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夫婦

 鮮やかな色をしていた樹々の葉は、次第に焼けたような赤茶色に変化してきていた。

 枯れた葉が、雪のように舞い落ち、地面に堆積している。その上に、鹿杖(かせづえ)が突き立てられる度、ざっし、ざっしと音を立てた。


 エツは烏帽子山の洞の前に静かに立った。


 家からここまではたいした距離ではないが、まるで千里もあるかのように遠く感じた。身体が自分のものではないかのように、だるい。喉にねばい痰が絡みつき、咳きこんだ口を拭うと、ひび割れた唇ににじんだ血が、乾いた筆でなぞったように、手の甲に線を描いた。身体の芯から冷えている感じがして、頭が痺れたようになっている。


 ――自分の姿を見てみい、エツ。まるで骨に皮が載っとるだけのような…。もう、これ以上は無理や。冬が来たら、おまん、死んでしまうぞ


 ウネの切羽詰まった涙声が、耳の裏でこだまする。


 ――藤六さは、遅かれ早かれ病に食われる身じゃ。千太とおまんが生きるために、今すぐに家を出て行ってもらえ。それが叶わぬのなら…おまんが、引導を渡すしかない


 そう言って、ウネは眦が裂けんほどに目を見開き、エツの手を取って固くなにかを握らせた。手を開き、袋を解くと、そこには、猛毒となる黒ずんだ乾いたカブトギクが入っていた。

 

 エツ自身も、もう道はそれしかないと、うすうす思い始めているときだったから、ウネの言葉に背中を押されたような気がした。

 けれども、いざ実行に移すとなると、やはり、恐ろしくてたまらなかった。いざそう決めてしまうと、今まであれほど厄介払いしたかった夫に対して、妙な情が芽生えてきたのだ。暗くなって帰ってきて、また夜明けとともにとぼとぼと家を出ていく枯れ木のような夫の背を見ながら、不憫で胸が締め付けられた。

 しかし、そうしてぐずぐずとしている間に、ますます家は困窮を極めた。日々、迫りくる冬の足音を感じながら、エツは焦り、悩みに悩んだ。

 

 そんなある朝、千太が、握り飯をもって帰ってきた。

 

 エツはその艶やかな米を目の前にして青ざめた。一瞬のうちに、千太が村で盗みを働き、その報復が及ぶという最悪の結末までが、走馬灯のように脳裏を駆け巡ったのだった。結果、盗んだのではないと分かってほっとしたが、これが実際のことになるのは時間の問題であるという、啓示めいた予感がエツを恐怖のどん底に突き落とした。

 

 それが、結果的に、最後の一押しとなってしまった。


 エツは口の中で小さく龍神の名を呼び、目の裏に日に日にやつれていく千太の顔を刻み込んで、異界への入口のように口を開けている洞の淵に手をかけ、中を覗き込んだ。


「…坊かえ」


 人の気配を感じ取って、眩しそうに顔を上げた藤六は、そこに見えるのがエツと知って驚いたように顔をひきつらせた。


「……エツ…………」


 エツは無言で洞の中へ、半ば落下するようにして転がり入ると、呻いたように身を起こして、藤六と向き合った。


「ずっと来てくれなんだおまんが…今日は、どんな風の吹き回しじゃ」


 藤六は最初こそ無邪気に声を弾ませたが、改めて向き合った妻の顔を見て、その笑みは搔き消えてしまった。


 明るいところでしっかりと見ると、目の前のエツはもはや藤六の知った姿ではなかった。

 ひどくやつれ、皮膚の色は土気色をし、唇は白くひび割れ、鎖骨は水でもたまりそうなほどくぼんでしまっている。あの艶やかだった髪は見る影もなく、油が抜けきって蓬髪のように乱れ、まるで地獄の亡者さながらだった。


 夫の露骨な驚異を孕んだ直視を受けても、エツは心を動かされることはなかった。むしろ、やっと現実が見えたのかと腹立たしくもあった。それでも、やはり、今から自分のしようとしていることに罪の意識は禁じえなかった。


「……これ、持ってきたんや」


 声が震えて裏返りそうになる。懐から笹に包まった握り飯を差し出すと、藤六はただれたようになった腕を伸ばして、受け取った。が、両手に載せたそれを、じっと見つめたまま、なかなか食おうとしない。

 やがて、藤六はどろりと目を上げ、その真意を測るかのように、目の前で身を固くしているエツを舐めるように見やった。


「…一度もここに来なんだおまんが、突然、様子を見に来て、握り飯まで…」


 生気の抜けきったやつれ顔には似合わない鋭い光を放っているエツの目を凝視しながら、藤六の目がどんどんと引きつり、見開かれていった。やがて、その頬が激しく震えだした。


 しばらく静寂があたりを包んだ。洞の奥から、岩壁を水滴が伝い落ちる音がさやかに響いてくる。


 藤六は、顔を握り潰した紙屑のようにくしゃくしゃにして、


「…おまん、今、俺を見とるな」


 唐突に、そう切り出した。それから、訥々と語り始めた。


「長う連れ添うとるが、おまんとは、ほとんど視線を交わしたことがない。斜目なのをええことに、俺の顔、見ようとせなんだやろう」


 藤六の充血した目の淵が痙攣するようにぴくぴくとして、涙が滲んでいる。


「嘘と図り事があるときだけや、おまんが、俺の顔をきちんと見よったのは。俺の顔色を伺うためにの…ほうやろう? ほれで、おまんは、今、俺を見とるんや」


 エツは返す言葉を失っていた。まさにその通りだったからだ。


 自分の目が好きだと思ったこともないが、ただひとつ、この目を理由に見たくないものを見ないようにできるのは便利だった。しかし、藤六がそのことに気づいていたのには少し驚いた。この男にそんな勘の良さはないものと思っていたから。


 エツの沈黙が、答えだった。それですべてを悟った藤六は、絶望したようにうなだれて、手の上にのった握り飯をしばらく見据えていた。


「…………結局、最期の最期まで、おまんは、俺のことを見てくれなんだんやのう」


 引き絞るようなその言葉が、鋭い刃となってエツを刺し貫いた。


 この男を愛していると言えばそれは嘘になる。が、しかし、連れ添ってきた年月分の情というものはあった。その情を培うまでの過程で、自分はもっと、別の関わり方ができたのではなかろうか。

 夫は、弱く臆病でなまけ者だったが、優しい男でもあった。エツは強いてその優しさだけを見るようにして、なんとか夫婦を続けてきた。それはまるで、自分だけが被害者のような心持にも等しかった。けれども、自分がもっと、まっすぐに夫を見ていたなら…。この日々は、少しでも違っていたのかもしれない。


「藤六さ、すまん…すまなんだの…」


 エツの目から溢れた涙が、頬から顎先を伝って、とめどなく滴り落ちた。


「片っぽの足しか使えん、村にも入れてもらえんようなおれなんかと、ずっと連れ添っとくれて、おおきに…。おおきにな、藤六さ…」


 嗚咽するエツの顔を、藤六はまるで見惚れるようにじっと見つめてから、穏やかで満たされた深い嘆息をひとつ吐いた。


「…うれしや。夢みたいや、おまん、やっとこさ、俺を見てくれたなぁ、エツ」


 そして強く唇を噛んでから虚空を仰ぎ、


「ひとつ、これだけは…。坊のととさまは、俺じゃと。何があっても、俺じゃと、あの子にはそう通しておくれ。ほれから、エツよ、自分なんか、なんて言うな。俺は、おまんと夫婦になれて、楽しかったぞ」


 藤六は、崩れた口元を歪めて破顔すると、一気に握り飯にかぶりつき、飲み込んだ。そして、嗚咽するエツを残して立ち上がると、暗い洞の奥へと消えていった。

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