咲いてはならぬ花
気良荘・白山中宮社は、白山への美濃禅定道の起点となる霊場である。
そこに仕える巫女・有馬は、見回りも兼ねて、早朝に境内を散歩するのを日課としている。
冬が明けたばかりの朝の空気はまだ冷たく、頬をちりちりと刺すようだ。
有馬は、冬明けの静かな境内が好きだった。夏には道者たちの声で騒がしいこの社も、今はひっそりと静まり返り、冷たい空気に神気が満ちている。
「あれ…もう咲いておる」
有馬は、レンギョウが可憐な黄色い花を咲かせているのに目を留めた。
朝方に降った雨を受け、新緑の葉はなお瑞々しく輝いている。花びらの先にそっと指先を触れながら、その鮮やかな黄色に目が喜ぶのを感じ、思わず、頬がゆるむ。だが次に、ふと足元の水たまりに映る自身の姿を認め、眉間に皺をよせた。
(また、白髪が…)
しゃがみこんで水面をのぞきこみ、鬢のあたりを撫でつけ、小さく嘆息する。
(ひと冬越すたんびに、白いもんが増えてく気がするなぁ…)
齢三十半ば程の有馬だったが、若白髪のせいで実年齢よりも幾分か老けて見えた。かつて白山中宮に美麗の巫女ありと国中で噂された絶頂を経験しているだけに、この落差はいっそうわびしいものがあった。
立ち上がろうとした矢先、水たまりの傍に旺盛に咲き茂っているホトケノザの中で、一本だけ根腐れを起こして萎れているものが視界に入った。有馬は、それを憑りつかれたように凝視した。そこに近い将来の自分を見たようで、静かな恐怖に苛まれ、動けなくなってしまったのだった。
「…ま…有馬様…」
刹那遠のいていた意識の中に、自分の名を呼ぶ声が入ってきた。
はっとして振り返った有馬は、そこに立つ藤六を認めて、無意識に身構える。
藤六は、有馬と目が合うなり深々と頭を下げた。
「有馬様、じつは、うちのかかが身ごもりまして。産むときに、ご祈祷を頼めんかと思いまして…」
そう言って、藤六はおずおずと、節くれだった両手を差し出した。その手にはしっかと麻袋が握られており、かすかに、銭が擦れる硬い音がした。
「これで、なんとか、頼めませんかの」
有馬はそのほっそりとした美しい手で麻袋を受け取ると、藤六に気取られないように軽く上下に揺すって、中の銭の量をおおよそ確かめてみる。それが思いのほか多いことに驚き、この男がこの村に流れてくる以前は人買いをしていたという噂が刹那脳裏をよぎった。だが有馬はそれをおくびにも出さず、麻袋をそっと懐に入れた。
「いつ頃産まれるんやな?」
「取り上げ婆の話やと、夏の終わり時分やということです…」
「ふぅん、夏ね」
「お願いできますか」
「まあ、銭をもらったでの」
「…おおきに、よろしゅう頼んます」
藤六はうなじが見えるほど頭を下げ、踵を返した。
藤六と入れ違いに、わらびがいっぱいに入った籠を背負った三人の女たちが、有馬を取り囲んだ。
「有馬様、今の、川向こうの藤六やろ? 何しにきとったの?」
目を爛々とさせた女たちの勢いに気圧されつつ、有馬は面倒そうに小さく息をつくと、藤六の用件を聞かせてやった。
女たちはわっと声をあげて、互いに顔を見合わせる。
「やっぱり、あの噂は本当やったんや。エツが孕んだっていう、あれ」
「龍神様へお百度参りして子を授かったという、あれか」
「龍神様へのお百度…」
有馬が呟くと、女たちは大げさにうなずいた。
「ほうですよ、有馬様、ご存知ないんかな? エツが夜叉ヶ池に子宝祈願に行きよったの。しかも、夜に」
「もちろん知っとる。何度も止めたが、あの女、どんにも聞く耳をもたなんだんじゃ」
「ほれがですよ、有馬様」
女のうちのひとりが、これぞとっておき、と言わんばかりに声を落とす。
「通っとったのは、本当に夜叉ヶ池か、ということですわい」
「…というと?」
「お百度と見せかけて、どっかの男に夜這いをかけに行っとったんじゃ。みんな、そう言っとります」
女は、得意げに鼻をひくひくと動かした。のこりの女たちも、色の話に思わず身を乗り出す。
「もしそうなら、藤六が気の毒やの。見たか、あの人、この冬でまた一段と、痩せがひどうなったと思わん?」
「自分の食うぶんまで、腹ぼてのエツに食わせとるんじゃろう」
女たちの話を聞きながら、有馬は先ほどの藤六の様相を改めて思い出してみる。
確かに、この冬で藤六はひどくやつれた。頬はさらにこけ、目だけが飢えた獣のようにぎらついている。有馬はその容貌に見覚えがある。そうだ、お堂の地獄絵図に描かれた餓鬼そのものではないか。
「エツなんかと夫婦になった報いじゃ」
有馬がぽつりと呟くと、それまで姦しく騒いでいた女たちが、水を打ったように静かになった。
女たちの目線の先で、有馬はあらぬ方向をぼんやりと眺めている。その目は歪み、鋭い光を放っていた。有馬は今、いつぞやのエツの姿をそこに見ていた。秀麗な眉目を激しく歪め、ほとんどこちらを呪うように睨みつけている、おぞましい顔を。
「わしは言ってやったのよ、おまんに子ができんのは、それが神仏のご意思やもんでやとな。つまりおまんは、子を産んではならん女なんやとな。それをまさか、あろうことか夜叉ヶ池にお百度をして子を授かるとは……」
有馬は吐き捨てるように言った。
「きっといつか、この村によからぬことが起こるであろうよ」
苦虫を嚙み潰したような顔で虚空を睨みつけている有馬に空恐ろしいものを感じたのか、女たちはそそくさとその場を去って行った。
ひとり残された有馬は、咲きほこるレンギョウの花をじっと見つめている。
「春になれば、花が咲く。だが、咲いてはならん花もある…」
エツがその腹に子を宿した――それだけで忌々しい。だがそれ以上に、有馬を震えさせたのは、龍神に祈って孕んだという事実だった。やがて生まれてくるその子とともに、禍々しいものがこの世に放たれるような気がして、有馬は居ても立ってもいられなくなった。
ぱっと身を翻すと、お付きの巫女である凪を呼びつけ、祈祷の準備をするよう命じたのだった。