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灯と雪のあいだ

 藍色をした空が、影絵のように黒々と縁どられた山際のあたりで、夕暮れの名残を帯びた橙色と溶け合っている。

 

 そのちょうど色が混ざり合うあたりに、ぽっかりと満月が昇っている。

 

 道祖神のところから村を望むと、既に暗闇に沈みつつある集落の中で、松明の火にひときわ明るく照らし出される白山中宮の甍が朧気に見えた。

 

 由良は、道祖神の隣のトチの樹の根元に腰掛け、千太を待っていた。

 

 この祭りのために、新しい萌黄色の小袖に袖を通してきた。新しい――といっても嫁いだ次姉のおさがりだが、袖を通した瞬間、胸の奥が少し高鳴った。

 

 千太は気づいてくれるだろうか。似合うと言ってくれるだろうか。


 袖の端を眺めていると、ふとうなじのあたりに視線を感じ、振り返った。道祖神の柔和な微笑みと目が合った気がして、由良は頬を赤らめる。


「…おかしいでしょう、道祖神様」


 はにかみながら、小さく声をかけた。


「さっきから心の臓が跳ねて、ちっとも静まってくれんの。こんなの、はじめてで…。兄さに会えるのは楽しみやけど、怖くもあるんです。村のみんな、どんな顔するやろう…。お政は怒るやろうか。源兄は、兄さのことをええ人やって分かってくれるやろか…」


 言葉に出すと、不思議と少し勇気が湧いた。神様の微笑みが背中を押してくれているようで、由良はそっと手を合わせた。


「もう少し、ここで待たせてくださいね」



 風が強くなり、葉がざわめく。

 ほの明るかった山際の空は、じわじわと藍色に飲み込まれ、頭上の色も刻々と夜の闇へ沈んでいく。


「……遅いなぁ、兄さ」


 胸の奥に、小さな棘のような不安が刺さる。

 もしかして、前に突然あんな告白をしたから、困らせているのだろうか…それとも、今日ここで待っていることがうまく伝わっていなかったのだろうか…。


 梟の籠った声が闇の奥から響き、背筋を撫でた。

 次の瞬間、頭上で羽音がして、由良は肩をすくめる。数羽の鳥が枝に停まった気配と同時に、けたたましい鳴き声が降ってきた。

 慌てて立ち上がった拍子に、道祖神の顔が目に入る。さっきまで柔らかく見えた微笑みは、闇の中で形を曖昧にし、不気味な気配を帯びていた。


 急に心細くなり、由良は足を畦道へ向けた。

 

 白山中宮に近づくにつれ、松明の灯りが足元を煌々と照らし、笑い声や囃子が押し寄せる。

けれども胸の中は、かえって冷えていった。途中で出会った友達に囲まれて歩く道も、今ここに千太がいない事実が、胸を締めつけるばかりだった。


 白山中宮の鳥居で源助らと合流する。

 源助はあたりを見回し、由良がひとりなのを確認すると、鼻で笑った。


「なんや、やっぱあの間人は来なんだか」

「あーあ、残念や」

  与一がわざとらしいため息をつく。

「子供組に入れるかもしれん、千載一遇の機会やったのになぁ!」

「まあ来れんやろうなとは思っとったわ」喜助が笑う。

「おい、そんな小馬鹿にするな」源助が口を挟む。「自分の立場をようわきまえとる、()()()やないか、その千太いう間人は」

「あ、ほんまやな」

「子供組に入れさせてもらえるかもなんて期待して、のこのこ出てくるような身の程知らずやなかったわけや」

 

 嘲笑が焚き火のはぜる音と混じって耳に刺さる。

 その背後で、政がこちらに氷のような一瞥を投げ、男たちの後を追った。

 由良の胸の奥で何かが軋み、全身を掻きむしりたい衝動が込み上げる。

 源助だけではない。村の子供らみんなに、そして――何より千太に裏切られた気がした。


「祭りなんて、来んければえかった…」


 ぽつりと呟き、由良は闇の中へ駆け出した。



――その頃、千太は白山中宮の裏手に当たる山の樹の影から、人々でにぎわう境内の方を見おろしていた。

 揺れる松明の灯りと、人いきれが混じりあい、漆黒の空へと匂い立つ煙のようにゆらゆらと立ち昇っている。

 はぜた火の粉が闇にぱっと散っては、すぐに吸い込まれる――その儚さが、目に沁みた。

 あの輝かしい光の輪の中に、由良もいるのだな、と思うと、胸の奥が鈍く疼く。

 いま行けば、きっと見つけてくれる。そう思った刹那、足が一歩、下へ向きかけた。

 だが、すぐに引き戻す。行ってはいけない、と胸の奥で誰かが囁く。


 由良と自分の生きる世界は、決定的に違う。その断絶は、貧しさや立場といった言葉では覆いきれない。もっと、宿命めいたものだ。


 父の草鞋を抱えた感触が、ふいに腕の中に甦る。

 

 耳の奥で、父の掠れた声が蘇る――これは、おまんのなれの果て……おまんの業は、すでに骨まで染みとる……。

 

 境内の松明の火が、あの洞の闇の先でゆらめく夜叉ヶ池の水面の光と重なった。祈りはあまりにも無力だった。龍神様は、父を救うどころか、その命を飲み込んでしまったのだ。

 

 千太は懐から、あの純白の石英石を取り出した。

 

 指先にひやりとした冷たさが伝わり、目の裏に、由良の笑顔が――八重歯をのぞかせ、目を細めて笑う、あの光そのもののような笑顔が蘇る。

 石英をもう一度懐に戻そうとしたとき、また、誰かの声がそれを止めた。

 それは自分の声のようでも、母の声のようでもあった。

 

 胸を締めつける痛みに耐えながら、石英石を握り締め、千太は目を閉じた。

 やがて掌をひらくと、境内の方へと石をそっと放った。

 石英石は、煌々とした祭りの灯の中へ、静かに溶けていった。音もなく、影も残さず。


 千太は月明かりの下、山を下りた。

 その先には、灯の消えた家と、足を悪くした母が待っている。

 逃れられぬ重みが、凍てつく夜気よりも深く、背にのしかかった。


 その翌日の深夜から、村には雪が降った。

 ひらひらと舞っていた雪は、やがて本降りになった。

 たちまちのうちに、村は深い雪で閉ざされた。

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