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水底の影

 肌に心地よかった秋の空気は、徐々に肌をちりちりと刺すような寒さへと変わりつつある。月一の市庭にエツの作った草鞋や籠を売りに行った道すがら、千太は空に向かって息を吐いた。白くなった息は大きくくゆってから、いわし雲が連なる空へと消えていった。戯れに、二、三歩進むごとに一息ずつ、そうして口から煙を噴き上げながら、家までの道を帰ってきた。


 そうでもしないと、気が晴れなかったからだ。今日も、売れ行きは芳しくなく、たいした銭は得られなかった。得た銭でいつもは腹の足しになるような団子などを買って帰っていたが、それすらも買うことができなかった。


 ただ、唯一その千太の心を和ませたのは、村を横切る際、偶然見かけた由良の姿だった。村の端の道を通るので、遠目ではあったが、父親らしい人物とふたりで、軒先に芋づるなどを干して冬支度をしているのが見えた。確か、子を産んだばかりの母親が産後の肥立ちが悪く動けないので、その分の仕事をこなさねばならず大変だと話していたことを思い出す。焼けた肌に滲む汗を拭いながら、わき目もふらず黙々と作業をしている由良を、心の中で励ましながら、千太はこそばゆいような気持ちになる。そして脳裏には、先日の告白と明日の満月の夜の約束のことが思い出されて、また気持ちがそわそわと浮足立った。


 明日、由良に会った時、一体どんな顔をすればいいのだろう。前みたいに普通に話せる自信がなかった。それに、果たして、自分が祭りになんて行っていいのだろうか、彼女はそこで、自分を源助になんといって紹介するつもりなんだろう…。


 そんなことを悶々と考えながら歩いていたら、村から家までの道のりは、まるで一瞬のようだった。


「帰ったよ」


 戸を開けると、埃臭い家の中にさっと光が差す。


 売れ残った籠やらを背負子から取り出して玄関近くの比較的風通しがいいところに重ね置きながら、千太はふと妙な違和感を覚えて、もう一度家の中を見回す。


 母がいない。用足しかと思ったが、そうではない。ここに、長く留まっていた気配がないのだ。


 虫が胸の中を這いまわるような、嫌な胸騒ぎを覚える。


 家を飛び出して母の名を呼びながら周囲を探しまわった。


 裏のおせどにもいない。川の方にもいない。まさかと思って烏帽子山の方へと登っていくと、おぼつかない足取りで、鹿杖にすがるように下ってくるエツに鉢合わせた。


 そのしぼんだような頬に、涙の跡が克明に刻まれているのを見て、千太は足が地に釘付けられたように動けなくなった。

 エツの泣き腫らして赤くなった目が、その前方に肩で息をしながら顔を強張らせている息子を捉えて、慄いたように歪んだ。その瞬間、足元から湧き上がってくる震えとともに、ある直感が、落雷のように千太の中を貫いた。


「ととさまに、なんか、あったんか…?」


 エツは鹿杖によりかかるようにして、なんとか立っていた。そして、体中を震わせ、滂沱の涙を流しながら、息子と対峙する。


「ととさまが、おらんようになった」


 千太の顔が、悲痛に歪んだ。

 そのまま、弾かれたように山の斜面を駆けあがっていこうとする千太の肩をエツが掴んだ。


「行くな、千太、行ったらいかん…。ととさまは、遅かれ早かれ病に喰われる身や。それを分かって、お隠れになったんや。最後くらい、ととさまの好きにさしたれ」


 千太は、エツの手を振りほどいた。涙を溜めてこちらを睨み据える千太の形相に、エツはそれ以上言葉をかけることができなかった。そのまま樹々の向こうへと消えていく息子を黙って見送ると、急に体から力が抜け落ち、その場にずるずると崩れ落ちた。


 体中が鉛のように重かった。両のこめかみが割れるように疼くたび、最期の藤六の泣き笑いの顔が鮮明に目の裏に去来する。


「…龍神様」


 エツは、すがるようにつぶやいた。


「龍神様、こうするしかなかったんです、こうするしか…」



 堆積した落ち葉に足をとられ、千太は何度も転びかけながら山を駆けのぼり、最後は倒れこむ様に、洞の入口に両手をついた。


 ひゅうひゅうと鳴る喉の奥から、めいっぱいの声をからげて父を呼ぶ。


「ととさまぁ、ととさまぁ!」


 しかし、その声は、がらんどうの薄暗い洞の中に虚しく反響するだけだった。


 別の場所を探すため立ち上がろうとした千太は、左の足の裏に鋭い痛みを感じてうずくまった。見ると、土踏まずの部分が、ざっくりと切れていた。傷の長さは小指の第二関節までくらいだった。一心不乱にかけてきて気づかなかったが、途中でとがった枝でも踏んだのだろう。その傷を見た瞬間、今まで血が上っていた頭が、急にキンと冷え、冴えていくのを感じた。


 そこに心臓でもあるかのように激しく疼く左足に、裂いた袖布を巻きつける。止血した傍から布地ににじんでいく自分の血を眺めながら、父の足の怪我を手当した時のことが思い出された。


 いつかの晩、帰ってきた父の足の甲を鋭い枝が貫き、鮮血がだらだらと流れ出ていた。あんな怪我を足に負いながら、藤六は痛みを感じないのだと自嘲気味に笑っていた。その目は、地獄の深淵をぼんやりと覘きこんでいるような、絶望し、諦観した目だった。


 もう助からない体であることは誰よりも藤六自身が自覚していた。エツに嫌がられていることも分かっていただろう。そのうえで、強引にでも家に居座り続けようとした父だった。


 それがなぜ、今になって、急に姿を消したのか。

 なぜ、今まで一度も洞に様子を見に来なかった母が、この時になって父のもとを訪れていたのか。

 

 この胸騒ぎが、ただの杞憂だと確信したかった。

 

 千太は洞の中に入り、いつも藤六が座っていたところに手を置いた。まだ、温さが残っている。顔を上げた千太の頬の皮膚が、このとき、洞の奥から吹いてくる糸のように細い微風を捉えた。


(洞の奥は行き止まりでないんか…)


 まさかと思って、立ち上がった千太は壁伝いに暗い洞の奥へと進む。藤六が、この先にいるような気がしてならなかった。


 進むにつれて、風をはっきりと感じる。そして、濃い水の匂い。


 洞を抜けた先は、鬱蒼とした森だった。烏帽子山とは、どこか植生が異なっている。巨大な樹の根が地面に張り出し、苔むした巨岩が行く手を阻む様に連なっている。


 その光景を目にした時点で、千太は恐ろしい予感に絡めとられていた。そしてそれは、もはやはっきりとした形を帯びて、現実のものとなりつつあった。


「…ととさま…」


 千太の両眼から、大粒の涙があふれ出た。


「ととさま、ととさま…ととさま!」


 父の名をしゃくりあげて呼びながら、千太は樹々の根を飛び越え、くぐり、岩の間を抜けた。

 目の前に夜叉ヶ池が見えた時、千太は崩れるようにして岸辺に両膝をついた。


 藤六の草鞋がひとつ、まるで千太を待っていたかのように、水際の水面を揺蕩っていた。千太の目の裏には、まだあの供物の野兎が吸い込まれていく様子が刻まれている。


 父の亡骸は、きっと浮かんではこない。夜叉ヶ池に喰われてしまった。


 千太は、手を伸ばして水面に浮いている草鞋を取ると、それを抱きかかえるようにして地面に蹲り、肩を震わせ、声をあげて泣いた。


 目の裏には、元気だった頃の笑顔と、枯れ枝のようにうずくまる父の姿が、焼き印のように刻まれ、消えることはなかった。

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