えた。
「由良は、おまんのこと高う買っとるんや。ええか、もう二度と、この子を馬鹿にするようなこと言うなや。次言ったら、俺が承知せん」
源助は、煩いハエの羽音をひと吹きするかのように鼻で笑うと、与一らにむかって顎をしゃくった。それを合図に、取り巻き達がやってきて、千太の背中から、由良の体を下ろしにかかる。
幸い、由良は熟睡して起きる気配がなかった。
「痛めとるのは、左の足首と右の膝や」
由良を引き渡しながら、怪我の箇所を端的に説明するが、与一らはこちらを見ようともしない。かわりに、
「ああ、こいつら、臭いのぅ。いっしょにおると、臭いが移る。はよ行こまい」
と、鼻をつまみながら遠ざかっていった。源助は由良を背負うと、最後こちらに冷ややかな一瞥を投げ、そのまま闇に溶けて見えなくなった。
隣で蝉丸が、これ聞こえよがしにため息をつく。
「あーあ、なんか白けるわいや。せっかく獲った魚を、後から来た奴にやすやすとくれてやるようなことしよってからに」
千太は岩にたてかけておいた松明をとり、踵を返す。
「…悔しいけど、あいつの言うとおり、俺といっしょに村に帰ったら、由良がいじめられるでな。ああするしかなかったんや」
「なんじゃあ、いじけたこと言いよる。あれ、おまん、また泣いとるんけ」
「泣いてなんかおらん」
怒ったように蝉丸から顔をそむけたが、今ここに彼がいてくれてよかったと思った。源助らから踏みにじられて、ここにひとり残されていたら、心がすっかりくじけていたかもしれない。
千太が歩き出すと、蝉丸は黙って後ろからついてきた。
蝉丸の腰に結わっている熊鈴が、沢の轟轟という音にも負けず、涼し気な音をたてる。
「さっき聞こえてんけど…親父さん、亡うなったんけ」
沢をしばらく無言で歩いていると、背後から蝉丸が改まったように訊いてきた。さっき由良との会話を後ろで聞いていて、ずっと口に出すのを我慢していたようだった。
「…うん」
「いつ?」
「冬が来る前じゃ」
「…ほうか」
蝉丸はそれ以上理由を訊いてはこなかった。藤六の病のことを、彼は知っていたから、自ずと理由は推測できたのだろう。病がばれて放擲されたか、あるいは…――
近くで、梟の鳴く声がする。
こうして山道を歩いていると、藤六が隠れている洞にわずかな食い物をもって通った日々のことが思い出された。そして、あんな形で父を失うまで、何もできなかった自分の無力さが身に染みた。自分にもっと甲斐性があれば…生きる力があれば…この蝉丸のように。
「まあ、そう気を落とすなよ。人は、遅かれ早かれ、みんな死ぬんじゃ」
蝉丸が、まるで今日の天気のことを話すようにあっけらかんと言う。
「季節が廻れば、草木も枯れる、虫も死ぬ。それと同じことじゃ」
もしこれを他の誰かに言われたなら、迷わず殴り飛ばしていた事だろう。が、蝉丸が言うと、なぜか肩の荷が下りたような感覚になる。
不思議な少年だと思う。見たところ年齢は千太とそう変わらないように見えるが、いったいいつからどんな事情で、たったひとりで流浪の旅を続けているのだろう。
こんな世の中で、子供がひとりで生きていくのは並大抵のことではない。
いつか、もっと仲が深まったときに、お互いの腹を割って話せるときがくるだろうか。千太は歩を緩めて、後ろにいた蝉丸と並んで歩いた。
「今晩、俺ん家泊まるんやろ?」
「うん。そうさしてもらう」
「どんくらいおるんや」
「さぁての、風の吹くまま、気のむくままじゃ」
「…蝉丸は、ずっと旅を続けるんか」
蝉丸は空を仰ぎ見た。千太もつられて目を上げる。木立の間から、黒地に白い砂を撒いたような一面の星がのぞいている。
「~長柄の橋をうち渡り、太田の宿、塵かき流す芥川、夜はまだ深けれど月は高々と高槻や、行く先は山崎の宝寺、関戸の院を伏し拝み、鳥羽に恋塚、秋の山…」
蝉丸は突然節をつけて歌い始めた。
「しんとく丸の一説や。語りをやっとると、色んな場所の名前が出てくるげんろ? ほうすると、ああ、わしがまだ見たこともないとこが、ようけあるんじゃなぁ、行ってみたいなぁと思うわけよ」
千太は蝉丸の視線を追って、まもなく闇へ溶けようとしている遠くの山影を望んだ。
あの山の向こうにも村があり、知らない人々がそれぞれの暮らしを営んで生きている。そう想像した瞬間、狭く閉塞していた世界が色を帯び、下を向いていた心が、ふわりと宙に浮かんで、飛翔した。
自然と頬が緩み、笑みが浮かぶ。
「…俺も、いつか行ってみたいな」
「ほうやけんど、それにはある程度、コレがいる」
蝉丸は薄い眉毛を八の字に曲げ、人差し指と親指を合わせて丸を作った。
「貯まるんかね」
「貯めるんじゃ。どんだけかかっても」
沢から千太の家へと続く竹藪を抜けると、いてもたってもいられず、家の前でうずうずと帰りを待っていたエツが、倒れこむような勢いでこちらへ跳ねてきた。
「千太、よう帰ってきた。心配した…」
エツは、まるで数年ぶりの再会のように千太の細っこい体をさすりながら、今にも泣きだしそうな勢いで喜んだ。
「かかさま、大袈裟じゃ」
「由良はどうなった?」
「無事に見つかった。脚に怪我しとったけど、たぶん、大したことないわ」
「そりゃあ、えかったけども…おまんが見つけたんか? 村まで連れてったんか?」
暗に、ひどい目に遭わなかったかと訊かれているのだ。千太はエツを安心させるために、努めて口角をあげ、笑顔を作った。
「村には行っとらんよ。途中で村のやつらに会って、由良を預けてきた」
エツは千太の肩に寄りかかるようにして、深い安堵のため息をついた。
「あ、かかさま、今日は客がおる」
「客?」
「うん、山ん中で会って、いっしょに来たんや」
そう言われるまで松明を消して隠れていた蝉丸が、竹藪の影から飛び出してきた。
「ながいこって(お久しぶりです)、エツさ」
「ありゃあ、蝉丸!」
途端に、エツの顔が、ぱっと輝いた。よく来た、飯を食っていけと、蝉丸を家へ招き入れるエツは、まるで少女のようにはしゃいでいる。その様子を見ながら、千太は改めて、蝉丸が今日ここにいてくれることに感謝した。
家の戸をくぐる前に、千太は村の方角を見やった。
由良は今ごろ、無事に家に着いただろうか。大事な孫娘を迎え、ウネはきっと、泣いて喜んでいるに違いない。
先ほどの由良の声が、もう一度耳朶に響く。
自分達の世界は違わないと言った彼女の言葉が、自分の卑屈さを浮き彫りにした。
勝手に壁を作っていたのは、自分の方だったのかもしれない…。
その思いに浸った瞬間、足首を誰かに掴まれた気がして、千太はぞくりとする。
地面から伸びた藤六の朽ちかけた手。
幻だと分かっているのに、体は硬直し、目を閉じることしかできなかった。
やがて手がゆっくりと消えた後も、胸の奥には冷たい震えが残った。そして、鼻腔の奥に貼りついているあの水の匂い。藤六が息絶えた、夜叉ヶ池の匂いだ。
それが、先ほどの山中での不思議な体験の記憶を呼び起こす。
あの時、たしかに自分は、なにかに導かれるようにして由良のところまでたどり着いた。
なぜあんな山の中で、あの、むせぶような水の匂いがしたのだろう。
そして、由良が寝ぼけて口にした言葉が、不思議な響きをもって心の中にひっかかっていた。
――小ちゃい頃、夜叉ヶ池に行ったことがある
「龍神様…」
千太の唇が自然に動く。
「もしかして、由良を知っておいでるのですか? あの子を、助けておくれたんですか?」




